2011年10月28日金曜日

「筑前と豊前小倉の国境いでも民族の大移動"文化戦争"」


阪東湖人
 場所は利根川近隣の居酒屋。「ボクは千葉君津生まれなんですが、父親は九州八幡から来たんですよ」と、アルバイト店員は愛想良く語った。~~ハハーンあの「民族の大移動」かと、半世紀前を思い出した。今となってはこのアルバイト店員も首をかしげる民族の大移動との言葉。昭和40年代、千葉房総で操業を開始した君津製鉄所に向けて、大勢の製鉄所社員・家族が北九州から移住してきたことだ。当時の新聞には、「君津では一夜で房総弁が九州弁に変わった」と大げさな見出しが載った。

 つい先ごろまで素朴な漁師町だった当時の君津、外来児童が大半となった小学校では「ジャンケンポン」が「ジャンケンシー」に変わり、地元の子がジャンケンポンと言うと大勢の九州勢新入り級友から笑われ、泣いて帰った。そのわが子を見た親が「ジャンケンシーなど聞いたことがない!」と小学校に怒鳴り込んだ~このエピソード、個人的に似た体験があるからよくわかる。

 この千葉君津の"文化戦争"に似た動きがすでにあったのが、筑前黒田藩と豊前小倉小笠原藩の国境い、境川が小倉北区中原と戸畑区中原を分けるその戸畑側。昭和20年代後半、八幡製鉄社員の子弟が集まる戸畑側の小学校級友の親は、大分、四国、山口出身者が大半。結果的に、物や動食物の名前は擬似的標準語。そうでなければ会話が成り立たない。小学校で「地元言葉を集めるように」との宿題が出た。わが父親は若松育ち、母の系統は代々八幡地元民となれば、黒田藩博多弁の傍流とでもいうか、筑豊遠賀弁の世界。両親に聞いた「ごりょんさん=良家の奥方」の例を挙げたら学級のみんなが笑った~~「そんなはずはない」と父親は腕を組んだ。

 おりからの旧制若松中同窓会で、同級生の息子たちが私立学園に通うのを知った大学応援団出身の父親は、わたしをその私立学園への転入を試みた。母校大学と学園の名が同じであることで親近感をおぼえたのか、筑豊遠賀弁"保全"のつもりだったのか。が~~いずれも見当違い~~この私立学園は、応援団とは対極の学習院的都会ムードであったようだ。結局、中学は境川を越えて小倉側に行ったが、ここでは理科の先生も級友も蟹を「ガニ」と呼ぶのでビックリした。ツララ、ウニなども何か別の言葉だったという記憶がある。

 夕刻、同じく利根川近隣の蕎麦屋に「カキソバ始めました」とあったので暖簾をくぐった。「オヤジさん!そのカキソバ、と冷や酒で国士無双を!」と頼んだら、茨城県石岡出身のジイサン、「カキというのは海のカキだよ」と念を押した。変なこと言うなぁ~民放バラエティ「秘密のケンミン show」では、カキソバは茨城でどういうアクセントなのか思いながら、少々きこしめしてやっと気がついた。酔客好みの「蕎麦掻きではありませんよ」と、言ったつもりだったのだ。買いかぶりだよ ジイサン!

「昭和44年の朝日新聞東京社会面には、名門校小倉高校の騒ぎが載るほど~民族の大移動は関東地方にも九州情報を伝える場を与えた」

2011年10月18日火曜日

「伝統の白い雑のうでなく、布張り学生カバンの二人~」

阪東湖人
  当時、小倉高では学区外でいまだにちょっと気がひけるのだが、戸畑中原のかつての我が家付近、グーグルアースで上空から半世紀ぶりに“帰郷”した。左隣の家は駐車場に、右隣の酒屋も店を閉じた様子。垣根越しの隣家の秀才先輩Mさん(14期)の住んだ家は残っている。近所の内科医院も健在だ。先代院長は町医者だったが、戦前は軍医で中国大陸にいた縁でわが父親と碁仲間で親しかった。現在の先生は多分、明治学園から久留米大附設に進んだ"オチビちゃん”。あれからもう半世紀がたつ。

  北九州に昔からある風俗が酒屋の店頭で飲む「角打ち」。庶民、地元名士ともども「角打ち」を楽しんだ。我が家右隣の酒屋も「角打ち」。樋口一葉の小説「大つごもり」を地でいくように、地元中原の御曹司が厳格な親への当てつけに「角打ち」に現れ、周りが苦笑した。それ以上に、この酒屋の誕生にはエピソードがある。昭和20年代後半の朝鮮動乱期、中原でも酒屋は十分すぎる数。当時の大蔵省規制では新規開店は到底、認められるはずがなかった。それでも開店出来たのは、「大平が偉くなってからは、上京して邸に泊まるのは遠慮した」と笑った主人の言葉で分かる。大蔵官僚出身の政治家、のちの首相、大平正芳と酒屋の主人は幼なじみで、高松高等商業同級生だった。でもこんな話、戦後の日本ではどこでもフツーにあった出来事だろう。

  ところで、わが垣根越しの秀才Mさんは地元小5年でエリート校附小に。附中から進学したMさんと小倉高校で再会した。Mさんはいわゆる軟派不良だったが、私を後輩としてかわいがり、喫茶店、映画館に連れて行った。いつもタバコを吸って、私以外の世界では女子高生を誘ったりしていた。高橋範義先生はMさんを名指しで、「いくら勉強が出来てもあれではいけない」と、いわば接触するなと自戒を求めた。河合校長も朝礼で、「最近、喫茶店に行く生徒がいる」と注意したが、学業が同じとは行くはずもないのに私はMさんの弟分を気取り、笑って聞いた。そのMさんは3年次の秋以降、試験時以外ほとんど登校せず、東大受験で上京する学割証明を貰うのは私が代行。Mさんのように通学も伝統の白い帆布の雑のうではなく、布張り学生カバンにした。

  当然のように現役で東大に入ったMさんは近所でも話題に。角打ちの酒屋と大平の出世話から、Mさんも役人になるだろうと近所の年寄りは言った。私もその才能にあやかろうとMさんの母親から垣根越しに受験参考書すべてをソックリ貰った。東大生となっても夏秋冬と試験休みで長期帰郷、また私を誘って喫茶店で、今度はおおっぴらにタバコを吹かし、最新の東京事情を伝えてくれた。

  秀才の世界もいろいろ。Mさんは東大も駒場で退学、しばらくして復学したと聞き、卒業後は商社関連企業に籍を置いた様子。その後は、独立し経営コンサルタントで活躍した。また会社もいろいろ。私は小倉高先輩かつMさんと東大同期の某さんと同じ民間会社で偶然出会い、また職場も一緒になった。でもあるとき、酔っ払った某さんからバーのツケをそっくり払わされたあげく、その翌週、「あの金誰が払ったのかなぁ~~きっと○△サンかなぁ」ととぼけられたとき、この先輩に従うのをキッパリやめた。同じ小倉高先輩でも、“さわやか”だったMさんとあまりの違いがあるからだ。そのMさん、「でも、最近は借金を重ね逃げ回っている~」とは、東大三鷹寮時代から親しかったという小倉高同期、H君の話だ。この話を聞いて、実にMさんらしいなぁと、その“怪男児”ぶりを懐かしく思う私だ。

2011年10月4日火曜日

「恩師 池田治雄先生について 学区外通学生の思い出」

阪東 湖人

  昨年11月の池田先生の訃報、それを遅れて知ったのはこの7月の初めだった。先生は3年でわが担任。思い出すのは教壇から、「奨学会への寄付の書類をこれから回す。持って帰って親と相談しろ」と、これは本来の教師の役目ではないと言いげな顔だった。さらに付け加え、「学区外からきている奴で、とくに成績の悪いものは寄付金も3口だぞ」と、ニヤリ笑って私の顔を見た。その私の父は大正時代か、旧若松中学の悪童で、教育実習生の河合青年(後の河合校長)に出会った。河合青年の父も若中の國漢教師だった縁で、父は熱烈な河合校長信者。3口分も喜んで”奉納”した記憶がある。

  さらに学区外といえば、2年次でのホームルームの時間に女生徒Aさんから追及された。「学区外から来ている人は自分の学区に戻るべきです。本来、小倉高に進むべき人がはじかれているのです」と、実に鋭かった。彼女は優秀な成績で九州大学に進んだと後に聞いた。社会科の沖先生は、「本校は教師が優秀だからではなく、皆さんが優秀だから~~」と授業中によく語った。複雑な気持ちだった。本校は事実上、広く門戸を開いている~とのニュアンス。クールで柔軟な沖先生は、後に校長、同窓会長ともなられた。

  ところで池田先生は私に、「マンモス私大に行くよりは、小人数の成城大なんかの方が就職もいいぞ」とアドバイスした。とりあえず卒業しますと言うと、「明陵は君の成績では入れてくれないぞ~~まぁ、最後は入れるけどね」と、どこまでもリアルな先生。この“入れてくれないぞ”との先生の言葉だけを父に伝え、他流試合とばかり、博多、東京の予備校と転籍しているうちに父親の仕事が東京に移った。

 結局、マンモス私大に籍を置き自宅通学というか、都合5年半ほど籍を置きながら、某大手出版社でバイトに励んだ。いっぱしの編集者とされて増長、大学にはほとんど行かなかった。学園紛争時にたまたま登校すると、タテカンに見慣れた同級生の名前が。それも学生運動のリーダーとしてだった。そのF君に会ってみると当時、レモンちゃんといわれた深夜ラジオの人気学生アナも周辺にいた。やがて学生運動もしぼみ、景気も急速回復。就職もなんとか志望先に~~~。

 もう十年近く前か、池田先生が上京された。幹事役のSさんが言うには、「みんな集まるように」との先生の電話があったという。それぞれ苦笑しながら、フカヒレで有名な中華料理店で先生と卓を囲んだ。話題が咲くなかで私が、「先生は生徒を殴ったことありますか」と聞いたら、しばらく考え、「一度ある。キミらの相当先輩だが~~」と答えられた。その表情はちょっと曇ったようにみえ、私は戦後の動乱期の学園事情と拝察、それ以上のことは聞かなかった。昭和22年から46年まで教鞭を執った先生だった。お開きのあとは、当時、大手企業幹部の某君が先生を役員専用ハイヤーで送った。それを見送りながらホッとした私~~もう窓際族でタクシーチケットを使うのも、はばかる身分だった。

若き日の高橋先生、山中先生先、池田先生の姿(先輩の小倉中37期生ホームページから)