2011年1月9日日曜日

新年“顔面神経痛”アナクロ・ログ老人のつぶやき

新年“顔面神経痛”アナクロ・ログ老人のつぶやき
阪東 湖人

 関東平野の秀峰筑波を望み、大河大利根に臨む、わが地元図書館に意外や意外、「福岡・北九州 市内電車が走った街今昔」との写真本を見つけ、思わず手に取った。まずは「西鉄北九州線」〜〜決してチャチではなかったわが郷土、北九州線の巻をむさぼり読んだ。旧博多の電車はまずパス、理由は後述する。
 インターアーバン(都市間交通)たる大型市街電車の「西鉄北九州線」は、関西の阪神国道線の創生期と似ている。繁栄の北九州五市のうち四市を結ぶ路線でそこが博多の路面電車や東京都電との違いがある。
 この写真本にある北九州線の古い車両に少年時代がよみがえる。起業祭のにぎわいに向かう満員電車で伯母のハンドバッグの側面が見事に切られ、サイフが抜き取られた。おもちゃを買ってもらう予定が狂ったことは一大事だったので鮮明に憶えている。今はもうこんな無形文化財的なスリはいまい。また起業祭が近づくとミゾレが必ず降るとは、祖母の言葉だった。
 大門、幸町(戸畑)、中央区(八幡)の電停はそれなりに複雑で、新聞の投書に「電車に系統番号を付けて」との新入り転勤族の要望が載った。でも「系統番号とは何だろう?」というのが正直な地元意識。また中央区電停脇には本格的なアイスクリームを出す店があり、いつも父親にねだった。私的には中央区の方が小倉魚町より都会を感じた。それは製鉄全盛の時代の証しだった。
 それから約十年、小倉高には西テツバスで通学したが、道路工事などでバスがう回のとき、戸畑中原から日明電停まで電車に乗った。中原電停に沿う鹿児島本線では、下り博多行き特急「あさかぜ」をよく見た。ある朝のあさかぜが、のちブルートレインと呼ばれる濃紺のスマートな編成で現れたのにはビックリした。
 だがこの写真本の終わりの方、西鉄北九州線終焉のさまには唖然とした。最後に我が物顔で走ったのは、寸足らずの運転席窓、いわば「“顔面神経痛”的ご面相」の使い回し博多の電車。なぜ博多の電車が〜とはあえて言うまい。西鉄北九州線のあのヘッドライトと優美な正面運転席の広い窓という、ノーブルさはどこに消えたのか。
 「博多の電車は小さいなぁ」と子どものころ、北九州線に誇りを持った。発車の際は「チーン、チーン」の路面電車ではなく、「ファーン」という市街電車の警笛だったから。なのに歴史に残される最後の北九州線電車は旧博多の路面電車というくやしさ〜〜。西鉄北九州線の勇姿は、わが脳裏にいまだに生きているのに、故郷では残酷な終焉が歴史として残された。
 仲間の阪神国道線もなくなったし、インターアーバンの矜持を守って消えたのは「まぁ、いっか」とも思うが、“顔面神経痛”的ご面相の電車だけは許せない。あれは今的にいえば、コンピューターウィルスだ。