2012年8月17日金曜日

湘南江の島界わい ものがたり(12) かしわめし 鯵の押寿司




                                              阪東湖人


 最初に~~N先生、ご活躍の様子、「ふらて会グループ やすらぎの森日記」をいつも拝読しています。いまは阿蘇谷の陶芸家K君ですが、彼がやっていた信州菅平ペンション宿泊ご一緒以来、すっかりご無沙汰しています。現在、篠栗在住か、いまや中国通のY君も菅平で同宿しましたね。「請事後承諾」となりますが、懐かしかったという湘南名物・大船軒の「鯵の押寿司」の写真を拝借すること、お許し下さい。

 で、話は駅弁に。以前、書いた東筑軒の「折尾名物 かしわめし」、コレも新幹線効果なのか、最近東京品川駅でも、かしわめしの「マガイもの」が登場しています。
 下記写真のホンモノ、今年、叔父の病気見舞いで帰倉。戻り新幹線に乗る際、小倉駅で買ったものです。
 この折尾かしわめしとともに、食べた後は箱に描かれた「にわかのお面」をくり貫いて遊んだセンベイ「博多にわか」は子ども時代、父親のみやげで待ち望んだものでした。

 関東では同様の名物駅弁として、冒頭にあるN先生の話。近年上京の帰途、羽田空港までの車中で堪能された大船軒の「鯵の押寿司」があります。
 鎌倉市大船にある大船軒。創業明治31年で、鯵の押寿司はサンドイッチ弁当と並んで有名です。鎌倉から藤沢エリアは当然、大船軒の「鯵の押寿司」販売圏です。

 でも話は複雑です。平塚以西が販売エリアのライバル、小田原東華軒の創業は明治21年。で東華軒が関西風の押寿司を駅弁「小鯵押寿司」として誕生させたのが明治36年。東海道駅弁の元祖と誇る東華軒のものは、口直しのシソ巻入りが伝統”レシピ”でもあります。

 大船軒びいきで口の悪い湘南人の「小田原のはヨォ~アジをケチって、シソ巻をまぜてヨォ~」との、アケスケ発言もみられます。が、このオトウサンのセリフ、御殿場線が東海道本線だった「国府津駅栄光の歴史」を知ろうともしない湘南族特有の藤沢鎌倉”中華思想”から出たものです。

 なんせ昭和初期まで国府津は展望車付き特急「富士」ですら停車した主要駅。要人、名士、淑女を顧客にした由緒正しい駅弁。しかも現在、東華軒のものは小田急グループの小田急商事が扱い、小田急電鉄内管内で販売します。

 このためか小田急片瀬江ノ島駅では、小田急とつながる東華軒に配慮、周辺は大船軒領域なのに当の「鯵の押寿司」は目立たない場所で不定期販売とか。N先生はどうやらJR鎌倉駅で大船軒の鯵の押寿司を買った様子です。

 ところで神奈川県湘南地域には、平塚江南高校という県立進学名門校があります。平塚育ちで高女系のこの高校に在籍した会社の先輩がいました。高校の後半は、親の九州転勤でクマタカ(熊本高校)に転校。あだ名は早速「トウキョー」と付けられたと笑っていました。

 熊本といえば、今年も深刻な水害で避難指示2万世帯以上にもなった暴れ白川の流域ですが、昭和32年にも大小河川が大氾濫、水前寺公園と江津湖も大被害を受けました。わたしが詳しいのは水害の直後の小学時代、父親とこの江津湖に行った経験があるのです。
 ~~話は弁当から離れ、脱線にも見えますが、まぁ言うてみれば現在の御殿場線のように、国府津から東海道本線を別れ、箱根山群をグルリ迂回したようなものです。

 で、この会社の先輩の平塚江南時代の同級生には、小田原東華軒の子息がいて、なにやら”余り”を友達に配ったので、通学の弁当には困らなかったというのです。この先輩、6歳年長で戦中幼児、戦後の食糧難を体験した世代。その高校時代は昭和30年代初めですから、わたしが父親のみやげ、折尾のかしわめしを待ち望んだ時期。駅弁はそれぞれに、ご馳走でした。
 嗚呼あの会社~~大阪本店vs.東京本社、先輩後輩入り混じり”脚の引っ張り合い”~デシタ~。でも、この先輩とわたしが食、酒と、妙に話が合ったのは、同じく九州の高校を卒業していた連帯感からでしょう。

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