2012年8月10日金曜日

稲津先生は"暴力制圧型"体育教師でなく原田泰造風でした




                                              阪東湖人


 関東ではBS朝日がやった「歴史発見 城下町へ行こう 城下町小倉~」。ふと見ると、懐かしい顔、声が聞こえました。その人物は「長崎街道 小倉城下町の会 副会長 稲津義行さん」~81歳だそうですが、大変お元気な様子が (液晶ではなく) ブラウン管画面から、うかがえます。
 稲津老はその昔、保健体育教師でした。菊陵中から昭和33年思永中に異動、3年間勤務されました。愛宕が丘でも先生を知る人は多いはず~というのも当時、小倉高入学者数は菊陵、思永の順でしたから。

 小倉の歴史を書いたもの見た、わたしの知る限り~「小笠原藩主は明石から~~」ばかりで、信州松本はあまり取り上げられないようです。
 が、小笠原の源流は信州松本、つまり小笠原忠真は松本藩2代藩主でありました。さらに明石藩主から小倉に移封されたこと、「歴史発見 城下町へ行こう 城下町小倉~」では、地図で示しています。

 ところで稲津先生の若かりし頃は~~お笑いタレントで俳優としてもナカナカのキャラ、原田泰造に度の強いメガネをかけさせたイメージ。ジャージのトレパン姿の熱血先生で、女生徒に人気がありました。
 いまは小倉高級中学の感の思永、でも当時は結構、荒れる学校で、まぁ、いろんなことがありました。
 表に出せない事件もあります。後で知った話も~~そうした環境で体育教師は”暴力制圧”型が多かったのですが、稲津先生はあくまで”原田泰造”ムードでした。
 
 で、この歴史番組で稲津さんが語ったハイライトは、小倉入りした初代藩主、小笠原忠真は、家康、信長のひ孫に当たる人物ということを分かりやすく解説したことです。
 小笠原氏は譜代大名として、九州の外様大名をウォッチしたとは常々聞いたものですが、譜代といってもそのグレードがダントツ。専門家はともかく、一般人は知らないことではないでしょうか(実はわたしだけだったりして~~)。

 小笠原藩は幕末、長州征伐に尖兵となって出兵、逆に攻め込まれ、自ら城を焼いた~~明治初年には会津藩家老の二男、郡長政らを預かった~筆頭譜代大名としての面目だったのでしょうか。
 
 稲津さんはお分かりのように、郷土史専門家。板櫃町研究の同期M君は会っていろいろ話を聞いたそうです。
 ご自宅が八幡東区の槻田川(金山川)上流、小学生の頃タケノコ掘りに行った山深いわたしの先祖の地というのも、個人的に親しみをおぼえるものです。

 ~なお、「歴史発見 城下町へ行こう 城下町小倉~」のDVD見たい人がいれば、簡易包装で送ります。管理人のS君が阪東湖人メールを知っています。ご連絡下さい。
みんなで回し見すればいいのでは。

0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。