2009年10月8日木曜日

東小倉駅の思い出(阪東湖人)


 昭和35年の夏の小倉高校久住登山の出発集合地は、いまはもうない日田彦山線始発の旅客駅、「東小倉駅」。でも当時、久住(豊後中村)に向かう日田彦山線の準急「あさぎり」は小倉駅にも停車していたはず。なのにこの駅がなぜ集合地だったのか。オヤジ・ジジイとなったいま振り返れば、それも理解できる気がする。後年、会社の慰安旅行の際、部長サン自宅に近い駅を集合地にと、幹事が気配りしていたのことから連想、久住登山引率の先生方でも、とりわけ長老級先生の自宅が東小倉駅に近い富野だったからでは? 昨年の関西・舞子での記念同窓会に元気にご出席の様子だった大久保先生も当時の引率者の一人。青年教師だった大久保先生の姿が古い写真には残る。先生なら真相をご存知だろうが~~

 
 東小倉駅にはさらに少年時代の思い出がある。小学4年のとき、リヤカー遊びで転落、右腕をポッキリ折った。治癒のため父親に連れられ、はるばる添田町にある万能膏薬で有名な添田病院に向かった。そのとき初めて利用したのが東小倉駅。だが、始発駅なら門司港駅のような大きな駅と期待した骨折少年は、それまで見たことないショボイ駅にガッカリした。また東小倉発の列車がなぜ小倉駅(現西小倉駅)を通らないのか理解できなかった。
 
 後年に、昭和20年代に東小倉を発つ蒸気機関車が引く短い列車は、足立山麓を走って日豊線を横切り、添田、英彦山の方に向かっていたことを知った。高校時代、いまは大阪に住む当時同級だったM君と、廃線となった黒原付近の旧鉄路を歩いたとき、それを教えられたのだ。M君はまた松本清張がかつて住んでいたという家を指差したが、文豪清張も当時は流行作家クラス。いまほど神格化はされず、印象は薄く、その住居の詳しい記憶もない。
 
 ところで小学4年の巻の添田病院だが、到着してみると病院は門前市をなす賑わい。病院内も真っ黒な膏薬を塗った患者がぎっしり。とてもその日のうちに診療可能な様子はなく、父親もあきらめた。少年も真っ黒な膏薬が不気味でホッとした記憶はいまも鮮明。結局親子はその足で、2次目的地の英彦山に向かった。当時、英彦山駅から登山道までのバスは、オーバーヒート防止にエンジン部はむき出し。また英彦山神社への石段を登る途中ではマムシに遭遇する蒸し暑い夏であった。
 
 その英彦山もいまパソコンで見ると、「スロープウェー」という立派なモノレール型の乗り物で楽に登れるようだ。東小倉駅を始発とする日田彦山線は、当時、石炭、セメント輸送という産業鉄道。だが私的にはその側面、英彦山への巡礼鉄道だったような気がする。前述、小倉高校久住登山で利用した準急「あさぎり」の乗客も、大勢がここで下車した。スロープウェーのある英彦山の現在はどうなのか。オヤジ・ジジイのいま、以前にはなかった興味をかき立てられる。

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