2012年1月29日日曜日

廃業したあのN書店は小笠原藩御用の老舗だったが

                                                                                                              阪東 湖人

 昭和32年、早春の話である。戸畑市教委事務局に勤める年長のイトコに連れられ、小倉市内の「N書店」を探しに行った。~N書店といっても魚町銀天街にあったカタカナ綴りのN書店ではない。それはあとで書く~

 小倉市の中学で使う教科書を買うためだった。有体に言えば越境入学の苦肉の策。イトコは教委勤めの立場で、小倉では古くからあるN書店が教科書取扱い本舗と聞いたらしい。街で出会う人ごとに二人で尋ねながら、ようやく探し当てた場所は旧武家屋敷によくある瓦を積んだ土塀、それも崩れかけたような場所だった。そこに確かに書店の看板。でも廃業していた。古い店内を覗くと、ひと気はないが、それでもまだ幾分書籍が並び、積んであった。現代風でない和式の構え。のちに聞いた話だとN書店は小笠原藩御用の老舗だったという。
 
 結果的にはヤレヤレ、その中学教科書、小倉市内の一般書店で購入が可能だった。N書店の場所はどこだったのか、当時、土塀はまだ城下町の名残で小倉の各所に。思えば現紺屋町あたりではないか。門司の毎日新聞西部本社が紺屋町に移ってくる前で、戦後が色濃く、まださびしい家並みだった。「N」という少女歌手がテレビで有名になったのはそれから10年近くたってからか。附属小に通ったこのN書店の娘は店の廃業後、一家で上京したこと、今ではダレでも知っている。附属の東京同窓会にも一度出席したという話も聞いた。

 前置きは長いが、書店の「N」という苗字は、実は遠く岐阜、愛知の木曽、長良、揖斐川の三大河川沿いに圧倒的に多い。会社の先輩に中学、小倉高同級生と一字違いのN光昭という人物がいた。この先輩も名古屋周辺出身。また河川沿いに圧倒的に多いのは、先祖が川魚漁師、鵜飼いに関わる生業だったのではないかと思う。山梨選出代議士ながら、はるか遠き、若松築港会社の汚職事件で全国区登場のN氏、また千葉・木更津出身の現グルメ俳優Nと、いずれも悪役で名を馳せたが、彼らの地元も歴史的に鮎漁の盛んな地域だった。

 一方で「N」という苗字は、旧豊前企救郡の板櫃地域にもポツポツ点在する。小倉高先輩、後輩にも見られる。先祖が川魚漁師、鵜飼いに関わる生業とは、紫川では鵜飼い漁が昭和30年代でも観光行事だったし、かつてはおそらく板櫃川、遠賀川でも鵜飼い漁があったと思われることとも合致する。中間市の遠賀川に近い地域にも「N」という職能集団のような地名がある。そして北九州では板櫃支流の槻田(金山)川沿いにも同じく「N」という地名。旧八幡製鉄の社宅で開発される前、ここは川魚漁どころか、タケノコを掘る山だったが~。

 ところでもう一方の魚町銀天街のN書店には良い思い出がない。創刊間もない朝日ジャーナル綴込専用バインダーを、少年のマニアックさで5冊注文、一週間後に求めに行くと、レジ奥から経営者の奥方の声が聞こえた。「一冊だけ渡しなさい。残りは△△サンからも注文があるから取っといて!」。店員もわたしに、「残りの入荷は未定」と、これも手馴れた客扱い。まだ若輩、苦情を言うことも出来なかった。ただその不快さから、再びこの店を利用することはしなかった。のちに見た同窓会名簿に、この商売人然とした奥方の息子が小倉高後輩として載っていたのは、実に複雑ではあった。この銀天街N書店も数年前、閉店に追い込まれたという。それを知ったのはごく最近だ。時代の流れか。半世紀前の小笠原藩御用の老舗N書店と、その閉店模様をまた思い出した。

2012年1月22日日曜日

大寒のおおごと彼我 中華旧正月「春節」に沸く新茄坡

                                                                                                                            阪東 湖人
                                                           

  アナログ老人に大寒の底冷えは、おおごと。そんな折に南洋旅行をしたかつての同業他社後輩から報告メールがきた~~~「気温28度、春節に沸く新茄坡から、氷雨の帝都に戻って参りました。もっとも、かの地に置いては、冷房の寒さとの戦い、セーターの手放せない毎日でもありました。~~~(中略)~~~ご紹介頂いた『NR坂先生』に歓待していただき、豪勢な中華料理をごちそうになったうえに広大なキャンパスを見せてもらいました。いろいろと勉強になるお話もうかがうことができました(後略)」~~~。

 上記文中の新茄坡はシンガポール、同期生で南洋工科大教授NR坂先生とはお分かりですね。パリ、ニューヨーク、それにこのシンガポールは駐在員泣かせ、日本からの個人的お客の多いことで有名。八幡西区在住のF君もNR坂先生を訪問したと聞いたなぁ。また「30年余前の高校恩師がひょっこりたずねてきた」とは、パリ駐在員の話。NR坂先生のもとにも、私の紹介のような迷惑客が多いのかもしれない、ごめんなさい。

 ところで南洋の豪勢な中華料理で思い出す。かつてシンガポールで、日本生まれの李老人にご馳走になったこと。「日本人はフカヒレばかり珍重するが、大陸中国では海の魚、それも白身のカレイ、ヒラメなど魚料理が一番なんですよ」と、大学時代まで日本にいた李老人、両親は華僑だった。また華僑の実業家や14期生のI氏から聞いたが、日本でのフカヒレの多くが人工もの。インドネシア・バリ島では、海草類その他から製造しているらしい。

 そういえば若い頃だが、大寒の底冷えのこのころ、冬着で成田、シンガポール半そで、フランクフルト防寒具というおおごとの出張があった。でもあのセクシーな制服のシンガポール航空アテンダントのおねえさんたち、フランクフルト空港での乗客見送りには高級な毛皮コートをまとう、博多弁で言えば”艶な”格好。おまけに乗り換えたルフトハンザの金髪アテンダントはノーブラでドキドキしたこと忘れない。

 出張の帰りも、この南回りで欧州からシンガポールに入国したらさぁ大変、フリーパスのはずの税関検査でおおごと。乗客全員の荷物、徹底的に調べ上げられた。前にいたオーストラリアに戻るオバサン、スーツケース内の下着をかき回され、大声で抗議するが係官は無言で続行。後で知らされたが、麻薬密輸の情報がタレこまれたからだという。

 でもそれより前のシンガポール初旅行の際は、オノボリサン風背広上下姿の私に税関係官全員が挙手敬礼。当時シンガポール政府の閣僚の多くが30歳台だったから間違えられたのかとも。インドでは「オマエはマレージアンチャイニーズか?」と問われたし、台湾経由フィリピンに向かう当時の中華航空では、前後客には英語で話すアテンダントも私の前に来ると、ヤッパ中国東北部生まれへのシグナルか、当然のようにマンダリン(北京官話)で困った。
       大寒のおおごと、最後は~~~アナクロ老人の、なんか過去の自慢話みたいですみません。

2012年1月15日日曜日

松竹映画「秋刀魚の味」テレビ放映のあとに来たもの

  昨年のこと、懐かしい小津安二郎遺作の松竹映画「秋刀魚の味」のテレビ放映がきっかけで、地元に40年以上続くトンカツ専門店を発見、この店も小津監督お気に入りサッポロビールであることから感激、週2回のペースで独り通い続けておりました。秋刀魚の味の一シーンとは、佐田啓二が同僚と東京上野広小路裏の名物トンカツ屋「蓬莱屋」とおぼしき店の二階で、サッポロビールを飲みながらトンカツを食べる場面のこと。

  そこに衝撃的知らせ、先ごろ受けた人間ドックでの検査詳細報告が届いたのです。「今後飲み続けると肝臓がフォアグラになるよ」というもの。この重い知らせで酒はキッパリやめ、歌舞音曲の類や宴席の誘いは断り、ホテルロビーでコーヒー(お代わり自由だから)を飲む程度、チーズケーキ片を手に雑談悪口、いや清談を健康法にと決断、実行しました。

  さらに追い討ちも。ある清談会合の帰途の夜間車両に冷気が流れ込んだ際、突如めまいから、意識もうろうの脳梗塞(?)”臨界体験”をする始末。これは何かの啓示か教示と理解。それ以後、夜間外出も控えることにしました。

  わたしには酒乱系DNAとともに、まったく酒を受け付けない血筋もあります。一代で財を成した故伯父は一滴も飲めない人で、会うたびに配偶者は違う女性でした。いまさらその才にならうには遅すぎるが、酒をやめることだけは出来ました。また病歴自慢の業界先輩から、「コーヒーにチーズケーキなんて、そりゃダメ。出がらしのお茶に、黒豆センベイにしなさい」とありがたい忠告もありました。でもなんかわびしいですねぇ。

  そんな折、関西支部新年会のご案内、平成24年1月14日(土曜日)「スーパードライ梅田」は、実にまぶしく見えましたぞ。 (阪東湖人)

2012年1月3日火曜日

歴史ある板櫃川と旧板櫃町にある母校をもっと認識すべし

阪東 湖人


 新年早々、アナログ老のかんしゃく。旧小倉中校歌「~麓をめぐる紫のゆかりの色のなつかしき~~」とか、小倉高逍遥歌「~紺青清き紫の流れは永久に絶えずして~」とか、紫川ばかり称え、なぜか学園のそばを流れる板櫃川を無視する~~東筑高でさえ、あの汚いドブ川堀川(運河)をシンボルにしているのに~~という疑問というか、憤りがある。この一節、かつて明陵関東同窓会HPにほんの一部書いたが、消えてもうない。これを再び15期HPに絞り訴える。板櫃川の古戦場は歴史にも登場する。「紫川にはそんなものないだろうが~」と年甲斐もなく悪態つけば、いまや紫川流域は小倉北区ナイルデルタ状の繁栄ぶりという現実が抵抗勢力か。同期生も多く住んでいるから「数による異論」も出ようが~~
 
 私事だが、わがルーツの半分はこの板櫃川上流の金山川(槻田川)脇の八幡東区中尾町。またもう一つの支流大蔵川脇の同大蔵が父祖の地。だから感情的になる。あえて現槻田川を金山川と記すのも、源流に金鉱があった歴史を示すものだから。また板櫃川は戦前の改修前には日豊本線沿い菜園場を流れていたそうだが、それにしても小倉中学時代から、最も目に付く自然は板櫃川であったろうに。それどころか、現小倉高校も旧板櫃町の地に厳としてある。同期生で現在は八幡西区に住むM君は、企救郡板櫃町の調査研究を続けている。最近になっては松本清張記念館の年譜にある記述について、清張は小倉市立ではなく「板櫃町立の板櫃尋常高等小学校卒」と訂正させた。M君は新日鉄技師OBだが、中高時代から内外情勢・文系知識も抜群だった。
 
 その板櫃町は大正11年から14年まで、この短い間だけ存在し、大部分は小倉市に併合され、残りのわずか一部は八幡市に属する道を選んだ~~これも実はMから教えられた。M君は新日鉄での関西、関東勤務を除けば、幼児時代から現役引退までのほとんどを、旧板櫃町地域で過ごしたという。わたし自身も考えてみればルーツ半分の中尾町、それに大蔵周辺は、筑前遠賀郡八幡町大蔵と豊前企救郡板櫃町とのグレーゾーン。さらに、疎遠となった親族を思い起こしてみると、そのほとんどが旧板櫃町エリアに住んでいた。わたしは遠路ながらも濃厚な板櫃町縁者というか、準末えいということになる。
 
 ところで関東、東北は元日の午後にも地震に襲われた。半世紀前の北九州、地震はほとんど体験なし。これもM君の話だが、皿倉山系から洞海湾域の岩盤層は実に安定したものという。思い出すのは祖母が幼少時、明治の話。一面アシの茂る洞海での製鉄所建設の様子を友達と見たという。葦原の地下の地盤が強固ならば、千葉・手賀沼の葦原沿いのわが身も地震に安全か~と脱線。祖母はこうも言った。(大正の)「河内貯水池の建設時には、来る日も来る日もセメン袋を山と積んだ貨物自動車が延々(板櫃川上流の)大蔵川沿い山道をじゅずつなぎで走り、天地が揺れた」と。先人たちは皿倉山系の地質・土木環境を十分計測、近代日本の礎となる産業設備を築いた。かつて九州鉄道も板櫃川沿いを走った。この地質・土木環境に、先進の工場群と多数の学園。実に板櫃川沖積流域に近代化のめぐみをもたらしたのだ。旧板櫃町と板櫃川の要にある母校。流域の歴史を大事にしようではないか。