2012年5月30日水曜日

湘南江の島界わい ものがたり(3) 「モンサンミッシェル?」


                                              阪東湖人

 まぁ、来年のアジサイの季節、皆さんお泊り予定の岩本楼で「丹沢の大山と江の島詣」ついていろいろ聞くでしょう。この二ヶ所を詣でるのが江戸市民の最大レジャー。ご公儀も施政不満ガス抜きに奨励した~~なんて話デス。愛宕が丘15期の神奈川県内居住者も多数。かの日、息子、娘の小学授業社会科の郷土歴史参観で記憶にあるでしょうし、遠足もあったはずなので省略します。
 で、本題。いつぞや、某君の同窓会欠席メッセージに、「あいにく同時期は女房孝行のフルムーン旅行。仏モンサンミッシェルにイキマスので悪しからず~」とあったやに~

 ~まぁ言うてみれば、江の島は「日本のモンサンミッシェル」でしょうか~~イヤ、つうぅか~英国は大西洋に突き出すコーンウォル半島の先っぽ、それもアーサー王伝説の場所「セントマイケルズマウント」のほうが江の島とソックリ。
 モンサンミッシェル、セントマイケルズともにケルト神話の世界から~さらにセントマイケルズから佐多岬のような半島、(天城越えの川端康成のように)ひと山を越えると、そこは陶芸家バーナード・リーチが晩年をすごしたセントアイブス。
 ~海外旅行通の方、それに同期に何人もいる英文学のセンセは先刻承知でしたか~~~
~ところで~なんやこの上の妙なホテル案内は???
 ~イヤその~この紀州鉄道のホテルは、以前、「半世紀ぶり帰倉」での~ステーションホテル小倉~~この立派なホテル、新幹線客など3階から一階フロントまで降ろされるのは~~フロントは他の一流ホテル同様の3階にすべきではないでしょうか~~と書いたこと、老人のこだわりでその証左のつもり。

~われドヤ顔で、モンサンミッシェル、セントマイケルズと書いたけど、実は現地行ったことないんで、旅行通の方、管理人さんに写真送って下さい、差し替えます。

 かくして文明開化の明治となり、紅毛人が湘南大磯で海水浴を本邦に広めた際、「オウ、セントマイケルズがあるじゃないか!」と江の島に興味津々。以来たくさんの外人さんが来ました。いまも来ていますし、近年はそれに台湾、香港、上海からのリッチな観光客も。
 で、このような歓迎案内板。かつてミナトヨコハマにあった、WELL COMEは脱却。どっちがドッチか知りませんが、ご覧のように大陸中国、台湾の表記まで並べる念の入ったものになりました。こんなにゴチャゴチャ書かんデモ、韓国の人も漢字で十分なのに~~ネアカ江の島観光協会のドヤ顔~~ガラスに反射しているようですネ?
  
 モンサンミッシェル、セントマイケルズ、そして江の島のような場所は河口の潮流と砂が生み出した自然天然の産物。おそらく世界中にある~~それどころか、若松の玄海側遠見ヶ鼻の千畳敷もまぁそんなもの。それよりも何よりも~~曽根干潟の「北九州空港」こそ、人工モンサンミッシェル、セントマイケルズ、江の島でしょう。
 来年、北九州空港経由で江の島に来られる方も多いでしょうが、その際、羽田からのおススメ交通は~それは次回。

2012年5月27日日曜日

湘南江の島界わい ものがたり(2) 「シンダばかりのしらす」


                                              阪東湖人

 まるで竜宮城のような駅舎、江の島に一番近い電車の小田急片瀬江ノ島駅。早速その駅前で「しらすあります」の旗が潮風にたなびいています。
 湘南で、生しらす、生しらす、ともてはやされるようになったのは、十年近く前からでしょうか。でも地元で「生じゃあ~ヨ、苦く食え~め~ジェン(よ)」という声も多く、最近は釜揚しらすの上にチョコンと生しらす載せる店も増えました。

 多くの店は奥で、酸素充満の大きなビニール袋をクーラーに入れ、カタクチイワシの稚魚、しらすを”飼って”います。
 が、大量に生かすのはやはり難しく、マンガ「クレヨンしんちゃん」の”死んだばかりのしらすだよ”という表現が適当か、店で客に出すのはそんな状態。量も少なく、お客が殺到すれば午後にはもう「売り切れご免」の店も多いのです。

 そもそも、この片瀬江の島付近は、海苔と同様、枠に入れ天日干しする手間のかかるタタミイワシが名物でした。チョイト酒のつまみに一番ですが、結構高い。それに、「イヤ、茅ヶ崎の烏帽子岩付近で獲れたタタミイワシのほうがウマイ」とか、いろいろ言う人もいます。
 脱線しますが、インドネシヤにもタタミワシがあり、安価ですが塩辛い。そういえば、イカの塩辛もフィリッピンでは調味料で使っていました。こうしたものは南洋が源流かも知れません。

 で、ついには三浦半島の先端三浦市三崎でも「湘南しらす」として販売を始めています。北原白秋作詞の城ヶ島の雨で有名な「三浦三崎が湘南か?」~とのご意見、当然です。これも昔からの論議で、三浦半島でも横須賀、三浦は湘南ではないが、葉山は(ハイカラな)湘南に入れよう~とする考えが多く、横須賀、三浦はこれにむくれました。
 さらには、あの人気のマイカー湘南ナンバーのこと。「海のない盆地秦野市と丹沢の麓伊勢原市がどうして湘南ナンバーなんだ!」と、相模ナンバーの各市がこれまたむくれたのです。でも、もちろん江の島のある藤沢市は当然、湘南ナンバーです。

 で、またその湘南に戻って、既報の湘南モノレールの終点駅、ご覧の通り”西鉄折尾駅の三倍の高さ”です。それから右上にかすかに見える尖塔、これは日蓮が危うく処刑されそうになった場所に建つ有名な龍口寺の仏舎利塔のようです。これまた、門司和布刈公園のパゴダを思い出しました。

2012年5月19日土曜日

湘南江の島界わい ものがたり(1) 「大アサリの浜焼き」


                                  阪東湖人
 
 さて、来年同窓会予定の「江の島」に行ってみました。はるか出発阪東の地からでも、常磐・千代田線は小田急線と相互乗り入れ。なんと東京メトロ・小田急代々木上原駅の向かいのホームでホイと乗り移るだけで、駅間移動乗り換えの手間はなく片瀬江ノ島までストレート。しかもJR使うよりはるかに安い運賃でした。
 なお、関東のI君が、「オマエの話は長すぎ、クドい」と”ケナす”こともあり、写真入りでコンパクトに。今日的江の島事情~~若いころ、藤沢警察署を御用聞きで廻ったときの経験、昔話をまじえ、お伝えしてみようか、と思います。
 まずは「行楽地の店にだまされてはいけません」~から。

 もう三十年も前か~息子が幼児の頃だった~~正月に江の島に連れて行ったら「サザエのつぼ焼き」のあの香りに「食べたい!」とせがむので一個~~「ハイ、千五百円デス」と店の返事。そのサザエの殻は大きく、何度もの焼きあと。殻とは別物の中身は切り刻んだ(おそらく三分の一の量)ものに、ミツバが少々浮いて
いたのでした。

 これを思い出したのが今回、写真で紹介する「大アサリの浜焼き」。二個で七百円~千円というところ。コレ実は大アサリではなく、テレビでも話題になった「東京湾で異常発生 北米原産のホンビノスガイ」。
 まァ、湘南の人間は、口は悪く、欲張りだがネアカ。腹黒い奴はいない。写真にあるように、小さく「ホンビノス貝」と書き加え、東京湾産地直送というところがかわいい。

 アメリカ東海岸では小さめのものを「チェリーストーン」と呼び、ナマで食べます。まぁ奴ら、生魚はサーモンにニシンぐらいか。でもカキを含めハマグリ、アサリと貝類はニッポンと逆で、ほとんどナマで食べます。もちろんグツグツ煮たクラムチャウダー、ボストンのものはとくにオイシイ。
 このチェリーストーンを当時、何度かナマで食べてみたのですが、ちょっとクセ(ホヤ貝に似た匂いと妙な甘み味)があり、東北人にはいいだろうが~~西日本の人向きではありません。
 さすが大東京の江戸前の海は豊か。その東京湾に入る北米航路の船舶が意外な恵みをもたらした。はるばる船底にくっ付いて来たホンビノノスガイ稚貝が、東京湾で大繁殖した様子。この十年ぐらいの間の現象です。
 もっぱら千葉の船橋漁港で扱っていると、思っていましたが、それをチャッカリ隣の湘南・相模湾で売っていたとは~~
 このセンス、悪びれない湘南ならでは~~さすがです。江の島にはいい話も当然たくさんあります。次回は生シラスとか、そんな話、書こうと思っています。

 またこの記事により、「2012年3月17日土曜日 奈良坂紘一教授が登場 3月16日付の読売新聞朝刊1面」がこのホームページでは「前の投稿」に落ちてしまいました。シンガポール奈良坂先生には、いろいろお世話、ご迷惑をかけていますので、いずれさらに追加記事を考えています。

2012年5月14日月曜日

北方線と「かねやす饅頭」 江の島と半端な湘南モノレール


                                  阪東湖人

 「エコルーフ」と呼ぶ巨大キャノピーに覆われた、小倉繁華街の魚町銀天街横断路~いまは信号機もある。だが半世紀以上前はお天道サマの下、ひっきりなしに行き交う西鉄電車の間をくぐって渡った。当時はそれが当然だった。いまより交通は、はるかにゆるやかだったのか。小倉高で同じクラスS君とは、オヤジ同士も旧制若松中同級生で、このオヤジ二人が魚町銀天街横断路中央でバッタリ。
 「オイ▲▲(わがオヤジのこと)、ちょっと二千円貸してくれ」とS君パパ。~オヤジがサイフを広げたのは~電車、バス、タクシーの目前でのノドカな光景。
 それでも帰宅したオヤジは重そうな顔で、「Sの奴、あの名門企業■■のオーナー家なのに、入り婿の身では金も自由にならんのだなぁ~あいつ~」とぼやいたことを覚えている。~~~「あの奥さん強そうで、本当にそうらしいですねぇ」と答えた母~~

 ~~なんや、最近テレビのデジタルリバイバル、松竹映画、小津安二郎監督の世界だが本当の話。でもここに登場した人たちはもう遠くに行った。
 いま銀天街横断路に立つと、あの西鉄電車が来ないのも実に寂しい。でも、井筒屋向かいには「四方平ラーメン」が健在だった~~かの日のこと、この店で、「麺が半煮えだ!」とわがオヤジはわたしの分までも、いぶかる店主に再度グッタリするまでユデ直しさせ満足。大阪出張でタクシー運転手に 「ダンナ、デカ(刑事)サンでっか?」 と言わせしめた”コワ~イご面相”のオヤジでは、四方平店主も言葉を返せなかった。

 終点で車掌が「釣りざお状」の集電(トロリー)ポールを引っ張り降ろし、前後一回転させる大正風ノンキな光景。戦後も西鉄北方線は、まだヒューゲルでもパンタグラフでもなかった。日本初のアーケード、魚町銀天街は、北方線の走る通りから一本脇で昔から北九州一の繁華街。いや購買のすそ野に天下の製鐵、住金、門鉄ありで断然、博多よりにぎわったハズ。写真は北方線通り、銀天街の両方にまたがる昭和十一年開業の「かねやす百貨店」。名物「かねやす饅頭」を、当時は珍しい自動回転焼機実演で販売した。

 ガラス越しながめる子どもたちの中にはわたしも~~こんなことを思い出すきっかけは、板櫃町史を調査研究中のM君からメール添付で送られてきた地図。旧小倉市役所の位置について、わたしの思い違いを正すものだった。その地図には当然、旦過市場付近も克明に記されている。最近、叔父を見舞った北九州医療センターも「市小倉病院」で載っている。
 だが戦後一番の格式を誇った「田川旅館」はミステリー。大物政治家が投宿することで有名で、わたしも小学時代に父親と一度、広い玄関先で東映時代劇で見たような御女中連の貫禄ある動きにブッタマゲた記憶があるが、なんと戦前はこの一流旅館の姿がない。まぁそれよりも、何かおかしいと思ったのが、西鉄北方線のこと。M君メール地図では、旧馬車鉄道の北方線は「病院前」から「旦過橋」、終点が「大阪町」だった。
 故郷を長く離れると、忘却と望郷で思い違いも激しくなる。おまけにいま多くで「北九州モノレールは旧北方線の跡に設置された」と解説があるのも、混乱の元になっていないか。
 かく言うわたし、いつの間にか北方線の終点、大阪町(のち魚町)をモノレールの平和通りと混同していた。
 小倉っ子には常識だろうが、現在の「みかげ通り」こそが旧北方線跡の道路だと、「かねやす饅頭」連想でようやく記憶がよみがえった。モノレールは旧電停「病院前」を越えたところで「くぎをチョイト曲げるように」新設(?)平和通り、新小倉駅方向に建設されたのだ。わが記憶回復のキーワード「かねやす百貨店」に感謝だ。
 こんな調子だから、当の北方線電車にはあまり乗ったこともなく、沿線模様も知らない。ただ北方線は小倉高での紫川マラソンでは現地到着に必須の乗り物。マラソンコースは覚えていないが、競馬場ゴールの記憶が鮮明。一年生のとき、時間差で最初にスタートした三年生が、われわれより遅く競馬場に戻るのが、「追い越してもいないのに~」となんとも不思議だった。さすがに三年になるとそのヒミツをさとり、紫川べりで休息、サボった。すると某君から「ダメだよ、真面目にサア、走ろう!」と促された。
 優等生かつ謹厳だった某君は、のち夏目漱石が教えた元ナンバースクールの先生に。でもその後、その国立大学では、なぜか水着キャンペーンで有名な女優が二人も誕生した。
 ところでいま袋叩きの東京電力とは似て非なるものだが、昭和三十年代「地域独占西鉄」への憤まんガス抜きを、A新聞西部本社が仕掛けた。まず読者から「北方線を本線と相互乗り入れにしてほしい」という声。
 対する西鉄回答は「現地を見ればお分かりですが、レールの幅が違うので、現状では無理です」だった。「バス運転手、車掌の態度が悪い」を先頭に憤まん投書はその後も殺到~。結局、A新聞社は柔道ではないが「(一定の)効果あり!」と連載を止めた。あるいは陰での、西鉄広報部の新聞社ロビー活動汗だくの成果かも知れない。
 また小倉駅移転問題で「繁華街はどうなる」と、学者センセに聞く企画。「室町と浅野の新駅付近は両極ともに繁栄」と「新駅に経済重心が移る」とに意見は分かれた。だが現実は~「新しい小倉駅へ、駅へ」と店舗群は移動。長らく栄え、突然斜陽となった室町商店街は現西小倉駅開業まで、苦難の道を歩んだ。駅移転による店舗移動現象をさらに加速させたのが北方線の”磁力”であり、魚町銀天街の吸引力だったろう。
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 来年、江の島鎌倉同窓会に集うご予定の皆さんで、もし興味があれば~~この西鉄北方線、改め北九州モノレールに類似した話が、はるか湘南の地にもあります。JR大船駅から「湘南江の島駅」までの「湘南モノレール」。羽田、北九州の跨座式ではなく、ゴンドラの懸垂式。
 「小田急片瀬江ノ島付近まで」、「イヤ、いっそ江の島まで伸ばすべ~ジェンヨ!」と構想はドンドンふくらみましたが~地域独占江ノ電(小さな西鉄??)と地権者(銀天街??)が猛反対、結局、中途半端な断崖上のモノレール「湘南江の島」駅が終点。見上げると、ああぁ~これ懐かしの西鉄高架折尾駅の三倍の高さダヨ。当然、江の島までは江ノ電駅前土産物街を通り、相当距離を歩るかされます。なにやらコレ、平和通が終点駅だったかつての北九州モノレールと同じ。
 このため、皆さんお泊り予定の「岩本楼」 http://www.iwamotoro.co.jp/ 交通案内にも湘南江の島モノレール駅の記載はありません。でも、モノレール駅そばの江ノ電「江ノ島駅」の案内はあります。なぜ~? それはお泊りになると分かるでしょう。

 さらに江ノ電鎌倉駅のこと。テレビで全国版のこの駅も、アレは戦後まもなくの産物。歴史的には鶴岡八幡宮至近の若宮大路、鎌倉警察署前付近が終点で駅名も「小町」。諸般事情勘案、北九州モノレールに先立つ半世紀前に「くぎをチョイト曲げるように」現JR鎌倉駅にショートカットで接続されたのです。それでも天下の鶴岡八幡宮、参拝客数がへたることはなかった~~コレ、若い頃に鎌倉警察の御用聞きで、深夜当直のオマワリサンから聞いた受け売り。
  同窓会ご一行さま、由比ガ浜某店でご昼食とのことですが、観光バスばかりじゃあ分からない~~お帰りは鎌倉駅に向う方もいらっしゃると思いまして~~

2012年5月7日月曜日

「ぬかみそ炊き~豊楽園~海山物産」 独断偏見小倉歴史考


                                      阪東湖人

 切り抜きはチト古いが、添付「同期のサクラ」で先輩がおっしゃる「~あくまで筋を通す」は、確かに豊前小倉武士の姿。また「小倉生まれで 玄海育ち~」直情径行~小倉の庶民も~筋を通すこと、チャ~ンと知っている。ましてやご当地現代のモノノフ、連立くっつきダンゴの身で辛くも得た永田町主要閣僚の座に恋々とする余り、恩義ある市川大門「カミツキ亀親分」を裏切るっちゃあ、オシマイっちゃ~~その亀親分の”テカ”、かつ愛宕が丘同期の市川大門元総本部K氏もカオがツブレタ。
 ~それに愛妻家はエエが、なんや国民の税金で夫婦海外旅行やて??
  「メガネのアンタやって、先輩たちが尊敬したブツ(大仏)山中長一郎先生の薫陶受けたろうが!!」。

 いきなり感情的導入から、冷静に冷静に~~魚町銀天街物語でも、昭和14年小倉地圖でも、藩主小笠原家は「寛永9年12月小笠原明石より来り~」とある。でも小笠原源流、総本家は信州松本平に、支藩は天竜川流域の伊那に飯田。小倉ぬかみそ炊きの淵源もそこに~わが独断と偏見を綴ろう。

 まず例として信州人が故郷の味として好む「塩イカ」。日本海のイカを塩漬けで運び込み、正月などハレの席でのご馳走として使う。信州人に招かれた際、塩イカをまるで高価なカラスミのようにうやうやしく出された。信州は諏訪湖を「諏訪のうみ」と呼ぶほど内陸だから塩イカは至宝海の幸。でもまるで塩を食べる気持ちだが、その塩も内陸では貴重品。
 浜に潮打ち寄せ、およそ魚など何でも獲れる「大空涵す玄海の~」地域では考えられない話。そんな小倉で新鮮な魚を、ワザワザぬかみそ炊きにするとは~小笠原の殿様の好物~いや小笠原父祖の地、信州の保存食を忘れるな~の家訓があったに違いない。
 信州のオサカナルート、まず日本海側ではサバなど、越後の糸魚川周辺の魚を塩漬け、ぬか漬けで運び込み保存。若狭ではヌカ漬けで醗酵させた「ヘシコ」が有名。明治の初めまで、日本海高速船の「北前船」交易で越前と豊前小倉は深く結びつく。あぁ祖父の後妻サンも福井の女性だった。

 ここで話を戻し、また信州へ。三河の塩、伊勢の塩漬け魚介も天竜沿いの飯田街道で、また「塩の道」中馬街道は三河から文字通りの信州塩尻へと続いた。かくして日本海側、伊勢・三河湾との交易の派生物が小倉名物ぬかみそ炊き~と、飛躍と独断、偏見による解釈が成り立つ???
 そりゃあアンタ、獲れたてをぬかみそで煮たほうが、古いものより美味であることは確か。加えて信州、それも南信と呼ばれる天竜河川域の伊那に飯田の気質のこと。これドンパチ現小倉任侠道とは違うイニシエ、誠の任侠道の社会。「玄界灘と暴れ天竜」のいずれもが高波としぶき~~~昔懐かしいレコード「伊那の勘太郎」は「無法松の一生」と並んだ。 

 さらに昭和三〇年代、ああこれも懐かしい豊楽園球場に、島岡吉郎監督率いる明大野球部が親善試合で来訪したこと。きっかけはこの写真のどこかにいる鬼塚格三郎氏。昭和二十三年、夏の甲子園全国制覇時の小倉高監督だ。はるか昭和初期、華の六大学野球での明大投手として神宮球場に伝説を残した鬼塚氏は当時、豊楽園球場至近にある住友金属に勤務していたのだ。 

 当時の林信雄小倉市長 (ご存知、添付写真中心の和服姿)は、駿優にして弱冠二十歳満たず高文司法科合格の弁護士なるも、明大出身でした。県議や戦前は代議士二期とか。ご子息はわれらの一期先輩で皆さんご記憶。
 林市長右の幼児を抱く老人は戦後初の小倉市長、同じく明大卒の浜田良祐弁護士。 「北九州市立大」、「全国初の競輪」、お盆迎え火「小文字焼き」の生みの親というアイデアマン。昭和三十年まで三期、小倉市長を務めた。
 文化面でも多才な人物で後段で記す杉田久女、夫君の杉田宇内とも深い縁がある。同五十二年に九四歳で没した。翌年、小倉競輪場にレリーフ「故浜田良祐翁顕彰像」が出来た。
 嗚呼、昔の政治家は懐が深かった~~冒頭の連立くっつきダンゴよ、見習うべし!

 で、この島岡監督も、くっつきダンゴと同じく”ビヤダルポルカ”。エラー選手には瞬間湯沸かし器となり、鉄拳制裁で名を馳せたが憎めないお人柄。直情径行、しゃべり方も小倉風。豊楽園球場でビヤダル監督を見たある学生野球ファン、「あの監督さん、ここの出身ねぇ?」と当分信じたが、島岡御大はるか大天竜流域の信州は飯田の出。
 手前味噌だが明大でわたしは縁あってこのビヤダル大監督から破格の、はえある野球部マネジャー打診あるも、鉄拳におびえ逃げた。まぁ機嫌を損ねること大だった。

 つらつら、この独断と偏見にも一部傍証が、板櫃町史研究同学のM君から届いた。それによると小笠原藩主はもちろん、小倉藩家老の犬甘兵庫の先祖につながる信州犬甘城は、名門松本深志高の近く。
 かの日、小倉北区中井浜櫓山荘に出入りした女流俳人杉田久女の供養墓もある。久女の親も松本出身らしい。また塩尻、松本につながる「塩の道」中馬街道の要所、愛知県の現豊田市は久女の夫君、奨学会杉田賞の礎、小倉中学美術教師の杉田宇内の出身地。いまや「世界のトヨタ」の地に夫妻の墓があるという。

 最後に余計なお世話といわれればそれまで~だが気になること~~また感情論か。今年6月の関東地方明陵同窓の集い。総会での基調講演者の名を知って唖然。「口も荒いが~気も荒い~」ではなく、口は実にうまく~時折々、耳に優しい語りの特注スーツ姿はタレント紳士。
 でも講演はアレェエ~以前聞いた話と変わったねぇ~と毎回感じる人も多々~このタレント紳士の出身母体にはわが身内も。関西にも南阿ジョーバーグ駐在経験の同期Y君あり。明治学園が昨年、著名政治評論家(タレント?)を招いたのは、その三宅久之氏には学園在学歴があったから。だが、「時代の潮流に合わせたイカダ乗りが得意な」タレント紳士~~イカダ乗り本場の、信州天竜峡出身でもなければ小倉高にも縁、ゆかりはなく、明陵関係者に”テカ”がいるだけの話。

 昔のテレビ、ドタバタ喜劇「スチャラカ社員」を思い出す。会社が舞台で名は「海山物産にヤマネコ商事」だったか~~小倉中学の大先輩たるコメディアン古川ロッパはスチャラカ社員の記憶にないが、横山エンタツは確かに登場した。タレント紳士も、エラそうなモットモラシイ調子でなくスチャラカ調でシャベくってくれるなら大歓迎~だって結局、内容は同じ、テキトーなんだから~