2009年10月29日木曜日

関門海峡での護衛艦衝突事故

今日の午後門司港へ出かけました。目的は事故に遭った護衛艦「くらま」を観察するためです。
門司2号岸壁に繋留されており、船首は無残にもつぶれていました。周りには見学者が数十名、ほとんどの人がカメラで撮影していました。




コンテナ船はスピードの出し過ぎで、先行する船に追突するのを避けるため、左へ旋回し護衛艦の航路を塞いで衝突したようです。航行している護衛艦をレーダーで確認していたのだが・・・

写真を撮って帰りに西海岸1号上屋の壁面に「わたせせいぞう」の絵があるのに気がついた

関門の花火大会の時にもこの場所に来ていたのだが夜間だったので気がつかなかった。
次の3つが描かれています。殺風景だった上屋の壁面を明るい絵で飾っています。






2009年10月25日日曜日

目指せ! 母校未来への遺産づくりを(阪東湖人)


 いまや政治の世界も「ハコモノ、コンクリから人へ」と転換中。思い出話ばかりではなく、未来志向の話題・提言をと心がけます。それを先取りした事象を垣間見たからです。2009年3月、創立100周年を迎えた久留米高校の徒歩1分ほどの場に「久留米高校前駅」ができたことがそうです。JR九州の久大本線のこの新駅、全国でも公立高の名を冠した駅はここだけとか。さすが進取の気象の土地、久留米。昔、婆さんが「久留米のモンは、小倉や八幡モンに比べ目先が利いとる。気いつけにゃ」と、遠賀八幡弁でつぶやいた姿を思い出します。

 また昔話に入りそうなところをとどめ、地政学的本論を。まず修猷館の校門の脇は地下鉄「西新駅」であり、また身近な東筑も折尾駅前500メートル、名物かしわ飯の東筑軒も至近で、芳しい匂いもただよってきそうなことを指摘。いずれも地の利を得た学園ぶり。創立100周年久留米高校の場合、同窓会を中心に平成15年から四万人以上の署名を集め、新駅実現にこぎつけたのです。

 いまや小倉高校の学区は、門司、小倉北区、小倉南区、戸畑とワイド版の様子。かつて倉高健児は西鉄バス、電車を大門で下車、日明まで歩くのが伝統であり、誇りでした。でも時代は変わり、いまやスーパーサイエンス高ならば地の利は必須。一方東筑が復権著しいのは、折尾という交通の要衝にあるからです。かくして次期、創立○△周年の際には、是非「愛宕小倉高前駅」創設をと提言したいのです。久留米高校前駅実現への一番の追い風は、大枚をポンと投げ出した同窓会の大ボス格、建設会社オーナーとか。そういえば我ら同期生にも建設会社オーナーがいますねぇ。

 
 新駅の目標は日豊本線沿い菜園場、金田付近。付近にはJR小倉工場があり、裁判所に検察庁など官庁群、文化施設にも至近、十分目玉駅となり得るでしょう。名称は運動部には思い出の石段のある愛宕神社から。京の都が起源でもある由緒ある神社を挙げてみました。駅は実に人間くさい空間。決してハコモノ、コンクリではありません。母校の「未来への遺産づくり」でありたい「愛宕小倉高前駅」実現には環境醸成が必要です。そこに求められるのは、久留米高に負けず劣らずの明陵同窓会員のエネルギー。皆さんはどう思われますか?

 人間くさい駅と学園の関係、これは私的一族の歴史から興味を持ちます。長寿だったひい婆さんは、遠賀郡八幡村大蔵の出。いまや幻の九州鉄道大蔵駅前に住んだことから周りは「ステンショのごりょんさん」、身内は「ステンショのばあさん」と呼んだ。ステンショとは「ステーション」、ごりょんさんはまあ「奥方」のこと。ステンショばあさん宅の別棟は、製鉄所お雇い外人、ドイツ人のトッペ技師長に借り上げられていた。この偉いトッペさんにあやかったトツロウという奇妙な名だった息子(わが大叔父)は、大蔵駅~黒崎駅~折尾駅と、汽車通学した旧東筑中一期生。残念ながら小倉中は雌伏揺籃の時代でした。

 九州鉄道大蔵線は小倉北区・八幡西区境界に、いま歴史記念物として赤レンガ積みアーチの茶屋町橋梁をわずかに残すだけです。オジ、オバたちはこの鉄道跡道路を「旧線路」と呼んでいましたが、現代の若い人にはそれも通じないでしょう。いま大蔵駅跡は大蔵公園ですが、なんとその真下には新幹線トンネルが走っています。旧縁者には実に感激の贈りもの。無骨な旧国鉄も粋な計らいをしてくれたものです~~ああ、やっぱりオヤジ・ジジイ、また昔話。でも駅とは実に人間くさい物語の場となり得るからであります。

2009年10月8日木曜日

東小倉駅の思い出(阪東湖人)


 昭和35年の夏の小倉高校久住登山の出発集合地は、いまはもうない日田彦山線始発の旅客駅、「東小倉駅」。でも当時、久住(豊後中村)に向かう日田彦山線の準急「あさぎり」は小倉駅にも停車していたはず。なのにこの駅がなぜ集合地だったのか。オヤジ・ジジイとなったいま振り返れば、それも理解できる気がする。後年、会社の慰安旅行の際、部長サン自宅に近い駅を集合地にと、幹事が気配りしていたのことから連想、久住登山引率の先生方でも、とりわけ長老級先生の自宅が東小倉駅に近い富野だったからでは? 昨年の関西・舞子での記念同窓会に元気にご出席の様子だった大久保先生も当時の引率者の一人。青年教師だった大久保先生の姿が古い写真には残る。先生なら真相をご存知だろうが~~

 
 東小倉駅にはさらに少年時代の思い出がある。小学4年のとき、リヤカー遊びで転落、右腕をポッキリ折った。治癒のため父親に連れられ、はるばる添田町にある万能膏薬で有名な添田病院に向かった。そのとき初めて利用したのが東小倉駅。だが、始発駅なら門司港駅のような大きな駅と期待した骨折少年は、それまで見たことないショボイ駅にガッカリした。また東小倉発の列車がなぜ小倉駅(現西小倉駅)を通らないのか理解できなかった。
 
 後年に、昭和20年代に東小倉を発つ蒸気機関車が引く短い列車は、足立山麓を走って日豊線を横切り、添田、英彦山の方に向かっていたことを知った。高校時代、いまは大阪に住む当時同級だったM君と、廃線となった黒原付近の旧鉄路を歩いたとき、それを教えられたのだ。M君はまた松本清張がかつて住んでいたという家を指差したが、文豪清張も当時は流行作家クラス。いまほど神格化はされず、印象は薄く、その住居の詳しい記憶もない。
 
 ところで小学4年の巻の添田病院だが、到着してみると病院は門前市をなす賑わい。病院内も真っ黒な膏薬を塗った患者がぎっしり。とてもその日のうちに診療可能な様子はなく、父親もあきらめた。少年も真っ黒な膏薬が不気味でホッとした記憶はいまも鮮明。結局親子はその足で、2次目的地の英彦山に向かった。当時、英彦山駅から登山道までのバスは、オーバーヒート防止にエンジン部はむき出し。また英彦山神社への石段を登る途中ではマムシに遭遇する蒸し暑い夏であった。
 
 その英彦山もいまパソコンで見ると、「スロープウェー」という立派なモノレール型の乗り物で楽に登れるようだ。東小倉駅を始発とする日田彦山線は、当時、石炭、セメント輸送という産業鉄道。だが私的にはその側面、英彦山への巡礼鉄道だったような気がする。前述、小倉高校久住登山で利用した準急「あさぎり」の乗客も、大勢がここで下車した。スロープウェーのある英彦山の現在はどうなのか。オヤジ・ジジイのいま、以前にはなかった興味をかき立てられる。