2011年6月24日金曜日

松本清張と「○○の坊ちゃんのある南洋事情」

阪東 湖人

 小倉高物理の故深見守史先生と叔父は文芸同人雑誌の仲間だった。甥の私は文芸世界とは無縁だが、書き残すDNAはこの叔父から受け継いだ~~。

 松本清張の自叙伝「半生の記」に一瞬だが、「~~~○○の坊ちゃんは地元の中学からどこかの旧制高校に入り、東大を出て官僚になった~~~」とのくだりがある。坊ちゃんの親、地主が副業で経営する浴場の今流ボイラー係が清張の両親。のちの文豪は坊ちゃんへの反発を隠さずサラリと切り捨てる。○○の坊ちゃんとは、われら在学中に愛宕が丘の体育館で講演をした先輩。当時、この前労働事務次官は国政選挙出馬準備中。OB連が仕組んだ講演だった。「在学中の成績は超低空飛行~~~ジャワで軍司政官をやった~~」との熱弁はいまだ記憶する。

 話は南洋に飛ぶ。20数年前の話だが当時のインドネシア・ジャカルタには邦人が数千人。愛宕が丘3年同クラスだったU君と出くわしたのも不思議ではないが、それ以上の驚き、意外な人物の足跡が。それがあの講演の大物、南洋司政官時代のロマンスだった。本人も関係者もいまは歴史上の存在、もう明らかにしてもいいだろう。

 常時灼熱のそのジャカルタで、坊ちゃんのロマンス相手に会った。若い頃はさぞかし美人~それをほうふつとさせる中国系の老婦人。馴れそめをほじくり出そうとすると、「恥ずかしい」という現地ジャワの婉曲な表現で受け流した。だが娘の話になると、「英国の大学で医学を修め、ロンドンで医師をしている」と、よどみなかった。その娘の年齢は奇しくもわれらと同じ。戦後、日本には3回行ったとも語ったこの老婦人。応接間のピアノの上には、明らかに戦後に書かれた「闘志」、あるいは「闘魂」だったか、そんな坊ちゃんの直筆が刻まれたプレートが大事に飾られていた。

 坊ちゃんのフィナーレはご存知、県知事閣下としての姿。例の知事公舎スリッパ事件はあまりにも有名だ。老朽知事公舎を建て直したが、その豪華さをマスコミが攻撃。極めつけは、公舎には数千円もする革のスリッパが備え付けられているとの記事~~県民の怒りが爆発、坊ちゃん知事は選挙で敗退した。でもジャカルタでは、革のサンダルなど日常品で安価。それに比べ色鮮やかな透明プラスチックのサンダル、塩化ビニールの水道ホース、フロアマットなど予想外に高価で、たびたび盗まれた。はたして、県知事公舎の革のスリッパはどこから来たものだったのだろう。

 後日談は平成の欧州ブリュッセルで。趣味のカメラから親しくなった光学機器メーカーの駐在員は、坊ちゃんの長男で大手航空会社社員と学習院で同期。長い学園生活で親交があると言った。「でもオヤジさんの南洋ロマンスは聞いたことがないなぁ」とその駐在員氏。それ以上話を続けるのはやめた。南洋の夢はもう歴史のなか、そのままにしておこう~~と。