2011年8月6日土曜日

思い出の夏の潮風

 阪東 湖人

 夏になると思い出すのが少年の頃、イトコと一緒に行った槻田天疫神社(現八幡東区)の森でのセミ捕り。トリモチでベタベタなった手で一緒にスイカを食べたそのイトコはもういない。

 もう一つが、高2木下クラスでの神湊の海水浴だ。「おじが水産高校の教頭で家は神湊のそばだから」という女生徒Aさんの提案に乗って、クラスの大半が参加した。いま思えば、あれは赤間駅だったのか、あるいは東郷駅か、さびしい駅から乗ったバスで着いた神湊。海に流れ込む澄んだ川には魚影があちこちに。わずか離れた北九州との自然環境の違いに驚いた。

 その教頭先生の家で着替え、砂浜に出てみんなで泳いだ。そこは当時、海水浴場として整備された浜ではなかった。ポツポツ丸い穴が打ち抜かれた一メートル半ほどの錆びた鉄板が何枚か砂浜に残っていた。若い男女たちの声が聞こえたのか、浜にやって来た老人は、「アメリカ軍のトラック何台もが、来る日も来る日も砂を集めては戻った」と私に言った。その錆びた鉄板は車輪滑り止め。朝鮮戦争当時の話だった。

 木下先生は教え子の無事が引率の責任と、砂丘の上からクラス全員を今でいう「ライフセーバー」として見張っていた。やがて老人は木下先生をつかまえ、延々その話の続きを始めた。老人の話は邪魔だったろうが、先生らしく穏やかに老人の話に耳を傾けていた。教頭先生の家で風呂もいただいた。帰りのバスは海老津駅行きだったような気がする。同クラス女生徒Oさんとは家も近所で、そのバス、国鉄電車、小倉駅からのバスも一緒だったが、話をすることはなかった。思春期の夏だった。

 それから半世紀後、911テロの直前だから2000年だったか、出張のついでに米東海岸フィラデルフィアからアトランティックシティーに行った。ローカル列車で約100キロ。田舎の車掌は検札どころか、行き先案内もそっちのけ、シートに座り込んで地元客と雑談のまま現地に着いた。アメリカ貧乏人向けフロリダ、ラスベガスといわれるこの海浜歓楽地アトランティックシティー。何十キロも続く砂浜の潮風に、あの神湊の砂浜を思い出させる何かがあった。老人の言った「アメリカ軍」という言葉のせいか、また後に見た思春期の少年心を描いた米東海岸が舞台の映画、「おもいでの夏」のシーンと重なるものがあったのか~~。

 同窓会でAさんに神湊の夏を話したがおぼえていなかった。また別の機会だったが、Oさんの方は、「あの頃、あなたはいつも意識し、また緊張してたのよねぇ」と笑った。