2012年9月29日土曜日

湘南江の島界わい ものがたり(16) 一遍上人に始まる藤沢

               
                                              阪東湖人


 
 日照り続き、水不足の残暑でしたが、突然秋の気配と降雨。すると猫額庭の土中から、スローモーション映画のように、はぐれアサガオが芽を出し、ツルを伸ばし、アレヨアレヨという間に花が咲いた。そう言えばアサガオは秋の季語とか~~そんなこと習いましたねェ。
 一方冷気で彼岸花も一気に咲く気配だと、いかに湘南江の島新名物といっても、もうこのショウガもタップリの「生しらす丼」を楽しむ季節ではなく、せめてアッタかい「釜揚げしらす丼」や下記の「しらすパン」の季節ではないでしょうか。
 つい最近、集団的、個別的に”江の電島”を訪れた同期生で、この「しらすパン」をパクついた御仁もいるようやに聞き及びます~~皆さま宿泊ご予定の岩本楼 http://www.iwamotoro.co.jp/ 至近土産物街の店でのことです。

 ところで江の島のある藤沢ではこのほど、「第39回藤沢市民まつり」が盛大に開かれました。湘南らしくパレード、屋台村と多彩なイベント。そして今回初めて登場したのが遊行寺エリア。昭和30年代から40年代を再現、縁日やウイロウ売りの口上、サル回しなどが催されました。

 この遊行寺は一遍上人を宗祖とする時宗総本山。そもそも藤沢は遊行寺門前町として生まれ、「藤澤山」の山号が町の名となり、やがて東海道の宿場町に発展し、今日の藤沢市となった~~ということだそうです。
 遊行寺、残念ながことに、皆さま向かう江の島とは、JR藤沢駅からまったくの反対の山側、バスでは藤沢橋下車か、徒歩十五分の場所であります。

 ちょっと不便ですが、来年6月の記念同窓会来訪の折には足を運んでみてはいかがですか。ちょうど同期の出稼ぎ定着&地元住民化組の幾人かが、この近辺に住んでいるようだし~~この遊行寺~~まぁ、言うてみれば、小倉は足立山麓の黄檗宗の名刹、広寿山福聚寺のイメージ、雰囲気のようでもあります。話題、思い出にも広がること必至デス。

 若いころわたし、藤沢警察ご用聞きバッカだったので~この遊行寺、知りませんでした。バチアタリめが! 根アカで明るく、軽いノリが身上の湘南族のメッカ、藤沢が、こんな由緒ある街だったんですねぇ~
 ~~実際は”いいくら加減俗っぽい”あの鎌倉の社寺群よりは、ちょっと寄り道してでも、崇高な一遍上人の心に触れるのもいいのではありませんか。
 なお、境内では「アオが~」とか、「馬車の奴」とか、懐かしくとも、この手の悪口雑言は厳禁。天罰が下ります。でも、あの口の悪い湘南族、この掟、守っているとは思えません~~実際、参拝帰りに急停車のバス内で、シタタカおつむをぶっつけた者がおります~~~
  

2012年9月20日木曜日

別府・鉄輪までの貸切バス 日豊本線大分までの思い出

               
                                              阪東湖人


 福岡支部から今年の一泊旅行案内のハガキが届いた。いつもながらの丁寧な文面の詳細を覘く。別府、鉄輪温泉の文字に思わず目がとまった~
 もう60年近く前、小学校の貸切バス利用一泊修学旅行が別府、鉄輪温泉だったのだ~5クラスあった6年生で、わがクラスのバスだけが幸運にも、日野アンダーフロアエンジンのバス~
 ~またまた、マニアックになるが~日野アンダーフロアは、エンジンが前後輪間の床下。コーチビルダー、つまりボディーは西工製で、フロント運転席ウィンドウは2等分カーブドグラスという優雅さだった。 
 
 ~~他のクラスのバスはリヤエンジンで、フロント運転席は2面の平面ガラス。正面を見ればカナツボまなこ
状で、グ~ンと引っ込んだ運転席はアメリカ型。ボンネット型田舎バスを見慣れた老人が”鼻ペシャ・バス”と呼んだ。
 カナツボまなこに鼻ペシャは、広いアメちゃんの国が考えたもので、バス正面強度維持と、運転手の日よけには抜群の設計だが、左右視界が悪い。いかにも日本向きではなく、しばらくして消えた。でも本家の新大陸では当分使われた。大人気TBS~RKBネット「逃亡者」。故デビッド・ジャンセン演じるリチャード・キンブル医師は、この鼻ペシャ・バスを乗り換え、乗り換え、全米を逃げまくった。

 下記、進駐軍兵士撮影写真の左側の西テツバスがこの鼻ペシャ・バス後ろ姿。リヤウィンドウと、その下の冷却空気取り入れネットのシンメトリーも個性的というんだろうが、わたしの好みではない。この稀少、コダクローム総天然色写真は、昭和28~30年ごろの福岡市内。博多知らずのわたし、電停は「万町」とあるが、どのあたりなんだろう?

 で、別府まで、よい子たちの乗ったバス車列は、穴ぼこ交じりの砂利道、国道10号を砂塵を立ててひた走り、途中どこかで休憩はしたのだろうが覚えていない。
 ただ強烈な記憶は、宇佐から別府間の山岳峠のこと。ここでは進行路面が二等辺三角形状で、頂点を越えるバスが一瞬、宙に浮いた。この道、いまはもうないだろう。(その後12期先輩HPで、「立石峠」と判明)

 300人近くが泊まるのだから、鉄輪温泉の宿もかなり大きなもの。四方が廊下の中庭が温泉で、男児たちはここでイモ洗い状になったが、楽しかった。
 高崎山のサルも記憶にないが、いまもあるのか楽天地。その展望大型双眼鏡で別府湾の方を眺めたら、レンズの中にはノッポのあんちゃんたちが隊列組んで、真っ直ぐ行進したり、突然直角に曲がったり~~その曲がり方が運動会のよい子たちと違うので、ああアメちゃんだと、子どもにもわかった。既報、米陸軍病院での治癒兵士のようだった。
 日豊本線大分までの旅は、オヤジの金満兄への月いちペース「大枚現金拝領通い」の延長線上の話だった。わが伯父は、その岳父が国立大分病院に入院、ムコの力を見せ付けるため、弟たるオヤジに見舞いの旅を命じたのだ。

 この大分までの旅の魅力は、トンネルがあることだった。日豊本線は中津どころか、宇佐あたりまで、まったく平坦な線路だから。大分駅を降りて市電に乗り、雨にぬれて探し当てた国立大分病院。金満兄の岳父のベッド脇で、オヤジはいつになく畏まっていた。

 10年ほど前だが、あることで2度、JAL、ANAで大分まで空路した。市電は当然なくホテルに向かうタクシーで、国立大分病院のことを聞いたが、運転手は知らなかった。
 よい子の修学旅行から実に半世紀。温泉は別府駅付近の名物「高等湯」に浸かってみた。ぬるいお湯だったが休憩の広間で横になると身体がジンジン火照ってきた。

 名にし負うあの別府温泉の効能だ。熱海を知った親族の一人が、「あんなん、別府に比べれば赤子っちゃ」と言ったが、別府の町並み、砂浜でさえ温泉蒸気が立ち上る。それに海の幸の素晴らしさ~~ああ、福岡支部、今年の別府、鉄輪温泉一泊旅行、すばらしいものになるでしょう。来年の江の島組も頑張らなくちゃあ。

2012年9月17日月曜日

日豊本線の記憶は新田原の桃に山国川の老人、朝鮮戦争

               
                                              阪東湖人


 まぁ、関東では甲州山梨県が本場だが、桃の季節になると、昭和20年代に北九州消費地向けに栽培されていた、日豊本線沿い新田原の桃も忘れられない。皮をむく前、硬い桃を水でよく洗って繊毛を落とした。新田原の桃の繊毛は、いまよりもっと長く密で、手に取るとタンポポのように風に舞った。これが皮膚に付くと炎症を起こしたのは~~紅顔の少年だったかせいか~~いまは厚顔メタボ、それに品種改良で、いまや桃にも繊毛はほとんどない~~

 まず、話は鉄チャンから。写真の蒸機の排煙板は門鉄型デフレクター、いわゆる「門鉄デフ」でヨオロッパ、とりわけ独逸蒸機と、本邦では門司鉄道管理局内の機関区でしか使われないものだった。日豊本線に限らず、鹿児島本線でも走った。ただし筑豊本線は複々線どころか3複線の石炭大輸送がメーン。デフのない貨物型蒸機が片手間旅客輸送にも廻された。

 怖い小峯先生が時たま、各教室を笑わせたのは、例の「団玲子のような美人~」だけではない。日豊本線満員列車でぶら下がって通学の先輩が、駅のポイント通過の揺れでレール脇の電柱だったか、転轍機レバーだかで頭をしたたか打ち付けた。それ以来、この先輩は”アタマが良く”なり、九大に現役で合格した~というような話だったが、果たして本当かどうか~

 オヤジは経済感覚がゼロだったが、伯父たちには才覚があった。中津に豪勢な自宅があった、すぐ上の兄も元はといえば高等小卒の後、大阪鉄道連隊に入営、現中国遼寧省に派遣され石炭に接したのがきっかけで財を成した。
 後除隊の戦後は、大阪の石炭輸送海運会社の重役となり、大阪と九州とを頻繁に行き来した。伯父の山国川沿い中津の宅は、元陸軍少将の邸宅だった。

 「イマニ」というその元陸軍少将は、伯父が買い取った邸脇の、自分の使用人がいた小住宅に住み続け、洗い晒しの旧陸軍礼服、鳥の羽根付き帽姿にステッキを突く老人で、まるでチンドンヤ~~実に残酷な戦後模様だった。
 子ども心にも珍しい服装のイマニ元少将に寄って行った記憶がある。子どもにすら「トージョーは決して悪い奴じゃぁない」と言った。陸士ではずっと先輩だったのだろう。

 この光景をずっと覚えているのは、1月に1回は、中津までオヤジと金満伯父のもとに日豊本線で通ったからだ。
 日豊本線の駅名はたちまちそらんじた~「椎田~松江~宇島~中津」と、いまでも覚えている。弟(オヤジ)の中津通いが兄からの金銭受領と知ったのは、大人になってからだった。そんなことつゆ知らず、当時は相当のお坊ちゃん階級でなければ乗れない自転車も、小学低学年でこの伯父から貰って得意になった。周囲の友達はみな貸し自転車屋に並んで借りていた。

 オヤジの呑み過ぎで、月曜日早朝の日豊線通勤列車で中津から戻り、そのまま小学校に通学したこともあった。日豊線通勤列車は座る場所はほとんどない貨物車改造車。また伯父からの大金でオヤジ殿は気を大きくしたのか、子どもでも腰が沈む柔らかい座席の2等車に乗ったことも。進駐軍兵士がその2等車に入ってきたときはビックリ。でもこのGIたちは、意外や持参軍用毛布を通路床に敷いて座った。これはあの京都修学旅行夜行列車で今度はわたしが体験した。

 ある駅で向かい側に進駐軍専用列車が停まった。病院列車だった。目の前で窓のカーテンを全開していたその光景も忘れられない。のちに見た戦争映画そのもの。車窓の向かい病院列車の中には、顔、腕、脚に包帯を巻いた兵士が、ベッドに横になっていた。小銃もそばにあったのだ。のちに知ったが、病院列車が向う別府には、米陸軍病院・保養施設があった。

 小学低学年でイトコとリヤカー遊びで右腕を骨折した。骨接医の元には、進駐軍兵士と愛人らしい日本女性が来ていた。暗い顔で先に帰ったその2人のことを骨接医は「アメちゃんは朝鮮前線に行くらしい。あのねえちゃんが『彼の腕を折ってやって』と懇願したが、そんなことは出来ないと断わったところ」と言った。

2012年9月12日水曜日

湘南江の島界わい ものがたり(15) 日本人妻名義で別荘を

              
                                              阪東湖人


 江の島の高台にあるコッキング遺構、わたしは、ガキ時代に探検した小倉北区中井浜の櫓山荘跡に似ていると確信しています。でも「牽強付会」とはこのことでしょうか。まぁ遺構、紀元早々のイタリヤ・ポンペイに、また紀元前はるかの印度、いやパキスタンのモヱンジョダロ~にまで時代は逆戻りですが~「どこも似たものであることは確か」~と、イヤハヤものすごい観察眼デス~
~ところで最近、尖閣問題で中国の「核心的利益」という言葉がシンブンによく出ます。サムエル・コッキングにとっても、この場所は、故国をしのぶ「絶対譲れない」心の拠り所だったのではないでしょうか。

 なんでもコッキングは、明治の初めに英貨2ポンドで別荘庭園を建てたようです。当時の2ポンドを邦貨に換算すれば相当なものだったでしょう~
~というか、明治初期の本邦通貨はまだ未発達だったとも。しかも、外国人は土地購入など出来ないから、日本人妻名義だった。

 ヨコハマでも、山手、元町がハイカラさんで有名ですが、一方、鶴見の高台が出船入船の眺望、交通の便が良いため、外人さんが数多くいました。いまは、埋もれた歴史になっていますが、皆さまが5年前に神戸北野界わいを歩かれた、あの光景に似たものだったのでしょう。 

 江の島にかかわる明治黎明期の外人さん~もうひとりは、ご存知、あの大森貝塚発掘のエドワード・モース。品川から東海道線、京浜東北に乗ると大森の右手に「大森貝塚どうのこうの~」という記念碑が見えますが、下の写真のように、江の島にも記念プレートがあります。
 明治初年の東大のお雇いガイジンのひとりで、この江の島に臨海実験所をつくったということです。モースは日本が気に入ったのか、生涯に何度も長期来日、明治黎明期の恩人のようです。
 若いころ、神奈川県内で御用聞きをやったわたしですが、モースが江の島に縁があったとは、これは知らなかった。
 
 富士山が初冠雪で、いよいよ秋になってくるようです。相模湾の海につかるのは、サーファーさんだけか。これからさらに冬、早春の光景は、来年6月梅雨時の江の島記念同窓会の参考にはならないかもしれませんがお付き合い下さい。
 もう時効かなぁ~季節はもう少し前だったか~40数年前に”宮中某重大事件”が、この海でありました。毒クラゲに、やんごとなき身分のお方が刺された~この項、これ以上は永久削除~
 まぁ、江の島記念同窓会ですから、ガイジンサンの話は以上オワリということで、次回はもっと本題の、みなさまのご関心がある江の島(いや、江ノ電島というべきか)のほうに進めようと思います。

2012年9月4日火曜日

新若戸道路開通60余年前 この地にいた旧制高校庭球名手 

              
                                             阪東湖人


 戸畑区と若松区を結ぶ「新若戸道路」が9月15日(土)に開通することになったようだ。半世紀前の若戸大橋の開通は、五市合併の前座でもあり関心も高かったが、今回は目立たない海底トンネルのことでもあり、どうであろうか。エンジニアの同期諸氏にはフツーのことだろうが、それにしても技術の進歩はすさまじい。

 この手(潜函式)の海底トンネルは、わが初めての海外旅行たる「英領(当時)香港の九龍トンネル」で実感した。それでも往路は下記写真、いまも人気らしいスターフェリーの、それも安価だが波で大揺れの二階席に陣取った。まぁ、映画「慕情」での記者サンと美人医師の悲恋物語”追体験”~~ではなく、野郎2人珍道中。アンチョビ入りピザを初めて食ったのも、この香港のイタリア食堂だった。
スターフェリーの写真
スターフェリー (トリップアドバイザー提供)

 ところ変わって洞海湾のフェリー、若戸渡船がいまも健在なのは、心強い。若松系明治学園ー小倉高組には負けるが、わたしも若松に縁があり、若戸渡船を数多く利用した。だがそれ以上に、この新若戸道路の戸畑側入口の川代岸壁地区、ここは幼児時代過ごした場所。そこが海底トンネル入口になったとは、若戸大橋どころではない~~隔世の感~

 ~もう60年以上も昔になる終戦から3年後のこと。オヤジがかつての部下と一緒に、この川代岸壁地区に戦中からあった松浦化学研究所を買い取り、合成(代用)ショウユを造った。ただし明大応援団あがりのオヤジにそんな芸当、あろうはずもない。旧部下の福井さんがいたからだ。のちに聞いた話だが、福井さんは京大工学部出のインテリ。幼児のわたしもよく遊んでもらった。旧制高校では庭球の名手だったとか。

 福井さんは海風が吹き抜けるこの地でも、庭球ラケットをよく振っていた。さらなるこの福井さんの意外な素顔はのちに譲るが、庭球ラケットは愛宕が丘時代まで福井さんとの懐かしい思い出としてわが勉強部屋(?)に飾っていた。写真右側木造建物が旧松浦化学研究所。眼鏡をかけた右人物が福井さん。上下写真は奇しくも同位置。60余年後、この土地の下が新若戸道路トンネル入口として掘り進められたのだ。

 その旧松浦化学研究所には、いろんな実験用器具があった。
 精密秤の分銅は極小から特大までズラリ並んでいたが、小さなものは幼児のオモチャには格好で持ち出して遊んだ。フラスコ、ビーカーとは名称はもちろんのちに知ったものだが、珍しく見え持ち出しては割った。親にはナイショのつもりだがバレバレ。
 長じての高校時代、高橋先生、木下先生の化学物理実験室の備品類が、実に懐かしいものに見えたが、その後のわが人生に結びつくことはなかった。
 その福井さんが旧松浦化学研究所購入を采配した。この化学研究所で合成ショウユを造る~~工学部出の福井さんにはオチャノコサイサイ。どんな味だった知らぬが、ショウユは貴重品で求める人が、朝早くから並んだ。空襲で焼け出されて食器も十分ないのか、毎朝、皿でショウユを求めに来た婦人は幼児心にも記憶に残る。
 当然、大儲けで、元化学研究所改めショウユ工場には、親族、オヤジの友人と、いろんな人が出入りした。友人で同じく応援団あがりM氏は、まもなく県会議員に立候補した。八幡に若戸地域は大票田、M氏が三輪トラックの荷台の上で演説する姿をおぼえている。もう故人のM氏、まぁ、「メガネドラッグかっぷくメタボ」に先立つ、郷土選出の大臣ともなった。

 オーストラリア先住民アボリジニーは、厳しい生活環境の未開時代、「モノすべて分かち合いで生きる」知恵を持った。先進国民はそれを”所有観念がない”と切り捨てる。まぁ、オヤジも、このアボリジニー的感覚というか、儲けた金はほとんど分け与え、使ってしまった。
 わたしが懐(なつ)いた福井さんのその後は~~病を得て早く亡くなったのだが~福井とは偽名で、本名は「ヤブノ」さんで、滋賀県の大地主の放蕩息子。奥さんと呼ばれる人がいたが、実は愛人だった。滋賀には本妻と子どももいた。わたしを可愛がったのは郷里に残したわが子を想ってのことだったろう。でも京大工学部卒は正真正銘で、遺骨は本妻さんが滋賀へ持ち帰ったと聞いた。人生いろいろ~~世に出る人の周りにも、さまざまな人生模様がある。


2012年9月1日土曜日

湘南江の島界わい ものがたり(14) 英大使館のカマクラ学校

                 


                                              阪東湖人


 ようやく航空写真、見つけました。大西洋越え、遥か寄せ来るメキシコ暖流に洗われる英コーンワル半島の名勝、セントマイケルズマウント。ものがたり(3) 「モンサンミッシェル?」で、偉そうに偉そうに、ケルトがどうのこうの書いたなかにある、「エゲレスの湘南江の島」がここなんです。
 ご婦人方あこがれの、おフランス・ノルマンディーのモンサンミッシェルの原形、というか~~このセントマイケルズは福砂屋、モンサンが文明堂~~長崎カステラになぞらえると、実に分かりやすい。
St. Michael's Mountの写真
St. Michael's Mount (トリップアドバイザー提供)

 英マイケルと仏モンサンは、英国海峡をはさんで330キロの対岸。しかも仏モンサンの沖合いには、濃い牛乳で有名なガーンジー、ジャージー島のある英領チャンネル諸島。
 ~ノルマンヂー公ウヰリヤム~~ロビンフッドの時代~~ブルターニュともども英仏、複雑な歴史と領土の変遷でしたねぇ~~あぁ、沖先生の授業にガッコサボって見た映画、黒太子エドワードを演じるエロール・フリンを思い出します。

 で第二次大戦緒戦、英軍のチャンネル諸島守備隊は、ご近所おフランス軍と並んでドイツ軍に早々と降伏したのに、「わが英国には、ヒトラーの軍は一歩たりとも踏ませない!」なんて、チャーチルの詭弁術。
 竹島も、こんな英仏国境関係を学べば、ネェ韓流オバサマ方、楽しい観光地にもなるのに~~。

 それで~~右の航空写真がわが江の島デス。なぜガイジンサンが、ニコニコ顔で江の島にやって来るのか、よく分かりますね~対岸も含め、セントマイケルズに実によく似ています~。
~~ものがたり(6)中井浜の櫓山荘跡が? の最後のほうにシタリ顔で書いた~
一方、江の島の高台には、明治中期の英人貿易商サムエル・コッキングの別荘跡があるのです。~~なんて。さらにアイルランド系コッキングさん、遥かコーンウォルはセントマイケルズを偲んだのでしょう~~これ、間違いないデス。ホラ! 江の島の「コッキング苑」は、まさにこのセントマイケルズ耶蘇教寺院の位置にあるから。でも藤沢市教育委員会さん、こんなん知らないだろうなぁ。 

 ところでみなさまが6月7日に向うお隣の鎌倉には、英国大使館の日本語研修所。入ったことないですが、通称「カマクラガッコ」。かの日は市川雷蔵主演の活動写真「陸軍中野学校」を連想、少々閉鎖的な印象。極東担当英秘密情報員を養成するのではないか~~と邪推もします。

 でも、歴代大使閣下から書記官まで、東京大使館に勤務するものすべて日本語特訓とか。現ウォレン大使も卒業生。遥かに望む江の島を多分、故国のセントマイケルズに見立て、お勉強に励んでいるのだと思います。
 あぁ、茅ヶ崎の松下政経塾サン~~ココもなんや”怪しい人”ギョウサンの集団だけど、「カマクラガッコ」と交流があるとか~~

 一方、横浜の山手には、米国務省日本語研修所があります。ここは、アメちゃん外交官のほか、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドと、英連邦外交官が日本語を学習しており、かなり開放的で、構内はニホンゴ厳守。通弁もどき不肖わたしもなぜか自信満々、ガーデンパーティに何度か行きました。
 ところで、英国大使館の「カマクラガッコ」がなぜ、自らの海外自治領たる英連邦諸国の外交官を教育しないのか、今もって不思議な閉鎖主義。そういえば「アメリカが最初の”英連邦自治領”だよ」と笑って言ったエゲレス人もいたなぁ。