2012年1月3日火曜日

歴史ある板櫃川と旧板櫃町にある母校をもっと認識すべし

阪東 湖人


 新年早々、アナログ老のかんしゃく。旧小倉中校歌「~麓をめぐる紫のゆかりの色のなつかしき~~」とか、小倉高逍遥歌「~紺青清き紫の流れは永久に絶えずして~」とか、紫川ばかり称え、なぜか学園のそばを流れる板櫃川を無視する~~東筑高でさえ、あの汚いドブ川堀川(運河)をシンボルにしているのに~~という疑問というか、憤りがある。この一節、かつて明陵関東同窓会HPにほんの一部書いたが、消えてもうない。これを再び15期HPに絞り訴える。板櫃川の古戦場は歴史にも登場する。「紫川にはそんなものないだろうが~」と年甲斐もなく悪態つけば、いまや紫川流域は小倉北区ナイルデルタ状の繁栄ぶりという現実が抵抗勢力か。同期生も多く住んでいるから「数による異論」も出ようが~~
 
 私事だが、わがルーツの半分はこの板櫃川上流の金山川(槻田川)脇の八幡東区中尾町。またもう一つの支流大蔵川脇の同大蔵が父祖の地。だから感情的になる。あえて現槻田川を金山川と記すのも、源流に金鉱があった歴史を示すものだから。また板櫃川は戦前の改修前には日豊本線沿い菜園場を流れていたそうだが、それにしても小倉中学時代から、最も目に付く自然は板櫃川であったろうに。それどころか、現小倉高校も旧板櫃町の地に厳としてある。同期生で現在は八幡西区に住むM君は、企救郡板櫃町の調査研究を続けている。最近になっては松本清張記念館の年譜にある記述について、清張は小倉市立ではなく「板櫃町立の板櫃尋常高等小学校卒」と訂正させた。M君は新日鉄技師OBだが、中高時代から内外情勢・文系知識も抜群だった。
 
 その板櫃町は大正11年から14年まで、この短い間だけ存在し、大部分は小倉市に併合され、残りのわずか一部は八幡市に属する道を選んだ~~これも実はMから教えられた。M君は新日鉄での関西、関東勤務を除けば、幼児時代から現役引退までのほとんどを、旧板櫃町地域で過ごしたという。わたし自身も考えてみればルーツ半分の中尾町、それに大蔵周辺は、筑前遠賀郡八幡町大蔵と豊前企救郡板櫃町とのグレーゾーン。さらに、疎遠となった親族を思い起こしてみると、そのほとんどが旧板櫃町エリアに住んでいた。わたしは遠路ながらも濃厚な板櫃町縁者というか、準末えいということになる。
 
 ところで関東、東北は元日の午後にも地震に襲われた。半世紀前の北九州、地震はほとんど体験なし。これもM君の話だが、皿倉山系から洞海湾域の岩盤層は実に安定したものという。思い出すのは祖母が幼少時、明治の話。一面アシの茂る洞海での製鉄所建設の様子を友達と見たという。葦原の地下の地盤が強固ならば、千葉・手賀沼の葦原沿いのわが身も地震に安全か~と脱線。祖母はこうも言った。(大正の)「河内貯水池の建設時には、来る日も来る日もセメン袋を山と積んだ貨物自動車が延々(板櫃川上流の)大蔵川沿い山道をじゅずつなぎで走り、天地が揺れた」と。先人たちは皿倉山系の地質・土木環境を十分計測、近代日本の礎となる産業設備を築いた。かつて九州鉄道も板櫃川沿いを走った。この地質・土木環境に、先進の工場群と多数の学園。実に板櫃川沖積流域に近代化のめぐみをもたらしたのだ。旧板櫃町と板櫃川の要にある母校。流域の歴史を大事にしようではないか。

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