2011年10月18日火曜日

「伝統の白い雑のうでなく、布張り学生カバンの二人~」

阪東湖人
  当時、小倉高では学区外でいまだにちょっと気がひけるのだが、戸畑中原のかつての我が家付近、グーグルアースで上空から半世紀ぶりに“帰郷”した。左隣の家は駐車場に、右隣の酒屋も店を閉じた様子。垣根越しの隣家の秀才先輩Mさん(14期)の住んだ家は残っている。近所の内科医院も健在だ。先代院長は町医者だったが、戦前は軍医で中国大陸にいた縁でわが父親と碁仲間で親しかった。現在の先生は多分、明治学園から久留米大附設に進んだ"オチビちゃん”。あれからもう半世紀がたつ。

  北九州に昔からある風俗が酒屋の店頭で飲む「角打ち」。庶民、地元名士ともども「角打ち」を楽しんだ。我が家右隣の酒屋も「角打ち」。樋口一葉の小説「大つごもり」を地でいくように、地元中原の御曹司が厳格な親への当てつけに「角打ち」に現れ、周りが苦笑した。それ以上に、この酒屋の誕生にはエピソードがある。昭和20年代後半の朝鮮動乱期、中原でも酒屋は十分すぎる数。当時の大蔵省規制では新規開店は到底、認められるはずがなかった。それでも開店出来たのは、「大平が偉くなってからは、上京して邸に泊まるのは遠慮した」と笑った主人の言葉で分かる。大蔵官僚出身の政治家、のちの首相、大平正芳と酒屋の主人は幼なじみで、高松高等商業同級生だった。でもこんな話、戦後の日本ではどこでもフツーにあった出来事だろう。

  ところで、わが垣根越しの秀才Mさんは地元小5年でエリート校附小に。附中から進学したMさんと小倉高校で再会した。Mさんはいわゆる軟派不良だったが、私を後輩としてかわいがり、喫茶店、映画館に連れて行った。いつもタバコを吸って、私以外の世界では女子高生を誘ったりしていた。高橋範義先生はMさんを名指しで、「いくら勉強が出来てもあれではいけない」と、いわば接触するなと自戒を求めた。河合校長も朝礼で、「最近、喫茶店に行く生徒がいる」と注意したが、学業が同じとは行くはずもないのに私はMさんの弟分を気取り、笑って聞いた。そのMさんは3年次の秋以降、試験時以外ほとんど登校せず、東大受験で上京する学割証明を貰うのは私が代行。Mさんのように通学も伝統の白い帆布の雑のうではなく、布張り学生カバンにした。

  当然のように現役で東大に入ったMさんは近所でも話題に。角打ちの酒屋と大平の出世話から、Mさんも役人になるだろうと近所の年寄りは言った。私もその才能にあやかろうとMさんの母親から垣根越しに受験参考書すべてをソックリ貰った。東大生となっても夏秋冬と試験休みで長期帰郷、また私を誘って喫茶店で、今度はおおっぴらにタバコを吹かし、最新の東京事情を伝えてくれた。

  秀才の世界もいろいろ。Mさんは東大も駒場で退学、しばらくして復学したと聞き、卒業後は商社関連企業に籍を置いた様子。その後は、独立し経営コンサルタントで活躍した。また会社もいろいろ。私は小倉高先輩かつMさんと東大同期の某さんと同じ民間会社で偶然出会い、また職場も一緒になった。でもあるとき、酔っ払った某さんからバーのツケをそっくり払わされたあげく、その翌週、「あの金誰が払ったのかなぁ~~きっと○△サンかなぁ」ととぼけられたとき、この先輩に従うのをキッパリやめた。同じ小倉高先輩でも、“さわやか”だったMさんとあまりの違いがあるからだ。そのMさん、「でも、最近は借金を重ね逃げ回っている~」とは、東大三鷹寮時代から親しかったという小倉高同期、H君の話だ。この話を聞いて、実にMさんらしいなぁと、その“怪男児”ぶりを懐かしく思う私だ。

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