2013年1月26日土曜日

小倉南区と北前船とに縁 徳光和夫氏「ファミリーヒストリー」

               


                                              阪東湖人

 
 「同期生共有ブログであるべき場を、我が物顔で独占!」と批判これありの晩秋。「嘉田のオバチャン・ヨイショ!」を最後に、ブログ電子筆を絶ったわたしでした。が早春、NHK放映「ファミリーヒストリー」に徳光和夫氏の巻。小倉南区徳光、北前船、郷土史家の稲津義行先生再登場~~いやこれぞ、わが異端ブログの最終章と再発念、あえて電子筆を限定スイッチオンしました。
 稲津先生は半世紀前、菊陵、思永中に在籍。2012年8月10日掲載の『稲津先生は"暴力制圧型"体育教師でなく原田泰造風でした』は意外やアクセスも多数。また最後の小倉中生、黒崎在住の大先輩も脳老化防止には「汗、恥、文字をかくべし」と、ブログで説くことにも勇気付けられます。
 立教出身の徳光和夫氏は熱狂を超えた狂信的巨人ファンと、わが対極。その野球すら~高校時代前半、三萩野に通いつめたのは「わが青春のマリアンヌ」と、スタンドで同席できる一瞬夢見心地からでした。
 また立教については、明治応援団上がりのオヤジらが「慶応、立教、文化学院は不良のガッコ」と、生前、譲らなかった。偶然だがこれに娘が、中、高、大学と立教に世話になるというアンビバレントな感情の中で、徳光とは?と「ファミリーヒストリー」を見始めて、思いがけない往時の”日本海新幹線”北前船の歴史展開に吸い込まれたのでした。

 まぁ、以前同様の悪癖に加え、老人粘着性症候群を発症~~前置きが実に長すぎるのはスミマセン~~
 で、ファミリーヒストリー徳光和夫氏の現ルーツは北海道江刺で縁者も存在します。しかし徳光という地名が、日本全土でも小倉南区徳光にのみ残り、加えて徳光和夫氏も「オヤジが先祖は大分(豊州)出身と言った」と語っています。まぁ、小倉は旧豊前國でありますから符合も致します。
 徳光村は紫川沿い。往時は小倉港との間で河川交通もあった。 
 稲津先生の解説では、「長州藩との小倉戦争で疲弊した(豊前)徳光村民が北前船で北海道に渡ったことはあり得ること」としていますが、それ以上は判明しない様子。一方、わたしには昔、菅生の滝への遠足のときでしたが、「徳光」という西鉄バスの行先表示の記憶があります。

 さらにテレビ、石川県能登に徳光集落があり、一村の多くが徳光姓であること。この能登の地が徳光和夫氏の遠い先祖とつながりました。このキーワードが実に大坂~瀬戸内~門司田ノ浦~能登~江刺を結んだ北前船。
 ところで話は近世ですが、門司のあのK画伯、「先祖は名立たる廻船問屋~」と同期生の奥方が言っていたし、同じく、現北九州で活躍のS女史(後輩)の実家も、廻船問屋だったと聞き及びます。大正時代には九軌(のち西鉄)支線が門司田ノ浦まで伸びていたのも、この北前船の名残でしょうか。

 石原慎太郎の小説で昔、テレビや映画化された「青年の樹」登場人物のモデルが、現横浜財界人にいます。Fu Y夫氏は、港湾関係、球場、FM放送経営と多忙。わが現役時代一度、仕事で会いました。この横浜財界人、なんと同期Fu M夫君と名が一字違い。

 同期Fu M夫君の場合とは、まぁ他人の”そら似”でしかないでしょうが、この横浜財界人Fu Y夫氏の自叙伝では、ルーツは福井の何とか村で、一村ごとFuという苗字。父親は横浜で沖仲士上がりだといいます。

 徳光和夫氏の祖父は日露戦争後、港町神戸に。また横浜財界人Fu Y夫氏の父親は横浜に来た。北前船の世界は、このようにやはり、港町との濃いかかわりがうかがえます。まだまだ~~北前船がもたらした文化風俗類似点。北九州でも昆布多用とか、京都のバカ高いイモボウの原型、正月に干鱈をもどし、甘辛く煮た食材とか~~会社時代、北九州と同じ話し方をする後輩がおり、「あんた、同郷ネ?」と聞いたら「新潟デス」ということでした。同じイントォ~ネ~ション、これもまた、日本海北前船文化の名残でしょうか。