2012年2月25日土曜日

小倉北区 中井浜ものがたり(後)=Fukuoka 3-B POW Camp編

                                                                            阪東湖人

 櫓山荘跡を怪人二十面相の隠れ家と信じた戦後間もないワルガキ時代。中井浜の櫓山荘がけ下の境川沿い砂州には、木造バラックが並んだ。当時、ここに家族と住む小学級友を訪ねた。何かの施設の転用とは子ども心にもわかった。電柱状の大きな材木が建物内外の支えに何本もあるバラック群は、中国、朝鮮半島からの引揚住宅と後で知った。電脳情報の現代、中井浜の引揚住宅木造バラック群とは~ネットで偶然、それも導かれるようにたどり着いたのが旧連合軍捕虜、関係者のHP。それは Fukuoka 3-B POW Camp という名称だった。

 Fukuoka 3-B POW Camp は日本軍「中井浜聯合軍俘虜(捕虜)収容所」のこと。HPの資料写真、さらに関連ページに飛ぶと米英蘭の捕虜が収容され、Nepots power plant(日発)、YAHATA SEITETSU での強制労働~~収容所監視の日本軍将校、兵士がCruelだったとの表現や、製鉄所クレーン作業事故で死んだ仲間の記述がある。日本敗戦と収容所解放時の喜びに加え、米機B29から中井浜収容所への食糧投下、栄養失調の捕虜たちや、死亡者の一覧も見られる。

 ネットの内容は、彼らがよく使う「許そう、だが決して忘れない」あのトーンを超える。産業県福岡の各所には同様、連合軍捕虜が収容され、戦争支援の労働力として使われていた。ここではそれ以上は触れまい。
 一方、旧小倉中出身で大先輩、水野勲新日鉄副社長(明陵同窓会第4代会長)は生前の対談場面で連合軍捕虜について「イギリス、オーストラリア、インド兵の捕虜たちで、1,200人ぐらいいましたね。でも、製鐵所もクリスマスパーティをしたり、扱いに気を遣っていましたから、終戦後も何も問題は起こりませんでした。(後略)」と語る。=西日本シティ銀行:地域社会貢献活動:ふるさと歴史シリーズより

 また旧八幡中からの生徒勤労動員で連合軍捕虜と一緒に働いた叔父も、「なぁケネディ!この戦争が終わったら、君の国に遊びに行くからな」と軽口たたく仲にまでなったと、同人誌に書いている。捕虜たちも昭和20年前後の時点で、日本がほどなく降伏に追い込まれるとの母国放送の情報を密かに得ており、製鉄所側も故水野氏のいう”厚遇”に出た様子だ。
 付け加えると、叔父のいう「~ケネディ!」とは、ケネリーKennely米陸軍兵のことであると、ネットの捕虜名簿で確認できた。

  願わくば、北九州市も櫓山荘跡という華やかなサロン文化の記念碑だけでなく、そのがけ下、「中井浜連合軍俘虜収容所跡地」の保全あらんことを。無辜(むこ)の民多数が犠牲になった、あの米軍の北九州大空襲とともに、Fukuoka 3-B POW Camp も「負の遺産」の一部として是非、後世に伝えてほしい。

2012年2月23日木曜日

小倉北区 中井浜ものがたり(前)=櫓山荘跡編

                                                                                                                                     阪東湖人
                                                                                                                                       

 ~西テツ電車が市街を走る記憶のまま~故郷を離れ半世紀人間の最新情報ネタ元を明かすと「北九州のあれこれ」というHPがその一つ。そのなか「北九州展望」の巻にあるのが櫓山荘跡=小倉北区中井浜だ。「かつてこの櫓山荘には、作家の里見弴、久米正雄、宇野浩二、作曲家の中山晋平、童話作家の久留島武彦など多くの著名人や文化人が訪れ、北九州にサロン文化の花が咲きました」とある。櫓山荘は響灘~いや小倉高流だと~大空涵(ひた)す玄海~に臨む、白砂青松の海辺の高台にあった。

 が、まぁ文芸世界には無縁の半世紀人間。この櫓山荘には別の面での思い出がある。小学ワルガキ時代、仲間とこの場所を「怪人二十面相の隠れ家」と信じて探検に出掛けた。境川側から崖をよじ登って到達した櫓山荘洋館はまだ、わずかだが原型をとどめていた。いま思えばサンルーム(当時は小学校にもある温室と思った)のガラスはコナゴナ、まったくの廃墟。でも「確かに怪人二十面相がオル」~ワルガキらは、妙に納得したものだった。

 数年前に12期生HPで、RKB毎日による「探検! 九州 小倉高校・日明かいわい」の収録DVDを関東在住者が回し見をしているのを知り、当時の管理人先輩Kさんから無理に借用、むさぼり見た。案内のRKB北九州局白木正四郎アナ、どこかで見た顔と思ったら白木正元旧戸畑市長の息子。それはさておき、DVDにはもちろん、小倉高も登場した。でも半世紀人間が最も注目したのは櫓山荘から南になるが、昔の九州工業高校で現真颯館高校と北小倉小の間の坂道の名称のこと。白木アナらの声は「▼▲タマ坂」と、▼▲部分は音声消去の”不自然な”ものだった。

 ▼▲タマ坂~実は当時の周辺ワルガキらには有名な坂道の名だが、その場所はこの日まで、真颯館高校わきの西テツ電車道に沿う坂道のことと信じていた。当時、遠足で乗った西テツ電車内でみんなが「▼▲タマ坂、▼▲タマ坂」とはやしたて、先生に怒られた。ところで北小倉小とはいつ出来たのか?~ワルガキ時代、この地は鉄のバールを使って度々ベンケイガニの巣穴を掘り起こし、農家の人に怒られた場所だった。
 でも、戸畑区と小倉北区を分ける境川沿い、この中井浜ものがたり~文芸と少年時代の郷愁だけの世界ではない。それは次回に。

2012年2月21日火曜日

北九州放送局に福岡放送局、なにか特別なわけ?

 阪東湖人

 あるとき、NHKの放送記者と知り合った。彼の駆け出しが京都放送局というので、ふと思い出し、「じゃぁ小峰さんを知っていますか?」と聞いたら、「ハイ、あの方はいま熊本放送局長です」との返事。小峰さんとは~~かの日、英語恐怖症になった愛宕健児も多い(?)あの厳格英語の小峰昇先生、そのご子息のこと。NHKにいるとはかねてより聞いていたし偶然、顔もテレビで知った。
 はるか白黒テレビ時代だが、居酒屋隅のブラウン管を見上げると、調理のアブラで汚れた黄色い画面には、とある事件模様を語る京都放送局記者。その名前が「小峰」とあり、あの怖い先生に似た顔。でもご子息の語り口は穏やかだった。

 小峰先生の訃報はNHK熊本放送局長の父として、各新聞全国版にほとんどもれなく載った。実際、熊本放送局長はかなりのエライさん。関東でいえば、横浜放送局より甲府放送局の方がエライ例のごとく、四方八方に電波を飛ばすパワーの差からランクが生まれる。
 八幡西区に住むMから聞いた話だが~北海道は別にして、二つのNHK放送局が同県内にあるのは福岡県だけらしい。北九州放送局に福岡放送局、なにか特別なわけがあるのだろう。こんなエピソードも~~韓国でまだテレビ放送が始まる前、かつ日本文化情報ご法度の時代の昭和30年代、日本に近い釜山の富裕層は首都ソウルに先立って皆、日本のテレビを見て楽しんだという。九州から対馬への放送電波が必要以上に強かったから、十分受信できたそうだ。

 平成の世となってしばらくの盛夏。明陵関東同窓会の暑気払いが銀座のビヤホールであると聞き、出かけた。会場には先輩のAビール会長もいた。Aビール直営店だった。ビールの話から~世相・テレビの話題となり、アルコールが体内を駆け、いい気分のわたし、「NHK受信料、あんなもの払う必要ないんですよ。払わせたければ外国のように映像画面にジャミングかければいい」と、Aビール会長に話を向けたら笑った。
 それから数年後だったか、このAビールの会長がNHK会長に転じたとは皆さんご承知。人生、将来予測は不可能~~というより、いつも浅はかな当方。それにいまやデジタルテレビ時代。ジャミングではなく、画面に丁寧だが押しの強い「登録お願い表示」が出る。あのとき笑ったAビール会長改めNHK会長を思い出しながら、いまや優良視聴者となって久しい。

2012年2月16日木曜日

来年は「半世紀後の東京修学旅行のようなもんだなぁ」

                                                                      阪東 湖人


 ふと思い出した。あのころ、北部九州の高校はみな東京修学旅行だった。おまけに、お隣八幡高校の修学旅行日程の一部は湘南の江ノ島・鎌倉。東京では国会議事堂を背に地元代議士を中心に「ハーイ、パチリ」のオマケつき。われら来年の記念同窓会での関東大集合、なにやら「小倉高は京に奈良だったから、まぁ半世紀後の仕切り直し、老年東京修学旅行のようなもんだなぁ」という声すら聞こえる。
 
 その湘南、三浦半島の一部葉山から続く相模湾一帯を呼ぶとはだれでも知っている。冬の風は実は相当強いが、首都圏の他の地よりはるか温暖なのがウリ。「藤沢が主のような顔をしているけどなぁ~」と不満タラタラだったのは、かつてのれんをくぐった平塚の小料理屋の大将。大将によれば当然、平塚こそ湘南の中心。実際そんな時代もあった。

 でも、あの映画「太陽の季節」に「狂った果実」で裕次郎が活躍、その主な舞台は葉山、逗子、鎌倉とあれば~~それに藤沢・江ノ島が東京五輪でヨット基地として脚光を浴びて以来、こっちが主役。こうした三浦半島と湘南の温暖な気候は単純明快な人々を生む。「イラクの戦闘地域と非戦闘地域 ?~そんなことわたしに聞いても分かる訳ないじゃないの!」~~そんな国会答弁の総理大臣も近年、三浦半島から。また「フランス語は数を勘定できない言葉」なんて物議をかもした東京都の現最高指導者も湘南出身だ。
 
 これは単純明快かどうか~~昨年夏に湘南の藤沢市でマンガのような騒ぎが~~市役所内で火災報知機のスイッチ切り、煙モウモウのバーべキュー~~この職員懇親パーティにはなんと藤沢市長(当時)も出席。でも切ったはずの報知機にモレがあり、非常ベルが鳴り続けた。消防本部は関係者を厳重注意処分にしたが、一昨年にはこの消防本部も一緒にバーベキュー。今年は招待されなかった消防本部の「しっぺ返し」くさい話だ。まさにこれこそ三浦半島から続く湘南気質。
 付け加えると、バーベキュー市長は別の問題が尾を引き、最近落選した。

 かつて藤沢駅前に何かの飾り、「We are Shonanian!」の大横断幕が電車からも見えた。ハワイアンからの連想か。あれ「Shonanese」じゃないのかナ。でも、なにこれしき。かつて国際港横浜大桟橋近くにWell Come の大看板。名古屋城ではガイジンさんらが笑いながら記念撮影の足元。オーストラリア観光客のオヤジが地面を指差す先には「足元注意!」 Foot Notice! 名古屋市教委とあった。ウーン、Foot Note なら「脚注」だろうが~~。ともあれ、英語かぶれと単純明快さは気楽。
 春遠からじと言えど、当方の大利根・阪東の地は日々の寒さが身にこたえる。都内通勤時、常磐線は地下鉄千代田線に乗り入れ都心を貫通する利便さだったが~~いずれ暖かい三浦半島に隠遁しようかと考える日々だ。

2012年2月4日土曜日

まぶしかった遠い日 中間にある埴生公園の思い出


                                              阪東 湖人

  東筑高校の”門前町”という表現が適切か、折尾駅周辺の連続立体交差事業が進められていると聞いた。平成31年度までに完了予定とか。明治24年に日本初の立体交差駅となった折尾駅。現状の筑豊本線が地上ホーム、鹿児島本線が二階ホームで交差するさまが一変し、鹿児島本線、筑豊本線、短絡線ホームのいずれもが並んで高架化される。九カ所の踏切がなくなり、駅周辺はすっかり生まれ変わるという。

  その折尾駅で思い出すのは遠い昔、 小学生の日曜日。父親が突然「埴生公園に行こう」とわたしを連れ出した。八幡、黒崎と過ぎ、折尾駅で乗り換えた。この日本で初の二階建て交差駅は小学生には興味津々。乗り換えた筑豊本線は中間町(当時)にある筑前埴生駅で降りた。すぐそばの公園、それが埴生公園だった。大きな池を取り囲む柳だったか、水面に映える緑がまぶしかった。初夏だったと思う。

  埴生公園にベンチがあったかどうかは忘れたが、そこにもう一つのまぶしい光景が出現した。30歳半ばかの女性が待っていた。父親がその女性に「この子だ」と言った。さらに「このおばさんと話がある」と、二人はそばの料理屋に消えた。小学生のわたしはひとり一時間近く公園で遊び、やがて父親が現れたが、その女性はもういなかった。父と子は、また折尾駅経由で帰宅した。ただ小学生の関心ごとで母親には「折尾駅と公園に行った」とだけを伝えた記憶だ。

  そのときの父親の年齢をはるかに超え、老域に達したいま~~週刊こどもニュース「そうだったのか!」の池上某ではないが~~ハタとひざを叩かんばかり、当時の父親の行動を理解できた。不器用な男ではあったが、そんな大そうな冒険もあったのか、と。
  われら男の子それぞれに「わが青春のマリアンヌ」の鮮烈な思い出を持つはず。再び会うことのないそのマリアンヌを生涯忘れない一方、妙齢のご婦人に心を奪われることも、これまた生涯、何度かあろう。そんななか遠い日、まぶしかった埴生公園と父親のあの冒険を思い出した。
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 ところでこれまでの一連の雑文に「又か」と眉をひそめる御仁も多いと思います。どうぞ、賛成、反対、ああでもない、こうでもない~「バカヤローもうやめろ!」~を含め、ブログにご参加を。