2012年8月28日火曜日

槻田中学 八幡“マルキュウ” 井筒屋のエレベーターで

 
                                       阪東湖人


 7月末に小倉で亡くなった叔父の通夜葬儀の場で、半世紀ぶりに会ったイトコたちとの会話が残暑のいまも、まだ耳に残っている。北九州は八幡”原住民”を先祖に持つ者のつぶやき~またもや、愛宕が丘学区外通学生の話~~だが。

 イトコたちとの話題は八幡東区槻田川上流域にある斜陽「本家」のその後のこと。すでにほとんどの土地、山林を製鉄関連企業に売り払っていたものの、骨董と茶が趣味だった伯父が亡くなってからは、娘(いまやオバサン)は残りを売り、当時、八幡で一番の高級マンション族になったというのだ。
 なにしろ不便な場所だった。ガキ時代、本家の背後の山でタケノコ掘り。さらなる祖先は飲み水にも使った沢水、それが注ぐ庭の広い池には鯉が苦しそうに斜めに泳いでいた。「池の底が抜けたので水が浅い。そのうち直す」と言った伯父のコトバを思い出した。

 その池の記憶をマピオン地図・グーグルを操っていたら、八幡東区槻田中学のすぐそばに偶然、それらしき場所が。「地域で一番古く、庭は広いが見栄えの悪い家」の様子。いまは誰が住んでいるのか。当時の高槻小は八幡では珍しい木造で記憶がある。でも槻田中学がこんな間近だったのか。
 この槻田中学からの15期同期生が何人もいる。昔、一緒にタケノコを掘ったが、もう故人となったわが同年のイトコも槻田中出身。生前、彼は槻田中から愛宕が丘への進学者が皆、いかに優秀だったか、またそれぞれの人物模様も当時語った。それはいまも妙に親しみをおぼえる人物群となった。

 小倉で一番の高級マンションは、最近の二度の帰倉で見当が付くが、本家のいまやオバサンが購入した八幡で一番の高級マンションとは~~おそらく一族の知れた居住範囲から、しょせん縁のある大蔵界わい旧電車通り付近までが限度のはず。さびしい話であり、それ以上は聞かなかった。

 昭和20年代のこと。本家の伯父と偶然、小倉の井筒屋で出くわした。ニッコリ笑った伯父は「ちょっと待て」と言い、キャドバリーかバンホーテンだったか~~舶来チョコレートを買って貰ったことは忘れられない。

 それでも一族の行動は、やはり八幡中央区志向だった。みんなが“マルキュウ”と呼んだデパート八幡丸物。ここが吸引力。どっちが古いか論議があるが、藩政時代からの小倉の老舗呉服屋「かねやす」は昭和11年、本格百貨店として鉄筋7階建で再デビュー。一方、“マルキュウ”は、新築鉄筋4階建をウリに昭和7年にすでに誕生していた。

 八幡中央区は、背後の大製鉄所の物的人的エネルギーで発展した大正からの新興地域。製鉄の三交代シフト勤務に対応した飲食娯楽の各種店舗で活気があり、伝統の小倉魚町と競った。おまけに少年には「中央区でなければ」のものがあった。
 西テツ電車の方向切替ポイントの先は「▽というか~Y字型の上に横線というか」緩いカーブの軌道であり、それに合せたクモノ巣状架線。行き交う折尾行、砂津行、門司港行、幸町経由戸畑行と、電車のルートもさまざま、いかにも都会風だったから。背後の皿倉山も絵になっていた。さらに「東京や大阪には電車の十字交差がある。なぜ脱線しないのか?」と絵本で夢をふくらませた。

 2,3年前、板櫃町史研究のM君が教えてくれた「黒崎そごうメモリアル」(追記〉北九州市の百貨店史 http://isisis.cocolog-nifty.com/i/2005/11/post_3f0f.html で井筒屋開業に関するおもしろい記述を見つけた。以前書いた「8万人の小倉に東京下町5万人が」~造兵廠「民族の大移動」 に符合する話だ。
 
 「昭和11年10月6日、鉄筋地下1階、地上7階、2,497総延坪で宝町(現・船場町)に完成し開店した。~~(略)~~10数分で店内は各階とも超満員~~(略)~
~特に人気を呼んだのはエレベーターガールで、当時は東京からの転勤者が多数あり、その娘たちが採用されたため、スマートな服装と東京弁が好評であり、筑豊や中津方面からの腰弁当の見物客も殺到して、景気のよい開店風景であったという」~

 M君は拙稿に「下町5万人は多すぎる」と批判したが「なんせ11期の先輩がおっしゃることで~」と返した筆者。それにしても当時東京弁のエレベーター嬢が人気とは~~いまや、東京弁なるもの80歳以上の老婦人でないと、めったにお目にかかれない時代となった。

 元生徒会総務故久野君の口癖だった「出稼ぎで居付いた連中の溜り場トーキョー」。尻上がりアクセントの妙な単語群が会話を席巻してから久しい。それでも10年ほど前か、下町育ちの上司が、掛かってきた老婦人の電話に珍しく長話。「まだあんなしゃべり方、懐かしかったョ」とポツリ言ったことがあった。
 「中津方面からの腰弁当の見物客」も、ホノボノ光景~~井筒屋のエレベーターが上昇し始めた途端、イトコが「パンツが脱げる感じ」と大声。廻りが笑った。彼も当時、中津から来た小学生、昭和20年代後半のことだった。

2012年8月23日木曜日

湘南江の島界わい ものがたり(13) TVの現地紹介 際限なし

              


                                              阪東湖人


 ブッチャけた話、湘南の江の島、鎌倉、逗子の海、実は最上級ではありません。それは後背地の人口をみればご推測できるようにフツーの透明度。とても糸島の「芥屋の大門」の海、松原が広がる砂丘の古賀や宗像の神湊付近には及びようもない。美術部ご用達だった山口・青海島、またESSが使った安岡海水浴場と並ぶべくもない。前回記念同窓会でみなさまご存知、神戸の須磨、舞子。こちらには貫禄負けです。

 関東ではおそらく、房総(千葉)海岸がイチバンだと思います。多くの画家たちは、その「緑色の海」を、おフランスの海岸になぞらえて絵筆を振るいました。久留米出身でよう逝したあの天才画家の青木繁「海の幸」はあまりに有名ですが、館山の砂浜を描いたものです。実際、三浦半島から房総にフェリーで渡ると、途中で海の色が違ってきます。
 湘南の海はよくても~~小峯先生を思い出す「アオ」か、海が浅いせいもあってか灰色です。まぁ鎌倉の画壇の長老は~~故平山郁夫画伯の自宅アトリエにしても海辺からはるか離れた二階堂の谷戸。ご出身、尾道市の島嶼瀬戸田町をほうふつとさせます。
 まぁ、言うてみれば湘南海岸は絵筆を振るう場所ではない。要は首都圏人口を背景にした、娯楽・消費地。最近のウリ、鎌倉野菜なんてどこで採れるものなのか。ステーキ、すき焼きの葉山牛~~も。

 実は三浦半島葉山に隣接する横須賀市秋谷には、かつて作曲家の團伊玖磨、学生運動のバイブル「都市の論理」の羽仁五郎など”ブルジョア”族が住んでおりました。牧場があり、農園がたくさんあるのですが~鎌倉野菜類、多分ここから~~でしょう。ヨコスカ野菜、ヨコスカ牛じゃぁ、アメちゃんの海軍補給艦が陸揚げした冷凍野菜、冷凍牛ですもんね。

 これまたTV関東ローカルには門司生まれで「ふじさわ観光親善大使」のつるの剛士さんが、江の島から鎌倉まで、ブラブラ歩くという娯楽番組が。こんなTV模様はこれまでもたくさん、今後もまた出て来るでしょう。
 とっておきの店、芸能人をトリコにしたカフェ~なんて~まぁ「雨後のタケノコ」。各種レストランが次から次に、やがて客に飽きられ消え、またできる~~。

 ところで来年6月7日のこと。アジサイの季節です。現在、湘南ではもうアチコチに植えまくったせいで、鎌倉の寺など山の上まで~どこもここもアジサイだらけ~あんなんどこでも咲くよ~~という陰口すら。
 それにしてもブラブラ歩きがいいのですが、記念同窓会スケジュールでは貸切バスらしい。われら修学旅行の京の都は、かの盆地は四方に散らばる名所だったからこそバス。
 江の島鎌倉観光はまぁ、横流れルート~~江ノ電&ブラブラ歩きでも~~と、外野席では思うのですが~~まぁ、岩本楼 http://www.iwamotoro.co.jp/ 大宴会二次会、三次会と続いた徹夜老人には無理かもネェ。

2012年8月17日金曜日

湘南江の島界わい ものがたり(12) かしわめし 鯵の押寿司




                                              阪東湖人


 最初に~~N先生、ご活躍の様子、「ふらて会グループ やすらぎの森日記」をいつも拝読しています。いまは阿蘇谷の陶芸家K君ですが、彼がやっていた信州菅平ペンション宿泊ご一緒以来、すっかりご無沙汰しています。現在、篠栗在住か、いまや中国通のY君も菅平で同宿しましたね。「請事後承諾」となりますが、懐かしかったという湘南名物・大船軒の「鯵の押寿司」の写真を拝借すること、お許し下さい。

 で、話は駅弁に。以前、書いた東筑軒の「折尾名物 かしわめし」、コレも新幹線効果なのか、最近東京品川駅でも、かしわめしの「マガイもの」が登場しています。
 下記写真のホンモノ、今年、叔父の病気見舞いで帰倉。戻り新幹線に乗る際、小倉駅で買ったものです。
 この折尾かしわめしとともに、食べた後は箱に描かれた「にわかのお面」をくり貫いて遊んだセンベイ「博多にわか」は子ども時代、父親のみやげで待ち望んだものでした。

 関東では同様の名物駅弁として、冒頭にあるN先生の話。近年上京の帰途、羽田空港までの車中で堪能された大船軒の「鯵の押寿司」があります。
 鎌倉市大船にある大船軒。創業明治31年で、鯵の押寿司はサンドイッチ弁当と並んで有名です。鎌倉から藤沢エリアは当然、大船軒の「鯵の押寿司」販売圏です。

 でも話は複雑です。平塚以西が販売エリアのライバル、小田原東華軒の創業は明治21年。で東華軒が関西風の押寿司を駅弁「小鯵押寿司」として誕生させたのが明治36年。東海道駅弁の元祖と誇る東華軒のものは、口直しのシソ巻入りが伝統”レシピ”でもあります。

 大船軒びいきで口の悪い湘南人の「小田原のはヨォ~アジをケチって、シソ巻をまぜてヨォ~」との、アケスケ発言もみられます。が、このオトウサンのセリフ、御殿場線が東海道本線だった「国府津駅栄光の歴史」を知ろうともしない湘南族特有の藤沢鎌倉”中華思想”から出たものです。

 なんせ昭和初期まで国府津は展望車付き特急「富士」ですら停車した主要駅。要人、名士、淑女を顧客にした由緒正しい駅弁。しかも現在、東華軒のものは小田急グループの小田急商事が扱い、小田急電鉄内管内で販売します。

 このためか小田急片瀬江ノ島駅では、小田急とつながる東華軒に配慮、周辺は大船軒領域なのに当の「鯵の押寿司」は目立たない場所で不定期販売とか。N先生はどうやらJR鎌倉駅で大船軒の鯵の押寿司を買った様子です。

 ところで神奈川県湘南地域には、平塚江南高校という県立進学名門校があります。平塚育ちで高女系のこの高校に在籍した会社の先輩がいました。高校の後半は、親の九州転勤でクマタカ(熊本高校)に転校。あだ名は早速「トウキョー」と付けられたと笑っていました。

 熊本といえば、今年も深刻な水害で避難指示2万世帯以上にもなった暴れ白川の流域ですが、昭和32年にも大小河川が大氾濫、水前寺公園と江津湖も大被害を受けました。わたしが詳しいのは水害の直後の小学時代、父親とこの江津湖に行った経験があるのです。
 ~~話は弁当から離れ、脱線にも見えますが、まぁ言うてみれば現在の御殿場線のように、国府津から東海道本線を別れ、箱根山群をグルリ迂回したようなものです。

 で、この会社の先輩の平塚江南時代の同級生には、小田原東華軒の子息がいて、なにやら”余り”を友達に配ったので、通学の弁当には困らなかったというのです。この先輩、6歳年長で戦中幼児、戦後の食糧難を体験した世代。その高校時代は昭和30年代初めですから、わたしが父親のみやげ、折尾のかしわめしを待ち望んだ時期。駅弁はそれぞれに、ご馳走でした。
 嗚呼あの会社~~大阪本店vs.東京本社、先輩後輩入り混じり”脚の引っ張り合い”~デシタ~。でも、この先輩とわたしが食、酒と、妙に話が合ったのは、同じく九州の高校を卒業していた連帯感からでしょう。

2012年8月10日金曜日

稲津先生は"暴力制圧型"体育教師でなく原田泰造風でした




                                              阪東湖人


 関東ではBS朝日がやった「歴史発見 城下町へ行こう 城下町小倉~」。ふと見ると、懐かしい顔、声が聞こえました。その人物は「長崎街道 小倉城下町の会 副会長 稲津義行さん」~81歳だそうですが、大変お元気な様子が (液晶ではなく) ブラウン管画面から、うかがえます。
 稲津老はその昔、保健体育教師でした。菊陵中から昭和33年思永中に異動、3年間勤務されました。愛宕が丘でも先生を知る人は多いはず~というのも当時、小倉高入学者数は菊陵、思永の順でしたから。

 小倉の歴史を書いたもの見た、わたしの知る限り~「小笠原藩主は明石から~~」ばかりで、信州松本はあまり取り上げられないようです。
 が、小笠原の源流は信州松本、つまり小笠原忠真は松本藩2代藩主でありました。さらに明石藩主から小倉に移封されたこと、「歴史発見 城下町へ行こう 城下町小倉~」では、地図で示しています。

 ところで稲津先生の若かりし頃は~~お笑いタレントで俳優としてもナカナカのキャラ、原田泰造に度の強いメガネをかけさせたイメージ。ジャージのトレパン姿の熱血先生で、女生徒に人気がありました。
 いまは小倉高級中学の感の思永、でも当時は結構、荒れる学校で、まぁ、いろんなことがありました。
 表に出せない事件もあります。後で知った話も~~そうした環境で体育教師は”暴力制圧”型が多かったのですが、稲津先生はあくまで”原田泰造”ムードでした。
 
 で、この歴史番組で稲津さんが語ったハイライトは、小倉入りした初代藩主、小笠原忠真は、家康、信長のひ孫に当たる人物ということを分かりやすく解説したことです。
 小笠原氏は譜代大名として、九州の外様大名をウォッチしたとは常々聞いたものですが、譜代といってもそのグレードがダントツ。専門家はともかく、一般人は知らないことではないでしょうか(実はわたしだけだったりして~~)。

 小笠原藩は幕末、長州征伐に尖兵となって出兵、逆に攻め込まれ、自ら城を焼いた~~明治初年には会津藩家老の二男、郡長政らを預かった~筆頭譜代大名としての面目だったのでしょうか。
 
 稲津さんはお分かりのように、郷土史専門家。板櫃町研究の同期M君は会っていろいろ話を聞いたそうです。
 ご自宅が八幡東区の槻田川(金山川)上流、小学生の頃タケノコ掘りに行った山深いわたしの先祖の地というのも、個人的に親しみをおぼえるものです。

 ~なお、「歴史発見 城下町へ行こう 城下町小倉~」のDVD見たい人がいれば、簡易包装で送ります。管理人のS君が阪東湖人メールを知っています。ご連絡下さい。
みんなで回し見すればいいのでは。

2012年8月3日金曜日

湘南江の島界わい ものがたり(11) 小田急の祖と日銀法王




                                              阪東湖人


 いま絶好の海水浴日和。古い表現ですが浜辺はイモを洗うような人出~でも、湘南江の島界わいでは「海の家もおしゃれにヘンシンしている様子~~」と週刊誌が特集しています。なかでも鎌倉由比ガ浜海水浴場、ボードウォークまではいかないものの、ウッドデッキスタイルが主流とか。
 まぁトタン張り屋根にヨシズ~ゴザ敷き板張りで氷水~ラーメン焼きそばの時代は過ぎ去り~~ところで、来年6月6日の江の島記念同窓会は、この”年次大狂想曲”はるか前、喧騒はまったくないので~ご安心を。

 海浜には長らく住んだわたし。海水浴も十分、ああ南洋もタップリ体験で、盛夏に浜辺に近づく気分ではありません。で、テレビを眺めると関東地方では江の島が、毎度、定点観測のお天気カメラで映ります。

 さらに民放が、江の島海浜狂想曲を軽い”やらせ”というか、再現ドラマ風で放映していました。
 とにかく江の島エリアは、首都圏住民を小田急電鉄がかっさらってくる交通の便のよさ。まぁ、いろんな人がこの海浜に集まってきます。
 この小田急王国を築いたのが安藤楢六なる人物。別府生まれで旧制大分中(現大分上野丘高)出身。お役人目指すも高等文官試験に失敗、縁あって小田原急行鉄道に。
 戦後1948年小田急初代社長サン。なんと69年まで続けその後会長サン。”安藤テンノウ”でした。
 われわれ学生時代、「小田急は大分出身じゃなければ~オオイタ閥の会社~」などと言われました。

 同時期もうひとり、西独高級紙フランクフルターアルゲマイネを愛読、「法王」と呼ばれた人物が当時の日本国のサイフを握っていました。で、この法王サマは安藤テンノウの大分中の先輩。
 まぁチト落ちるが~~言うてみれば「堺町小出のかっぷくメタボに、中島小出の学者センセ総裁」のような関係。

 大分上野丘の名前は、高橋範義先生から「旺文社模擬西日本、またイチバンがウエノという上野丘の女生徒~」と、繰り返し聞かされました。叱咤する高橋先生には申し訳ないのですが、わたしには他人事のお経~~皮肉にも覚えてしまいました。
 十年ほど前空路大分に行った際、上野丘出のオバサマ方と、おフランス料理店で偶然ご一緒に。お近づきのネタに「旺文社模擬西日本の~」と、うかがったら、「アア~あの人ネ、九大医学部に~」で、話がはずみました。
 このオバサマ方、われわれより一学年下、この高級店のオーナーも上野丘出、おフランス料理での同期会でした。
 まぁ、今日の江の島界わい、それに箱根観光の隆盛は、東急、五島慶太と西武、堤康次郎のバトルの結果だけではありません。われら隣国、豊後別府温泉伝統の”観光ノウハウ”を、相模の国に導入という大分上野丘高の逸材、小田急、安藤楢六翁なくしては語れない。

 江ノ電の現社長、なんや篠笛が趣味という風雅さですが小田急出身です。江の島は別名、”江ノ電島”と、地元で言います。皆さまお泊り予定の岩本楼 http://www.iwamotoro.co.jp/ も小田急グループ江ノ電の、それはそれは強い影響を受けている様子です。
 ところで「若いお二人さん、この由緒ある宿屋はラブホテルではありませんョ!!」~~なんて、ネタミ深い、ヒヒジジイ的セリフはいけませんねェ。