2012年7月30日月曜日

再び帰倉 ”おもいでの夏” 炎天下の「ワシ,ワ~シ,ワ~シ」




                                              阪東湖人


 ロンドン五輪真っ盛り。NHK昼ニュースにオヤ? 水泳北島選手のセンセだったニコン河合博士が出てござった。それはともかく、まぁ奸智族の総本家、アングロサクソンのロンドン五輪でやることは~~「アジヤ勢にメダル渡さんまい」と、また何かのワルだくみに違いない~
 ~金髪ブラッシー風の、主催ジョンソン・ロンドン市長、先祖はオスマン帝國の大臣だったか~なかなかの寝業師でもあり~~(^o^)~~

 ところで北九州、モノレール香春口三萩野駅を降りて歩くと、突然「ワシ、ワ~シ、ワ~シ」のシャワーが降ってきた。一瞬ビルの改築工事の騒音かと勘違いするタイムラグをへて、ようやくクマゼミだと気がついた。
 イトコと八幡槻田天疫神社でのセミ取り~あの”おもいでの夏”がよみがえった。

 クマゼミ、最近の調査では福島県が北限だそうだ。でも関東では鳴く音をほとんど聞いたことがなく、ミンミンゼミにまぎれ、この盛夏のシグナルをすっかり忘れていた。
かつては小倉駅裏、豊楽園球場側から見る足立山系の緑もまぶしかった。
 
 物理の故深見守史先生と文学同人でもあった叔父が81歳で逝った。再度、短時間帰倉した。
 土曜の通夜は、古野整形外科脇を通って典礼会館。この周辺はすぐに思い出した。高校時代の夏、三萩野球場にはよく通ったからだ。野球が好き~~からではない。スポーツ観戦が好きな女高生に至近距離アクセス出来たから~~そのバツとして就職後、毎夏球場通い~スコアブック付け。野球には関心がないから実に苦役だった。

 告別式のカトリック小倉教会で、戸畑中原小時代を思い出した。加藤君という同級生の両親は小学教師で父親は副校長。また加藤君の祖父は戦前、朝鮮半島で教職にあったとかで、カトリック小倉教会にかかわっていた。姉さんは某国立女子大に進学した。
 「アーメン、ラーメン、冷やソーメン」とハヤシたわれらバチ当たり悪童仲間に、ほほ笑み返した加藤一家。カトリックに宗派はないそうだが、近くのカナダ系カトリック学園の雰囲気とは、また違うファミリーだった。

 葬儀で突然の土日帰倉。旅行社手配も、小倉では花柳流踊りの九州大会とか、浴衣姿のオバサマ連がギョウサン。ステーションホテル小倉は満室。ユタカホテルの余り喫煙部屋をあてがわれた。まぁ会社時代に手馴れたビジネスホテル。時間なく、葬儀合間の両日食事は銀天街ハズレの「一平ちゃん」~~ラーメン、ギョウザに肉焼き飯。繊細だった叔父、草葉の陰でさぞ、あきれたことだろう。
 その肉焼き飯、東南アジヤ・チャイナタウンそのまんまで大満足。ただラーメンは最近の豚骨&煮干スープ。あのプーンと臭うラーメン屋はもうないのか。

 また行き帰り新幹線窓から目についた、在校生激減と聞く菊陵中学校舎がさびしく見えるのが実に傷ましい。北九州モノレールが、小倉の街の人の住む流れを変えたのか。ユタカホテルの窓から見る一帯はビジネスホテルだらけ。

 当方、小峯先生の英語落第生でも30年以上通弁まがいの元業界人、聞こえてくると気になる英語。北九州モノレールでの案内は抑揚のないカナダ(?)英語の感じだった。小倉駅は相変わらず高飛車な進駐軍米語で辟易~新幹線のJR西日本サン~あんなん必要ないだろうに。
 あぁ進駐軍で思い出した。亜熱帯並みのワシントンと隣接バージニアの真夏、「ワシ、ワ~シ、ワ~シ」とセミが鳴く。部屋に飛び込んだトンマなセミ君をまじまじ観察したが、本邦クマゼミを一回り大きくした透明翅のセミだった~~~
 でも、ニューヨーク方面では「ワシ、ワ~シ、ワ~シ」を聞いたことがないそうだ。バージニアは退役軍人が多く住む。韓国系も多い。小倉進駐軍撤収の際、極東アジアのクマゼミがまぎれて付いて行ったのではあるまいか~~?!まさか?!

 
 

2012年7月20日金曜日

湘南江の島界わい ものがたり(10)ボードウォーク欲しいネ





                                              阪東湖人


 九州地方の豪雨被災~日本列島の大部分は梅雨もようやく明けたと言っても、油断ならぬ天気模様~~
 繰り返しテレビが報じた「大分県では山国川が氾濫し~」の映像に、わが幼児期のおぼろげな記憶が重なります。
 中津の山国川沿い金谷にいた戦後間もない昭和23、24年ごろ、この福岡大分県境の川はやはり氾濫した~その詳細はのちに知ったものですが、まだ堤防もなかった時代の災害でした。また昭和28年の北九州大水害~足立山系の地すべりツメ跡は、ガキ時代に豊楽園球場で野球を見ながら目に入った光景。小倉高校そばの日明も、板櫃川の氾濫で大浸水被害をもたらしたこと。同期生の何人もが体験されたようです。

 でも夏到来という暦通りの行事が関東では行われました。湘南地域では藤沢、鎌倉など海水浴場での海開きは、いずれも7月1日でした。江の島の例を取ると、意外や、生まれは門司というタレントのつるの剛士さんが登場『海に遊ばせてもらっている』という感覚でごみを持ち帰ってもらい、楽しい思い出をつくりましょう」とあいさつ。現在、ふじさわ観光親善大使のつるの剛士さんは、藤沢市長とクス玉を割りました。万事派手好き湘南にしては、なんともジミなものでした。
 かつて海開きはメディアを意識、各地で競い合ったものでした。湘南三浦でも御用邸の町葉山はワンマンT町長が「関東地方で最初の海開き」を新聞テレビで報道してもらうため、域内海辺各市町の”開催期日”情報収集を陣頭指揮。当時、その努力で「海開きのトップは葉山」を定着させました。

 海開きが6月10日という年も。水着姿の葉山マリーナ社員の女性たちは、祝典に花を添えるはずでしたが、梅雨空の砂浜で震えたものです。さすがに各市町競争の「海開きイチバン乗り」には批判も高まり、逆にニッポン得意の自粛オンパレード~~その後は横並びになった様子です。

 ところで写真(上)は、おフランスの地中海岸ヴィラを思わせる~~相模湾に望む閑静な森の中の岩本楼本館。でも一歩離れると「イモを洗うようなヒト、ヒト、ヒト~」という表現でよく映像描写された、首都圏では交通の便がよい片瀬江の島海岸。湘南三浦の海水浴場の代表格です。それだけに地元には伝統産業、いわゆる海の家が育ちます。
 若いころ公務員を辞め、海浜でヤキトリ屋を始めた友人がいます。いまは街中で店舗を持っていますが、若さに任せた頃は「ひと夏で一年分以上の稼ぎ」と笑っていたものです。砂浜にカラフルなテントの海の家が並ぶのは、湘南の夏のシンボルですが、新しもの好きな湘南人なら、もう一歩抜け出てもらいたい気もします。

 それは「ボードウォーク」の整備です。写真(下)はトリップアドバイザー提供のアメリカ・ニュージャージー州のまぁ海水浴場、アトランティックシティーのボードウォークです。この大西洋岸の海浜には、さすが海賊の子孫のやること~帆船甲板のように角材をガッチリ張り詰めた”十三間道路”が数十キロも続き、ホテル、カジノ、レストランが並びます。 

 この写真より左先になる砂浜で甲羅干し、泳ぐ人もチラホラという光景です。歩き疲れて休息、フレッシュオレンジジュースを注文すると、ヒスパニックのおねえさんがにっこり、オレンジ6個を目の前で絞って出しました。

 まぁ、日本にこのボードウォーク??がないわけでもない、という人もいます。三浦半島はヨコスカ~~観音崎京急ホテル裏、約600メートルに自称ボードウォーク。
 「海と緑の一万メートルプロムナード計画」の一環として整備した遊歩道~~で、高潮防護機能があるとか~~ でも、鎌倉大仏サマの大仏殿が巨大地震による津波で流されたとか~~イヤそうではない~いろいろ言われますが、結局このミニボードウォークも高波”一襲”で跡形もなくなりそう~いかにもお役所仕事のニオイふんぷん~~デスネ。

 高潮防護機能~~といえば、片瀬江の島から鎌倉の湘南海岸は、”予想される”大津波無防備地域。いろいろ避難訓練もやってらっしゃるのですが、国土交通省サン、一度、発想を変えるわけにいかないのでしょうか。アメリカ大西洋岸は、最近日本のテレビでも報じる巨大ハリケーン常襲地帯。本来のボードウォークは高潮防護機能もあるようです。

2012年7月7日土曜日

湘南江の島界わい ものがたり(9)元東筑同窓会長と”楼”




                                              阪東湖人


 「裸の江の島弁天と浅草の観音さま どこが同じ??」~~とのご指摘で赤面する前に自己申告します。わたしの知識、せいぜいこの程度~というのが以下~「ものがたり(6)~~」 の3,4段落あたりの”怪しい”記述~~
~「第一、観音サマが鎮座されるというのも、江戸市中~イヤ、江戸学のあのサイデンスティッカーさんの言うところの「当時は辺境の歓楽街、浅草」と江の島、言うなれば同じじゃないですか」~
 また加えるに、日本文学の権威サイデンさんを「江戸学」ナンテ流行りコトバ話に結びつけたこと~~いずれも軽佻浮薄で、ご迷惑をかけたことお詫びします。

 というわけで、今回は番外の寄り道、当地から簡単に行ける浅草に足を向けました。浅草寺で秘仏の観音さまに遠くから「マンマンチャ~ン」し、改めて確認した次第。この観音さまは秘仏で誰も見たことがない~しかも戦災で寺は全焼~実にバチアタリですが、本当にあるのか?ないのか?
 ~でも江の島のほうは俗も俗”ハダカの弁天さま”が目の前で見られるのです。
 バチアタリのついでです。福岡支部から怒られそうな話~~浅草観音サマと同じように、偶然、志賀島で発見されたという、現黒田家所蔵の例の「金印」
 ~アレもなんや、封建時代の”出来すぎた話”のようにみえるのですが~~

 下町の夏の風物詩~以前の小倉祇園と時期がほぼ同じか~浅草寺では7月9日、10日の両日、境内は「ほおずき市」で賑わいます。
 今回、浅草にこだわったのは会社時代、ポンツク社員のわたしを大抜擢する大バクチを打った故上司への恩義から。この上司の眼に留まらなければ、大勢のなかに埋もれたまま~その後のわたしはなかった。
 生粋の浅草っ子で、粋だが口も相当辛口だったこの上司が、なぜリスク大きいポンツク社員を引き上げたのか~~永遠のナゾです。上司の家は浅草寺仲見世のセンベイ屋さん。寄ってご挨拶をすると、ほおずき市が命日で今年もう27回忌でした

 浅草には江戸の昔、岡本楼という有名な遊郭があったそうです~~どうも江の島岩本楼を意識して以来、アチコチの「楼」が目にとまります。まずは金語楼ですが~それは置いといて~
 死んだオヤジの悪友に、長らく東筑高同窓会長を務めた某氏がいました。オヤジとは昭和の初めの大学応援団の仲間であり、卒業後、2人は相次いで満洲へ。戦後、県会議員からスタートした某氏の方は地元名士~
 ~まぁ、最近、政治倫理感を問われた地元選出「メガネドラッグかっぷくメタボ」みたいなものでした。

 で、生前の東筑高同窓会長某氏から聞いたのが「息子さんを前にしてはチョット~だが、ワシと××××さん(故オヤジ)は、あのころ、市電で玉ノ井からしばらく大学に通ったことがあった」~~初耳でした。
 初耳~でも思い当たるのは、沈黙のわがオヤジが、下町の馬刺にはなぜか詳しかったことです。いま生レバー禁止で注目の馬刺屋ですが、「精が付く」と旧遊郭街に多かったものです。
 また戦前学生街からの交通ルート(東京神田の)須田町~浅草~寺島町(玉ノ井)を結ぶ都電は、昭和40年代半ばまで存続していました。東武鉄道のシンボル業平橋駅が最近、とうきょうスカイツリー駅となりましたが、付近の東向島駅も大正時代からの玉ノ井駅を20年ほど前に改名したものです。

 ちなみにこの東筑同窓会長の娘さんは、愛宕が丘でわれら8期前の先輩。「よお勉強がデクル(出来る)ので小倉に行った」ということでした。このことからも当時の愛宕が丘の隆盛ぶりがうかがえます。

 前田和慶先生が、われら思春期生徒を前に「言いにくそうに」~一葉の吉原、荷風の「濹東綺譚」玉ノ井という文学を語りましたが、その頃は一部の文学早熟生以外には、チンプンカンな話ではなかったでしょうか。
 最後に江の島に戻りまして、載せてある旧旅館の写真のことです。このように玄関入ってすぐ二階に通じる大きな階段があるのは、待合、また遊女を侍らせるサインでもあったそうです~
 ~荷風の玉ノ井同様、いまや歴史風俗の話となりましたが、いずれもその裏にあった悲惨な女性史は、忘れることなく後世に伝えるべきものです。