2012年7月7日土曜日

湘南江の島界わい ものがたり(9)元東筑同窓会長と”楼”




                                              阪東湖人


 「裸の江の島弁天と浅草の観音さま どこが同じ??」~~とのご指摘で赤面する前に自己申告します。わたしの知識、せいぜいこの程度~というのが以下~「ものがたり(6)~~」 の3,4段落あたりの”怪しい”記述~~
~「第一、観音サマが鎮座されるというのも、江戸市中~イヤ、江戸学のあのサイデンスティッカーさんの言うところの「当時は辺境の歓楽街、浅草」と江の島、言うなれば同じじゃないですか」~
 また加えるに、日本文学の権威サイデンさんを「江戸学」ナンテ流行りコトバ話に結びつけたこと~~いずれも軽佻浮薄で、ご迷惑をかけたことお詫びします。

 というわけで、今回は番外の寄り道、当地から簡単に行ける浅草に足を向けました。浅草寺で秘仏の観音さまに遠くから「マンマンチャ~ン」し、改めて確認した次第。この観音さまは秘仏で誰も見たことがない~しかも戦災で寺は全焼~実にバチアタリですが、本当にあるのか?ないのか?
 ~でも江の島のほうは俗も俗”ハダカの弁天さま”が目の前で見られるのです。
 バチアタリのついでです。福岡支部から怒られそうな話~~浅草観音サマと同じように、偶然、志賀島で発見されたという、現黒田家所蔵の例の「金印」
 ~アレもなんや、封建時代の”出来すぎた話”のようにみえるのですが~~

 下町の夏の風物詩~以前の小倉祇園と時期がほぼ同じか~浅草寺では7月9日、10日の両日、境内は「ほおずき市」で賑わいます。
 今回、浅草にこだわったのは会社時代、ポンツク社員のわたしを大抜擢する大バクチを打った故上司への恩義から。この上司の眼に留まらなければ、大勢のなかに埋もれたまま~その後のわたしはなかった。
 生粋の浅草っ子で、粋だが口も相当辛口だったこの上司が、なぜリスク大きいポンツク社員を引き上げたのか~~永遠のナゾです。上司の家は浅草寺仲見世のセンベイ屋さん。寄ってご挨拶をすると、ほおずき市が命日で今年もう27回忌でした

 浅草には江戸の昔、岡本楼という有名な遊郭があったそうです~~どうも江の島岩本楼を意識して以来、アチコチの「楼」が目にとまります。まずは金語楼ですが~それは置いといて~
 死んだオヤジの悪友に、長らく東筑高同窓会長を務めた某氏がいました。オヤジとは昭和の初めの大学応援団の仲間であり、卒業後、2人は相次いで満洲へ。戦後、県会議員からスタートした某氏の方は地元名士~
 ~まぁ、最近、政治倫理感を問われた地元選出「メガネドラッグかっぷくメタボ」みたいなものでした。

 で、生前の東筑高同窓会長某氏から聞いたのが「息子さんを前にしてはチョット~だが、ワシと××××さん(故オヤジ)は、あのころ、市電で玉ノ井からしばらく大学に通ったことがあった」~~初耳でした。
 初耳~でも思い当たるのは、沈黙のわがオヤジが、下町の馬刺にはなぜか詳しかったことです。いま生レバー禁止で注目の馬刺屋ですが、「精が付く」と旧遊郭街に多かったものです。
 また戦前学生街からの交通ルート(東京神田の)須田町~浅草~寺島町(玉ノ井)を結ぶ都電は、昭和40年代半ばまで存続していました。東武鉄道のシンボル業平橋駅が最近、とうきょうスカイツリー駅となりましたが、付近の東向島駅も大正時代からの玉ノ井駅を20年ほど前に改名したものです。

 ちなみにこの東筑同窓会長の娘さんは、愛宕が丘でわれら8期前の先輩。「よお勉強がデクル(出来る)ので小倉に行った」ということでした。このことからも当時の愛宕が丘の隆盛ぶりがうかがえます。

 前田和慶先生が、われら思春期生徒を前に「言いにくそうに」~一葉の吉原、荷風の「濹東綺譚」玉ノ井という文学を語りましたが、その頃は一部の文学早熟生以外には、チンプンカンな話ではなかったでしょうか。
 最後に江の島に戻りまして、載せてある旧旅館の写真のことです。このように玄関入ってすぐ二階に通じる大きな階段があるのは、待合、また遊女を侍らせるサインでもあったそうです~
 ~荷風の玉ノ井同様、いまや歴史風俗の話となりましたが、いずれもその裏にあった悲惨な女性史は、忘れることなく後世に伝えるべきものです。

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