2011年2月21日月曜日

北九州モノレール「小倉駅乗り入れ」 私的あとさきの記憶


阪東 湖人

 “真相は藪の中”かとつぶやきながらも、いつしか忘れたことを先ごろの東京モノレール事故で思い出した。都内と羽田空港を結ぶモノレールが、変電所漏電が原因で2時間もストップ、乗客が空中の車両にカンヅメにされた騒ぎだった。実に東京モノレールも、北九州モノレールもコンクリ・鉄骨のレールをまたぐ「座式」。このイメージが北九州モノレール「小倉駅乗り入れ」の”私的あとさきの記憶”をよみがえらせてくれた。

  昭和60年ごろ本社勤務のわたし、よく言っても場所待ちひまポスト。会社には朝毎読の全国地域版が翌日には届いたが読む人はなく、ただ積まれるばかり。ひまなおり、ひとり読んでいたその北九州版の記事に、「モノレールは地元商店街の反対で~~小倉駅前平和通が終点に」~~確かにそう書いてあったと記憶する。

  それから時は流れ平成10年、このころ本格窓際族のわたし。またも同様の地域版を読んでいると、「モノレール小倉駅乗り入れが実現」とあった。でも小倉商店街の旦那衆の意見は、オヤオヤ「悲願がやっとかなった~~もともと小倉駅乗り入れ反対の声など、なかった」となっていた。その旦那衆のなかに「もしや同期の○○君の名前はないか」と、紙面を追ってみたりした。

  ところで真相は藪の中とは、小倉駅乗り入れ反対の事実を証明するにも、当時の旦那衆がいまだ健在とはいくまいし、その息子世代はわが同期生に重なるが、その現旦那衆にしても当時は、商業界ではまだ若輩。あの海老蔵サンではないが遊び盛りの中年若旦那。親の商売よりはほかごと(女性)に関心が向いたのではないだろうか。「反対の声などなかった~」というイメージ醸成は、そんな背景からでは? 

  いやそれ以上にモノレールが当時の小倉駅に乗り入れるのは、技術とコスト面で相当の困難さもあったのでは。つまり、「地元商店街の反対を配慮」も併せた、当局の“玉虫色解決”ではとも思えてきた。それは小倉以後の、わが地元のJR千葉モノレール駅の複雑さを見て、思いが強くなった。11階のそごう屋上をかすめるモノレール駅から、地上JR千葉駅への乗り換えは実に手間。技術・コストはかなりのものとうかがえる。運営は市、県を中心の三セクター。お陰で市庁舎前、県庁前駅は必要以上に立派。またお役所仕事による大赤字。多くの駅にはエスカレータ、エレベータの過剰完備。当然ながら予定路線の一部は未完、計画断念となっている。

 モノレールには昔から関心があった。わが浮沈の会社人生でも、あるとき幸運にも貴重なドイツ出張がかなった。ついでにルール地方の工業都市ブッパータールの元祖懸垂式(現千葉モノレールも同じ懸垂式)を是非見たいと思った。だがスケジュールはルールからは遠いハンブルクで夢は消えた。

 ちなみに座式は懸垂式よりスピードと安定感があるのだが、さきの東京モノレール事故での巷の声は、「羽田空港の客を私鉄京浜急行と張り合い、キャパシティー以上の運行をやったからだ」と批判的。お客もまたモノレールより、二本レールの私鉄に安定感を求めているようでもあった。北九州もそうであろうが、二本レールの鉄道と共存するしかない。モノレールはレール周りの構造上、路線を縦横無尽に広げるのは苦手だ。