2011年10月4日火曜日

「恩師 池田治雄先生について 学区外通学生の思い出」

阪東 湖人

  昨年11月の池田先生の訃報、それを遅れて知ったのはこの7月の初めだった。先生は3年でわが担任。思い出すのは教壇から、「奨学会への寄付の書類をこれから回す。持って帰って親と相談しろ」と、これは本来の教師の役目ではないと言いげな顔だった。さらに付け加え、「学区外からきている奴で、とくに成績の悪いものは寄付金も3口だぞ」と、ニヤリ笑って私の顔を見た。その私の父は大正時代か、旧若松中学の悪童で、教育実習生の河合青年(後の河合校長)に出会った。河合青年の父も若中の國漢教師だった縁で、父は熱烈な河合校長信者。3口分も喜んで”奉納”した記憶がある。

  さらに学区外といえば、2年次でのホームルームの時間に女生徒Aさんから追及された。「学区外から来ている人は自分の学区に戻るべきです。本来、小倉高に進むべき人がはじかれているのです」と、実に鋭かった。彼女は優秀な成績で九州大学に進んだと後に聞いた。社会科の沖先生は、「本校は教師が優秀だからではなく、皆さんが優秀だから~~」と授業中によく語った。複雑な気持ちだった。本校は事実上、広く門戸を開いている~とのニュアンス。クールで柔軟な沖先生は、後に校長、同窓会長ともなられた。

  ところで池田先生は私に、「マンモス私大に行くよりは、小人数の成城大なんかの方が就職もいいぞ」とアドバイスした。とりあえず卒業しますと言うと、「明陵は君の成績では入れてくれないぞ~~まぁ、最後は入れるけどね」と、どこまでもリアルな先生。この“入れてくれないぞ”との先生の言葉だけを父に伝え、他流試合とばかり、博多、東京の予備校と転籍しているうちに父親の仕事が東京に移った。

 結局、マンモス私大に籍を置き自宅通学というか、都合5年半ほど籍を置きながら、某大手出版社でバイトに励んだ。いっぱしの編集者とされて増長、大学にはほとんど行かなかった。学園紛争時にたまたま登校すると、タテカンに見慣れた同級生の名前が。それも学生運動のリーダーとしてだった。そのF君に会ってみると当時、レモンちゃんといわれた深夜ラジオの人気学生アナも周辺にいた。やがて学生運動もしぼみ、景気も急速回復。就職もなんとか志望先に~~~。

 もう十年近く前か、池田先生が上京された。幹事役のSさんが言うには、「みんな集まるように」との先生の電話があったという。それぞれ苦笑しながら、フカヒレで有名な中華料理店で先生と卓を囲んだ。話題が咲くなかで私が、「先生は生徒を殴ったことありますか」と聞いたら、しばらく考え、「一度ある。キミらの相当先輩だが~~」と答えられた。その表情はちょっと曇ったようにみえ、私は戦後の動乱期の学園事情と拝察、それ以上のことは聞かなかった。昭和22年から46年まで教鞭を執った先生だった。お開きのあとは、当時、大手企業幹部の某君が先生を役員専用ハイヤーで送った。それを見送りながらホッとした私~~もう窓際族でタクシーチケットを使うのも、はばかる身分だった。

若き日の高橋先生、山中先生先、池田先生の姿(先輩の小倉中37期生ホームページから)

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