2012年3月25日日曜日

歴史の多面性からみる「原爆『小倉回避』の真相」とは


                                                                                                                                  阪東湖人

 いまだFacebookの概念が分からない当方~~だがFacebookをゴチョゴチョいじっているうち、迷い込んだのが、八幡西区のFacebookメンバー「折尾をぐっと盛り上げる会」。で、オヤ?と思う近代史の疑問にたどり着いた。その中身は「今だから、語れる真実がある! 原爆「小倉回避の真相」~~小倉に原爆が投下されなかったのは、天候不良や八幡空襲の残煙といわれていたが、主要因は(迎撃戦闘機)「屠龍」の体当たりを恐れて~~というもの、と書かれている。
 その引用は、銀座一丁目新聞 http://www.hb-arts.co.jp/120110/safe.htm から。すでに北九州では話題となった様子もみえる、銀座一丁目新聞の筆者、信濃太郎氏は、かつて小倉紺屋町日銀隣のM会館ボス。同氏の出身信州といえば、小笠原藩の源流は松本平だから二重の縁。また以前の北九州市立大の学長、中嶋嶺雄氏もこの松本平出身だった。

 ところで、米陸軍航空隊の爆撃機B29は軍都小倉の目標がつかめず、原爆は長崎に投下された~~とはこれまでに残されている公式記録。また北九州の民間研究者の労作であるホームページ「北九州のあれこれ」〔2012/01/01〕にあるのが、小倉城 小倉北区城内の「平和記念碑と長崎の鐘」。この碑には北九州市によるこの定説が記されているようだが、「原爆『小倉回避』の真相」で信濃太郎氏は真っ向から異説をとなえる。

 いまや事情が変わったかにみえなくもない一方、マニアックな人からの反論もある。小倉とともに長崎が投下目標であったのは事実。簡単に言えば、ターボチャージャー(過給機)装備で爆撃照準は高高度9000㍍のB29が、高度3000㍍にある迎撃戦闘機「屠龍」の体当たりを恐れるだろうか~というもの。
 でも信濃太郎氏は、「戦後、米戦略爆撃隊追跡班が来日、迎撃戦闘機屠龍2機が関門上空を哨戒飛行した事実があるかどうかを調査した。これは原爆を搭載、小倉に向かったB29が屠龍をレーダーでキャッチし体当たりの可能性あり、投下目標を長崎に変更とテニアン基地に連絡したからである」~と記す。実はかく語る信濃太郎氏は職業軍人上がりで軍事素人ではない。

 このように後世からみれば、歴史には実に多面性がある。「原爆『小倉回避』の真相」の裏付け、「米戦略爆撃隊追跡班」資料は、米国立公文書館(メリーランド州カレッジパーク)に存在するはず。かつての軍事機密文書公開を求め、その資料の山のなかから、あるいは意外な事実が判明するかも知れない。北九州市立大の研究者で関心を持つ人はいないか。
 さらにまた「北九州のあれこれ」を例に挙げるが、中原 戸畑区 [2012/01/14]にある国道199号線の中原東交差点の横を境川。右が筑前で、左が豊前で、左端に立っているのは国境石です~~とある。この国境石のある元砂洲こそ、以前の拙稿、小倉北区 中井浜ものがたり(後)=Fukuoka 3-B POW Camp 跡地そのもの。かくのごとき話も歴史の多面性として、後世の人に是非受け継いでほしいと思うのだが~~

2012年3月17日土曜日

奈良坂紘一教授が登場 3月16日付の読売新聞朝刊1面


 3月16日付の読売新聞朝刊1面左肩の続き物に、シンガポールのナンヤン(南洋)工科大、奈良坂紘一教授の談話が登場しています。

 この記事は、「列島再生」第2部「新たな国土づくり」の第2章「成長支える頭脳」シリーズです。

 奈良坂談話の内容を読めるように、新聞記事を部分的に添付しました。大阪読売版、西部読売新聞でも、この紙面展開ぶりは多分同じだと思います。
 奈良坂教授の談話は、さらに2面の「東大、インドに乗り込む」記事の最後にも登場、「日本の基礎研究は高水準にある。それを呼び水にして優秀な頭脳を呼び込むといった、政府の明確な方針が必要だ」と提言しています。

2012年3月10日土曜日

「オヤジバトル! 」と自分史 学区外 若松ものがたり(下)

阪東湖人

 NHK北九州開局80周年記念ドラマ「オヤジバトル!」には、再活性化を願う若松の商店街が登場する。明治32年に北九州で初の家庭電灯、水道は門司とほぼ同時(異説*若松の上水道設置は九州では長崎市に次ぐ、大正2年末の戸数約6200に60%の普及率)、都市ガスも戦前から市内全域に張りめぐらされた若松。ニッポンイチの石炭積出港は昭和30年代まで元気モリモリ。目抜き通り「中川通り」は名物貨物電車が走り、市営バスは一攫千金ねらう若松競艇への客をフル・ピストン輸送。街に札束が舞う一方、当時大作家の火野葦平を見かけもした。

 そもそも官営製鉄所登場前の八幡・若松は「洞の海」一衣帯水。恥ずかしながらわたくし的ルーツの一つ若松に母方の大祖父。この山師は日清戦争の開戦直前、軍の竹材大量調達を見越し、山口、島根と回って買い占めた。その金で若松の中川堤(のち中川通り)左岸を入手。あざとい商才に加え、”ロマンス”も多かった大祖父は、そのうちのある娘(大叔母)にだけ財産を残した。
 人生早く、夫と子どもを亡くした大叔母は、舞踊、観劇、マージャンに明け暮れ、本業の和菓子屋経営は使用人任せ。でも税務署には腰が低かった。土地も太平洋戦争時に多くを手離したが、和菓子屋周辺の一等地は守った。

 まあ新開地若松の女性はこの大叔母も含め、女だてらばかり。女侠「どてら婆さん」を幼女のころ恐々見たというから、そんな風土だ。でも高級洋菓子を扱い始めたら、土地であまり見かけない上品な院長夫人がお得意さんに。なんと吉田修先生の1年7組で一緒W君の母上。W君はいまその院長。またはるか昔、若松の幼稚園での仲間、H君も同じクラスになった。

 一方、大叔母から和菓子屋を「譲りたい」との話があり、前座でお気に入りの姪、母が手伝った。私を引き取り店の後継者にとの流れにも。だが血縁分上乗せで激しい"オンナバトル! "の末、訣別。大叔母は若戸大橋完成直前に死んだ。でも「姪には知らせるな」と言い残し、死は長らく伏せられた。遺言書には土地建物など「譲る」と書かれた母の名の上に朱線二本が引かれ、訂正印が押されていた~という。
 最期を看取った”縁者”が養子になった様子で、遺産はそっくり任せた。もとより父親は大叔母とはそりが合わず、また河合校長の父、若松中(河合)安禄山先生の薫育”男の美学”かどうか~「女房方の財産など、とんでもない」と一顧だにしなかった。でも大叔母からオモチャを買って貰ったわたしには未練があった。

 いまグーグルアースで中川通りを上空から見ると、大叔母の和菓子屋の通り向かい、オモチャを買って貰った「わだや」と、和菓子屋隣りの香川カメラが健在。大叔母が妙に”張り合った”創業百有余年の料亭「金鍋」も伝統の姿のまま。だが和菓子屋も、またそばのしゃれた帽子屋も、もうない。
 歴史に「もし」は禁じ手だが~”我をして大叔母の遺産相続たらしめば”~「オヤジバトル!」に”老商店主”で登場したのでは ~実際、地元商店主の皆さんが全編、エキストラで活躍する、福岡発地域ドラマ「オヤジバトル!」は3月17日(土)午前零時15分から、NHK総合で~オシマイ~

2012年3月7日水曜日

「NTT柏支店長が苦情電話に出るわけない」と思った~


                                                                                                                            阪東湖人

 受話器2個を両方の耳と肩の間にはさんでの受け答え~昔の株屋さんには負けるが、現役時代の電話機の使用回数とゴルフとは、恥ずかしながら同期生の誰にも負けないダントツ実績のはず。「電話ばかり使ってないで、会って来い!」とは当時の上司。また「針金(電話線)でなく、たまにはこちらにいらっしゃい」とのお得意さんの嫌味風ユーモアが、肩にはさんだ受話器から響いたものだった。

 電話局との縁も多い。地方から東京に戻る際、電話を移転させるのはまだ面倒だった当時、兄貴がNTT社員だからという同僚が”手を回してくれた”。
 転勤直前のある日、かかってきた電話は朴訥な茨城訛りで「▲▲センセイですか? ▲▲センセイほどの人なら(電話)線は2本必要です。すぐ引きますから」と否応なかった。実際、この朴訥さとセンセイほどの人~には参った。当時ファクスはまだ自動切換えでなく専用線が必要。のちに知ったのはこの朴訥社員こそNTT内で伝説の人物。統括するNTT柏支店エリアで、空前絶後ダントツ実績の営業係長だった。

 市外局番04という広大なNTT柏支店エリア。かつてM物産の社宅群があった。社宅脇の斜面に電話用コンクリ電柱が横倒しで何十本も束ねて積まれていた。斜面の下は通学路。電力の電柱ほど太くはないが転がり落ちると危険。実際、そのような事故もあった。M物産、警察、それとも娘の通う小学校、どこに電話しようかと考えたが、通りいっぺんの「連絡しときマス」対応で終わりそうなので、コンクリ電柱の主、そのNTT柏支店にコワモテ電話に出た。

 でもNTT柏支店長はかなりのエライさんで、苦情電話などに出るわけがない。空前絶後ダントツ実績の営業係長には「センセイほどの人が~」と返されそうだし、こちらも次長職経験ありで、支店次長に「カクカクシカジカ~地震があったらどうなる!コンクリ電柱撤去しろ。すぐ対応しないなら、シンブンに投書するぞ!」と息巻いた。相手も苦情には手馴れた様子。まもなくコンクリ電話電柱はすべて撤去された。

 当時(1990年)偶然だが、「ふるさと北九州市を考える会」会報をふと見たら、名簿にT大教授のNR坂君、以前セゾングループにいたN君、小倉西高出身で一度どこかでご一緒したS藤さん(M商事秘書室)とともに、元生徒会総務、久野君の名前。アレッ! NTT柏支店長だった。
 それからまた、浮き草稼業の掟で各地を転々。とうとう久野君にこのエピソードを伝えることも出来なかった。おまけに電話ときたら、あのときのダントツ実績の営業係長からの「おだて追加一本」に加え、もう一本も電話局預け。で、都合3回線をいまだ保持の身。ケータイも次々に高機能化され、新機種の売り込み電話とメールが”シャーシい”昨今。あの朴訥な声で「▲▲センセイですか?」の営業係長は実にスゴ腕だったと、いまさらながら思う。

2012年3月4日日曜日

「オヤジバトル!」と自分史 学区外 若松ものがたり(上)


                                                                                                                        阪東湖人

 2012年は若戸大橋開通50周年だ。あのとき、洞海湾の潮風の吹くなか、開通間近の若戸大橋に生徒を引き連れたのが、学年主任の高橋範義先生。「この橋の開通と五市合併で北九州はさらに~~」と、先生が熱弁をふるってからもう半世紀が過ぎ去った。
 また、NHK北九州放送局も開局80周年になるとか。その開局記念の福岡発地域ドラマ「オヤジバトル!」が3月17日(土)午前零時15分から総合で「全国放送決定!!」だそうだ。

 このドラマ、オヤジバトル! は試験的だったのか、関東ローカルですでに放映された。ストーリーは~若い頃、成功を夢みて上京したバンドマンが、厳しい現実と直面、希望を失って故郷・北九州若松区に帰る。そこでかつての恋人と結婚。新しい仕事も見つけ、恋人の連れ子である小学生の娘と3人で人生の再スタート~だが~というもの。
 若戸大橋の方もシンボルとして何度も登場する。幼児期を過ごした若松が舞台なので懐かしく見た。

 幼稚園にしばらく通った若松。その昔の仲間には奇しくも小倉高同期、医院の息子H君と地元名門企業Sの坊ちゃん。Sの坊ちゃんとは幼稚園でアルミ食器の取り合いをした。食器はチューリップの絵が女児用、野球選手の絵が男児用。多分、進駐軍払い下げ食器、それに補助食も。でも保母さんは適当に配った。野球選手の食器がと喜んだら、Sの坊ちゃんもつかんでいた。
 彼の目力は当時からあたりを払う威力で、残念ながらわたしは野球選手の食器を放した。またSの坊ちゃんとは父親同士が旧制若松中で同級生。こちらもはるかな大正時代だが、当時教育実習生の河合青年、のちの河合校長に習った仲だった。

 それから約40年後になるが、浮き草稼業のならいで転勤を繰り返し、名簿では所在不明だった。そのとき北九州では小倉高卒業25周年の記念同窓会。それも若松の佐藤公園横、若松パークホテルで開催されたとのこと。河合校長も出席など~それもはるかのちに知った。なぜ若松パークホテルが会場だったのか~
 かつて幼稚園でアルミ食器の取り合いをしたS君も元気な顔を見せていたという。地元名門企業で顔の効くはずのS君、会場選定に関わったのかも。でもいまやその若松パークホテルも取り壊され、マンションになるはず、いや~なった、とかいう話も最近聞いた。