2012年6月29日金曜日

湘南江の島界わい ものがたり(8)国王,妃と思い出の地へ



                                              阪東湖人


 まぁ相模湾でのヨットといえば、この写真が示す、芙蓉の高嶺を望み、かつては映画俳優の別荘が並んだ三浦半島の油壺がその代表でしたが、東京オリンピック(1964年)でのヨット競技の主会場が江ノ島となってから、主役の座を譲った感があります。

 江の島が国際的ニュース発信地となったからです。スウェーデンのヨット兄弟選手が、海へ投げ出されたオーストラリア選手救助にレースを中断、逆走して救助にあたった~~という、いかにも日本人好みの美談。また当時ノルウェー皇太子~ハラルド殿下だったかなぁ~もヨットレースに出場して話題となりました。

 で、そう~ハラルド殿下もエラク江の島と相模湾が気に入って、1970年にも東京オリンピック感傷旅行だったのか、非公式に来日しました。
 またこの漁業大国の次期国王サン、その面ではライバル国日本の漁業に関心があったようで、三浦半島の魚市場もワザワザご視察遊ばされたのです。たまたま遭遇したわたしですが~警察署御用聞きの際中~~で、しかと写真を撮った記憶。でも綺麗な王女さまではないので写真紛失、ノッポなあんちゃんだな、という記憶のみです。

 ところで江の島では、ゴールデンウィーク前の4月17、18日に「第9回ノルウェーフレンドシップヨットレース」が行われました。このヨットレースもハラルド殿下がキーパーソン。というのは、ハラルド殿下は1991年1月にノルウェー国王となられ、2001年3月には王妃とともに公式訪問。天皇・皇后両陛下とともに、思い出の地、江の島をまたも訪れているのです。
 ネアカ湘南江の島界わい人士は北欧国家元首ご光臨で感涙にむせび、江の島ヨットクラブを中心に地元関係者、当時のオリンピック選手たちが大歓迎のパーティを開いたそうです。
  話はトントン拍子か~~湘南勝手連なのか~~ここぞとばかり~江の島ヨットクラブでは、毎年4月にノルウェーと日本の友好を促進するための親善ヨットレース、「ノルウェーフレンドシップヨットレース」を開催することとしました~~とさ。

 まぁ、湘南の明るく暖かい海辺~ノルウェー国王が気に入ったのは分かります。リレハンメル冬季五輪が終了後だったか、7月にノルウェーに出張しました。
 ほとんど太陽は沈まず、でもフィヨルドの海は冷たく、岩場にはアザラシがチョコン、チョコンと姿を見せました。フィヨルド連絡船のデッキには、なんと「アツカン、ビールあります」と、日本語の貼り紙。この地に根を下ろした、日本の元マグロ船員が観光ガイドをしている例がチラホラ。また北陸の元教員グループがフィヨルド観光中で、「半年ごとに海外旅行してるの~」とのことでした。 

 「ガッコのセンセたち優雅な老後だなぁ~」と、こっちは仕事を気にしながら思ったものですが、問題は~~~食べ物。酒はやたら高く、日本人好みの食品はコレ少なく、タイ人経営の中華料理店で一息ついた思い出。消費税もやたらに高く、いや北欧は厳しい風土、土地。でもノルウェー、現状本邦民主党並み(?)の「混迷EU」には賢く非加盟、いわば”院外団”サンで、実はアメリカの庇護下、NATOの優等生。
 ところで上記写真は、日帰り温泉の”江のスパ”。ハラルド殿下、いやハラルド五世国王陛下も、この新しい娯楽施設を知ったら「江の島にまた行きたい」とおっしゃるかもしれませんョ。

2012年6月24日日曜日

8万人の小倉に東京下町5万人が~造兵廠「民族の大移動」



                                              阪東湖人
   
  以前、「筑前と豊前小倉の国境いでも民族の大移動"文化戦争"」との題で「~~君津では房総弁(正確には上総弁)が一夜にして九州弁に変わった」エピソードを書かせて貰いましたが、戦前の小倉には、これとはまったく逆の現象があったことを最近、知りました。「かんもん北九州ファンクラブ」会報にある、ミニ講演会総集編http://kan-kita.com/kan-kitafc/vol_93.pdf の「商業都市小倉の町の変遷」からです。
 このファンクラブ会報の委員長、また副代表でもある小倉高11期先輩のミニ講演報告 、 「造兵廠の移転が小倉を活気付けた」との項で、こんな話が載っています。
 ~~関東大震災で被害を受けた造兵廠を小倉に神崎市長が誘致。(昭和8年 人口8万人の小倉に5万人の江戸っ子がきた) 小倉弁が変化したほど~~
 なお、pdf ページは非常に重い(10.25MB)ので、開くのに時間がかかります。

 同期生S君を思い出しました。お父上は造兵廠の移転で東京から小倉に来たということでした。また半世紀前ですが、小倉のある商店で出会った、わたしの周囲には珍しかった、気さくだが礼儀正しい女性のことも。
小倉在住何十年のこの女性も、親が造兵廠の移転で東京から小倉に来たということでした。子どものころ、髙島屋や三越の屋上で遊んだことを大変懐かしがったのです。

 一方、「ナットウ!ナット、ナットウ!」と、納豆売りの少年の声が毎朝響いたのが戸畑の早朝でした。昭和初期を東京で送った故オヤジは毎回呼び止め、オキュウトよりも納豆を朝飯に好みました。
 またオヤジどこからか、キムチを買って来たことがあり、まぁこの両食品で家には複雑なニオイが漂いました。ああ、まだトイレも水洗でなかったし~~脱線しましたが、納豆を食すヒトが地元にかなり多かったのです。
 で、先輩の記す、小倉とその周辺、実際8万人の小倉に5万人押し寄せれば、「文明の衝突」も起きたでしょう。博多と違った擬似的標準語もNHK小倉放送局の影響というよりは、先輩の言う5万人の江戸っ子がきた~からだったのか。

 東京オリンピック前年にわが家は、”夜逃げ同然”で戸畑から東京赤羽に身を寄せました。城北の赤羽は、いわゆる上級サラリーマン族の多く住む、世田谷、杉並お上品イメージとは違い、「ベネルクス並み人口稠密地帯」という擦り切れた表現が適切か~北九州工場地帯に似た気さくな下町でした。
 北九州の「カクウチ」同様の早朝から開く酒場もあり、住んだのも陸軍被服本廠跡地。この写真は昭和40年代初めの被服本廠跡地の姿。当時近くあった自衛隊施設も戦前は陸軍兵器支廠・造兵廠から、戦後は米軍兵器補給廠と変身を繰り返したものです。まさに小倉造兵廠の変遷とよく似ていました。

 話を北九州に戻しますが、わが先祖の地である八幡大蔵一帯には「神田」、「神保町」、「末広町」と東京下町から、また上本町は大阪、三条などは京都なのか、それぞれ採ったような名残があります。
 民族の大移動ではないが戦前、官営八幡製鉄所でも同様の文明の衝突はあったようです。でも、こちらは数は少ない幹部クラス子女の話。「東京から転校してきたナントカさんたちはまったく地元と違っていた」~~とは、旧八幡高女時代の母親の思い出。
  それにしても「小倉のどこかで見た、経験した」と、東京下町で感じるもの~~やはり、この造兵廠の大移動が源流ではないでしょうか。実は「かねやす饅頭」も、東京下町のものでした。  

2012年6月21日木曜日

湘南江の島界わい ものがたり(7)骨董、鎌倉はもっと高価



                                              阪東湖人
   
 原題は D-DAY THE SIXTH OF JUNE で、邦題「あの日、あのとき」。中学時代に若松の映画館で見ました。悲恋ロマンス、だが連合軍ノルマンディー上陸作戦も盛り込まれた作品。のちに1955年制作の米映画と知りました。
 おフランスはノルマンディー。この時期は悪天候で有名。でも1944年の6月6日だけは一瞬、天候が回復すると、英海軍気象部長が予測したのが歴史を変えた~~ああ、来年江の島もそうであってほしいデスネ。 

 で、アイゼンハワーが決断し、(民主党の輿石みたいなクセ者)英モントゴメリーも珍しく賛意示し作戦を決行~~このコーネリアス・ライアンの THE LONGEST DAY は、邦題「長かった運命の日」としてリーダ-ズダイジェストに抄訳が載りました。
 でも高校三年生のとき大門の洋画封切館で見た題名、あの「史上最大の作戦」でした~~わが遅れてきた軍国少年の思い出はこのくらいで~~

 で来年、まるでこのD-DAYのような「6月6日決行」とおっしゃられる江の島鎌倉記念同窓会。梅雨時の片瀬江の島海岸の天候、またアジサイがどうかとかの自然風物~平日の土産物街~みなさまのお気に召すだろうかとか~~老人性特有症候群、勝手に気にかかり~~台風一過の20日、江の島にまた出張りながら行ってみました。片瀬海岸では台風余波の高波を、このときとばかりのサーファーさんたち。海の家もパラパラ建ちはじめました。

 モノレール湘南江の島、江ノ電江の島の両駅から、江の島に向かう土産物街ですが、もちろんヒッソリ閑。でも英国家具装飾品とかアンティークの店、壊れたステンドグラスを何万円もの値段で売っていました。
 ~欧州で古い町並みを取り壊した際、ステンドグラスはガレキ処分していました。故オヤジのしゃべり口、遠賀若松弁で「あ痛! シマ(クリカエ)ッタ。アレ買うとればよかったバイ」~と、また思い出し残念です。

 明治40年代創業の宿屋を3年前に廃業、骨董屋に転業した石政の主人を再訪。いろいろ片瀬江ノ島裏話も聞きました。そのとき古陶器を求めて地元鵠沼の上流(?)婦人。「龍口寺でも骨董市があるわ」とか。鵠沼は昔は小説や映画でよく登場する超高級住宅別荘地。当時外交官OB、弁護士とか在住~だったそうですが、いまはまぁ、どうか~~~~。
  で、団塊世代の骨董屋主人からは皿と塗りもの買いました。「鎌倉で出すともっと高く売れるんだが~」と主人。もちろん岩本楼とはジイサン以来同業者仲間。
 「岩本さんはいいホテルだよ。うちの常連さんたちだからと言っとくよ。でも築地からバックしたここの魚では、九州の人じゃァ~向こうはゼンゼン鮮度が違うから~~まさか、しらす出してもなぁ」と主人。
 実際、室見川シロウオを食す福岡支部紳士には「なんやコレ?」と言われそう。

 実はわたし、先日は半世紀ぶりの帰倉でしたが、大分には過去二度JAL、ANAで空路しました。
 大分支店経験者の紹介で泊った別府の宿で出された魚。ヨコハマ育ちの同行者が戻って言うには、「(アレ以来)俺はモウ東京の刺身は食べれなくなった」~と、真顔。~そのとき同席の千葉船橋高校OB(野田佳彦の後輩か)、「こちらが古い?そんなことありませんよ!」とイキリ立った。
 船橋は魚の冷凍庫群は日本一とか。でもナンカ世界分かっていませんねぇ。船橋にフナ高~そんなお土地柄なんでしょう。
 ああそれから佳彦の「彦」のことですが~~その昔、美術室の午後でした。某さんが石膏像デッサンしながら、「わたし、~~彦というような男の子の名前、キザで大嫌い!」と言いました。「そうか、『彦』は嫌いなんだ」とわたしは当時は思ったのです。でも年を重ねながら、真意に気付きました。
 モテ男~~彦クン、同期にいたかなぁ~江の島に来るかなぁ。

2012年6月17日日曜日

湘南江の島界わい ものがたり(6)中井浜の櫓山荘跡が?


                                              阪東湖人

   
 ものがたり(4)の巻でしたが、~JR藤沢までリムジンバス、JR大船ではモノレールでどうのこうの~~と、なんやゴチャゴチャ書かんでも、この地図写真で江の島・岩本楼への交通路、もうスッキリと分かりますね。 

 ところで明陵とか、菊陵とか、ガッコのなまえでやたら好まれますが、その陵、第一義は丘と言うても、もっぱら天子さまとか、尊いヒトの陵墓の意。そういえば卓球部がよく階段ランニングしていた明陵の愛宕神社脇も、小笠原家墳墓群でしたネ。

 で、これまたまったく逆の陽の面で、岩本楼の「楼」~~新字体でつくりを米と女にしたように、なんやこれも原義を離れた二次、三次的には「歌舞音曲を伴う歓楽や飲食の場所」のニュアンスが強いですね。
 鎌倉時代は修験坊だったというのに~~江戸天下泰平の世では、丹沢の山岳信仰、峻厳な大山詣で身も心も洗われる~~さぁ、その後は? 実は帰りは藤沢街道を下って世俗的骨休めの歓楽境、江の島で~という面が多分にありました。
 第一、観音サマが鎮座されるというのも、江戸市中~イヤ、江戸学のあのサイデンスティッカーさんの言うところの「当時は辺境の歓楽街、浅草」と江の島、言うなれば同じじゃないですか。

 で、またこの観音サマ江島神社への参拝路=岩本楼へのルートにも、かの時代、遊妓を抱えた店があったそうです。やがて明治ご一新、歴史的世俗の第二波は、英国人がヨコハマからやってきたことです。ものがたり(3)で述べました西洋人、とりわけ湘南大磯あたりをイングランド南部海岸に見立て、海水浴を広めた英国人たち、江の島が英コーンワルのセントマイケルズマウントさながらで、望郷心に駆られたようです。

 その明治の終わりころ、西洋人と邦人成金の別荘、洋館建設ブームに沸くこの湘南の片瀬海岸に、相模の国の多くの石工職人が集まったそうです。
 相模の国でも、西の熱海に近い真鶴では高級な石材、小松石を産し、東側の三浦半島付け根横須賀佐島では、佐島石が有名です。そこいらの職人さんたちが建設ブームで、いま言う湘南片瀬江の島に、材料の石材ともども船で続々来た。

 で、おまっとーサン~エェ、パンフレットに同じ写真あるヤテ?
~まぁ下記写真がみなさま、お待ちかねの岩本楼  http://www.iwamotoro.co.jp/ 入口。ズズィッとどうぞ中へ。その自慢の相州産石材をたっぷり使っていますね。

 まぁ、往時の界わい~~言うてみれば和製西部劇~腰の革ベルトに石を刻むノミを挟み、宵越しのゼニは持たない気風の石職人の親方、オニイサンたちが通う酒場は、メリーさん、ペギーさんに相当する仇な姿の姐さんの世界。片瀬から江の島にかけにぎわったそうです。小田急片瀬江ノ島駅の竜宮城スタイルは、なにやらそのシンボルなのでしょうか。
 
 一方、江の島の高台には、明治中期の英人貿易商サムエル・コッキングの別荘跡があるのです。実は、「小倉北区中井浜の櫓山荘跡」にソックリ。興味のある方は同窓会当日、ここを訪れるのもいいでしょう。
 江ノ電経営の有料エスカレータ「江の島エスカー」を使えば、石段を上がると20分かかるところ、わずか4分と、楽チン。ああ同じようなエスカレータ、香港島ならタダなのに~~
 で、このコッキングさんもこの地で多分、若き日、あるいは両親から聞いたであろう、遥かコーンウォルは、セントマイケルズを偲んだのでしょう。こんなん多分、藤沢市教委のパンフレットには載っていないと思います。

2012年6月13日水曜日

湘南江の島界わい ものがたり(5)トンビとラスカルに注意


                                              阪東湖人

   
 前回箱根同窓会でみなさま、秀峰富士を堪能されたことと思います。が今回は、相模湾から見る富岳~という楽しみでしょうか。昔、安藤広重、でもなんや「いつの間にか」の裁判員制度と同じく、歌川広重となった、その広重の絵の構図を想像してください。
 初代ソニーサイバーショットでパチリ下記の富士山は、残念ながら三浦半島油壺からですが、想像の足しにはなるでしょう~右の白い漁船あたりが江の島。みなさまも同様の絵巻、芙蓉の高嶺を仰ぎ見るのでは? 

 でも、わが独断と偏見ですが、湘南広域で言えばまず三浦半島葉山町上山口の高台から眺めた富岳の姿がサイコー。
 空撮風景のような景色が広がる高台は、昭和47年頃まで米海軍高級将校の専用住宅地。それまでアメちゃんは、相模湾と富士を独り占めにしてきたのです。
 この上山口につながる尾根にはその後、湘南国際村が誕生、この高原住宅&学術施設からの富士、相模湾もまた素晴らしい。

 ああ忘れていた~~某君ら会員もいらっしゃる葉山国際カンツリー倶楽部もそう、絶景エリア。そのクラブハウスは絢爛豪華、地下2階地上2階。日本のゴルフ場、なんでああ立派なんですか。米欧印度大洋州、ステータスあるゴルフクラブ言うても、せいぜい食事はサンドウィッチ程度。簡易シャワー室もあったりなかったり~~でも東南アジヤでは近年、日本スタイルが蔓延の気配とか。

 で、何が言いたいのか? それは上山口、湘南国際村からこの写真の江の島まである「トビに注意」のカンバン。かつてはトンビ注意看板など、あまり見かけなかったことです。潮風あふれ、常緑樹の山野だった湘南・三浦は、トンビの楽園でもありました。
 昔はヒトとの棲み分けが調和していたのでしょう。観光地湘南に人が集まり、みやげ物店も増え多分、結果的に餌付けをしたことになるのでしょう。物を持つ手を上げたり、かざさないことです。相模湾上を音もなく遊よく、獲物を見つけるとサッと急降下、あのトンビが襲ってくるかもしれません。

 なお、あの三橋美智也も「トンビがクルリと輪を書いた~」と歌っていたのに~~この江の島の看板はトンビを「トビ」とわざわざ汚く修正していますネ。「そもそも正しくは~~」というセンセでもいたのでしょうか。

 同じような話は東京メトロ千代田線の根津駅でも。この駅の案内板「東京大学方面」の英語表示は以前 University of Tokyo でした。
 ある日、「本学にThe が付いてないではないか!」と、本郷学者センセの怒りを買いました。恐懼したメトロは、一カ月ほどかけて The University of Tokyo と、構内案内板すべて改修したのです。
 でも東大柏キャンパスのあるJR柏駅はまだ University of~のまんま。また本郷のセンセご存知か?川端康成ノーベル賞にかかる、スウェーデン國「唯一、至高の」王立委公式英文でも東京大学に The はありません。
 その本郷のセンセも愛飲するのか~~サントリー ・ウイスキー。この The はなんや?
 どや顔の壽屋サンに、対する老かいな英国~まるでガキは相手にしないとでも言うのでしょうか。Whiskyはスコットランド産。アイリッシュはおろか、バーボン、カナダ産などすべて Whiskey の表記を求めているのに、日本のWhisky には何も文句言わんもんね。

 まぁ、The ウヰスキイと、The University は別次元のオハナシ。明治黎明期~当時、ニッポンの大学校ここだけ~で、お雇いガイジンが勤め先を The University とでもメモ書きした名残では?実際、英人にこの The University of~ を質したら、「ナンヤそれ? ダイ(ダイアナ妃)も、The はナイヨ」だった。
 湘南、相模湾から大幅に脱線。でもみなさま、江の島のトンビと鎌倉のアライグマラスカルにはご注意を! そうそう、河口より数10キロ上ったロンドンもテムズ浄化で潮の香りが増したのか、トンビが増えているそう。で、まぁネアカ湘南人は、「トンビもロンドンと同じジャンカ!」と、どや顔になるかも。なお、ご注意!!

2012年6月6日水曜日

湘南江の島界わい ものがたり(4) 羽田~藤沢リムジン直行


                                              阪東湖人

 鬼が笑うといいますが、来年のきょうは、みなさま江の島ですね。さて、どう行くべきか。新幹線でも羽田空港利用でも、まァちょっと考えます。正直、浅草川向うのスカイツリーのように、ススッと行けるとこでない相模の国。
 でも、今回は医者に学者に弁護士のセンセを除けばほとんど、もう引退族。前回の箱根同窓会の時代のように皆さんバリバリの現役ではなく、同窓会場への集まり方も違うのではないでしょうか。 

 病気自慢、孫自慢(それに年金自慢)は同窓会では禁句です。でも今回、関東在住の孫の寝顔を見てから江の島へ向う爺、婆という方も多いのでは? とあらば、娘、息子サンの意見を聞いて、江の島詣ルートを確かめて下さい。
 私にしろ、三十年前だったか故オヤジを、町田から藤沢街道を下って当時の加山雄三のパシフィックホテル茅ヶ崎まで、トヨタ車で送り届けたことがありました。これは翌日が茅ヶ崎沖での釣り大会での話でしたが。

 で、江の島同窓会当日到着される羽田空路族、それに新幹線族に絞ってご説明。羽田からは、江ノ電バスと京急バス(いわゆるリムジン)が、JR大船経由JR藤沢駅南口まで、ほぼ一時間に一本直行運行しています。この藤沢駅から江ノ電の江の島、小田急の片瀬江ノ島のどちらかにいらっしゃるのが一番です。江ノ島に江の島と、ややこしいデスね。
 ああ、わが同好「鉄ちゃん族」でモノレールマニアの方は、ゴチャゴチャ言わんでもよろしか~~このJR大船駅から中途半端な終点、湘南江の島までモノレール。崖をエレベーターで降りて下さい。上の写真のように、すぐ手前が江ノ電江ノ島駅。この両駅から江の島までは約千メートル。あまりパッとしない土産物街から海風に吹かれ、プロムナードを通れば江の島です。

 ところで新幹線族はといえば、新横浜で降りると、横浜線乗り換えで横浜駅。さらに湘南、横須賀線でJR藤沢、JR鎌倉のどちらかに向う。で、江ノ電、小田急に乗る。でも横浜線は昔、横浜への通勤に使った印象を思い出し、おススメでありません。横浜駅手前の東神奈川駅止まりが、チョボチョボあるのです。
 で、新横浜駅では横浜線やめて、なんやアメリカみたいなヨコハマ地下鉄ブルーラインにすると言っても、横浜に着くとJR乗り換えに親切な構造ではありません。
 結構、乗り換え面倒です。いっそのこと、新幹線は品川まで乗って、湘南、横須賀線で大船、藤沢、鎌倉へ~というほうが料金はホンのチョッピり高いですが、乗り換えが楽。

 なお、あまり歩くことなく、江の島の岩本楼近くまで直接バスで行きたい人には、藤沢、大船、鎌倉から江の島までのバス路線があります。
 まるで馬来ジョホール水道橋をバスで渡り、シンガポールに向う気分になります。
 真上のバス時刻表は、江の島発のものです。注意されたし。参考にはなるでしょう。でも、来年のこの日は~~ご安心下さい。
 江の島同窓会には強力な世話人チームが、みなさまの利便性に見合う、何か交通公社的な秘策、対策を練っているやに聞きます。

2012年6月1日金曜日

俳人久女、白虹を快刀乱麻 ”独断偏見"倉高先輩と思永中


                                              阪東湖人

  ユニークな「生前告別式」という、旧小倉中学35期にあたる大先輩ホームページがある。「悲劇の俳人・杉田久女とその夫・宇内」http://tawara777.blog48.fc2.com/blog-entry-2252.htmlと、さらに「恩讐の彼方へ」tawara777.blog48.fc2.com/?mode=m&no=2256 を興味深く読んだ。
 それは、文学はど素人のわたし向けに、あえて平易な文章で書かれたのか~とお見受けするほど。俳人、医師、小倉地元政治家でもあった横山白虹には、俳句同人の久女に、文学を超えた人間的な激しい”ジェラシー”があったと、この大先輩はみる。これは意外なことだった。

 わたしにとって横山白虹の最初の印象は、思永校歌の作詞者。しかもその中学時代は女優清川虹子への連想というお粗末で、白虹を女性と信じた。長じて白虹は男性で医師でもあると知った。また偶然、とある短文が目にとまった。~~「上京の際、定宿としていたホテルの従業員で、小説に才能のある若者を松本清張~イヤ”清張クン”とあったかも~に紹介した」~という内容。その若者とは、のちの推理小説の第一人者、森村誠一だった。

 ところで久女とその夫宇内とは、小倉中学美術教師の杉田宇内と妻、久女のこと。最近、杉田久女の俳人としての再評価が高まっているが、それは横山白虹が亡くなったことが大きい~と、杉田宇内の教え子でもあるこの先輩は断じておられる。わたしにはテレビでの白虹インタビューも記憶にあるが、好々爺だった。さらには、少なくとも人を見抜くことに於いてはプロ中のプロの柳路夫氏も、小倉時代から白虹に惚れこんでいた様子が以下にみえる。http://www.hb-arts.co.jp/091020/tsuido.htm

 古今東西、人は大御所に聖域を配するものなのか。身の程知らずにも法律で身を立てようと思った若いころ、古色蒼然だった刑法について、専門家から愚痴のような話を聞いた。
 「刑法大御所のO先生がご存命の間は、改正まかりならぬ空気なんだ~」というものだった。
 女王即位六十年を祝い、五輪も間近の英国だが、エリザベス皇太后が大往生されてからまもなく、英皇太子は念願の再婚を果たしている。はるか日本には、長寿慈母のごとく伝えられた英皇太后。だが英領インド皇妃としてこの収奪帝国の最期を見届けた皇太后の素顔は逆、実に強固だった。

 もはや歴史上の存在である人物群について、それぞれが自由に評価、感想、感慨を持てるのが現代である。先輩はまた文学上の清張サンにも辛い点を付けておられる。もし興味があれば先輩のホームページをご覧いただきたい。
 わたしも、清張サン初期の作品と体験した朝鮮戦争時の小倉描写は臨場感にあふれるが、終戦時の”帝都”とその後の事件を~謀略、謀略~としたのは無理があると思う。現にあるものは、明らかに間違いであることが白日の下にさらされている。浅学の身での”怪刀”乱麻ではあるが、一部、先輩と同感だ。