2011年9月1日木曜日

「なぜか 鎌倉ものがたりシンドローム」

阪東 湖人
 昭和50年代、会社では深夜、早朝勤務が多く、泊りには仮眠室を使った。誰が読むのか仮眠室寝床には決まって漫画雑誌が。枕元の灯りの下でめくると、懐かしくほのぼのとした世界が広がった。仮眠室を使うのが待ち遠しい~。それが西岸良平の「鎌倉ものがたり」。後のテレビアニメ、また大ヒットの映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の原作者、西岸の描くこのトーンは、「鎌倉ものがたり」でも共通した下地。実に忘れがたく、そのコミック本が近所のコンビニで目にとまり、早速買った。

 それより前の横浜勤務時代、鎌倉育ちで湘南高校OBの先輩Nさんがいた。藤沢にある湘南高校の戦後一時代は文武両道、小倉高校とよく似た県立名門。実際訪れてみると米厚木基地のジェット機が頭上をかすめる騒音、雰囲気はガスタンクを背景にしたわが母校の雑然さとも共通していた。  話を鎌倉育ち先輩Nさんに戻すが、そのしゃべり口はとても鎌倉イメージではなく、実に荒っぽい相模海浜言葉であっけにとられた。太陽族裕次郎のセリフのごとき「オッ(押)ペしてよぉ~」「しゃあんめぇべぇー」~~でも本社に戻ったときには湘南人、別人の標準語。いまは亡きNさんとは仕事で言い争いもしたが懐かしい。

 いまおりしも関東在住15期生の会合では、なぜかこの鎌倉が話題になる。~神社仏閣と相対し、自分を見直す~われらその老域に入ったせいか。各自、その「鎌倉学うん蓄」たるや、孫自慢同様、話し出すととまらない。老年男女が徒党を組み鎌倉散策する“シンドローム”。周囲だけでも先輩12期生たちから、隣組の「関東東筑会」まで。東筑では鎌倉散策専門部会があるほど。また、同郷中学関東在住老年男女の散策は、雨天決行の熱意ぶりだったと聞く。

 なぜ鎌倉にこれほど~~といえば、やはり、映画からテレビ大河ドラマに至るまで、われら世代に刷り込まれた映像サブリミナルのせいでは~~。いまは無き松竹大船撮影所から発した美男美女登場の「ハイカラ湘南」イメージが、栄光の歴史の鎌倉を聖地としたようにもみえる。かつての京浜女子大、鎌倉女子大と名を変えたら、志願者が殺到した。
 でも~郷土史家や日本史の学者センセには叱責されようが~家康が征夷大将軍の先輩頼朝をスターとして掘り起こし、また歴代将軍が武家政治の正統性を具現する道具に、鎌倉幕府の栄光を“再現”するまで、実は巨大な歴史空白がある。

 さらに明治の廃仏毀釈の嵐で大正時代に至っても、鎌倉は再度うらぶれた門前町に。わが先輩Nさんの荒っぽい相模海浜言葉のルーツであり、またその頃、蕎麦、天ぷら、寿司、うなぎ~と何でも出した食堂・茶店が、いま老舗で残るかどうか~関東大震災~鎌倉文士殺到~~その意味では歴史的多面性をみせる鎌倉だ。

 アメリカのオバマ大統領が少年時代に食べた大仏殿茶店を再訪、抹茶アイスを食べた映像は記憶に新しい。東京サミットで訪日した西ドイツのシュミット首相が大仏に直行した故事は、「実はトロイ遺跡発掘のシュリーマンの来日時の鎌倉大仏のメモがあったから」と、日本語スラスラ古参在日ドイツ大使館員から。また、「少年時代にフジヤマ噴火、大地震と大仏を結びつけた怪奇読み物にドキドキした」は、あるガイジンさんから英語で聞いた。

 シーボルトは小倉紫川の常盤橋を渡ったし、意外や後にサラエボで暗殺されたフランツ・フェルディナント大公も明治二十六年、お召し列車で鹿児島本線紫川の鉄橋を渡っていること~高校時代はだれも知らなかった~~どこにも歴史的多面性はある。かくいう私、阪東は一本刀土俵入り駒形茂平の我孫子宿(取手)近隣の在だが、一方、ハンサムだった竹脇無我の出身地、バーナード・リーチに志賀直哉、武者小路実篤が住んだことで、“北の鎌倉” と呼ばれたい人が大勢いる町でもある。