2012年5月14日月曜日

北方線と「かねやす饅頭」 江の島と半端な湘南モノレール


                                  阪東湖人

 「エコルーフ」と呼ぶ巨大キャノピーに覆われた、小倉繁華街の魚町銀天街横断路~いまは信号機もある。だが半世紀以上前はお天道サマの下、ひっきりなしに行き交う西鉄電車の間をくぐって渡った。当時はそれが当然だった。いまより交通は、はるかにゆるやかだったのか。小倉高で同じクラスS君とは、オヤジ同士も旧制若松中同級生で、このオヤジ二人が魚町銀天街横断路中央でバッタリ。
 「オイ▲▲(わがオヤジのこと)、ちょっと二千円貸してくれ」とS君パパ。~オヤジがサイフを広げたのは~電車、バス、タクシーの目前でのノドカな光景。
 それでも帰宅したオヤジは重そうな顔で、「Sの奴、あの名門企業■■のオーナー家なのに、入り婿の身では金も自由にならんのだなぁ~あいつ~」とぼやいたことを覚えている。~~~「あの奥さん強そうで、本当にそうらしいですねぇ」と答えた母~~

 ~~なんや、最近テレビのデジタルリバイバル、松竹映画、小津安二郎監督の世界だが本当の話。でもここに登場した人たちはもう遠くに行った。
 いま銀天街横断路に立つと、あの西鉄電車が来ないのも実に寂しい。でも、井筒屋向かいには「四方平ラーメン」が健在だった~~かの日のこと、この店で、「麺が半煮えだ!」とわがオヤジはわたしの分までも、いぶかる店主に再度グッタリするまでユデ直しさせ満足。大阪出張でタクシー運転手に 「ダンナ、デカ(刑事)サンでっか?」 と言わせしめた”コワ~イご面相”のオヤジでは、四方平店主も言葉を返せなかった。

 終点で車掌が「釣りざお状」の集電(トロリー)ポールを引っ張り降ろし、前後一回転させる大正風ノンキな光景。戦後も西鉄北方線は、まだヒューゲルでもパンタグラフでもなかった。日本初のアーケード、魚町銀天街は、北方線の走る通りから一本脇で昔から北九州一の繁華街。いや購買のすそ野に天下の製鐵、住金、門鉄ありで断然、博多よりにぎわったハズ。写真は北方線通り、銀天街の両方にまたがる昭和十一年開業の「かねやす百貨店」。名物「かねやす饅頭」を、当時は珍しい自動回転焼機実演で販売した。

 ガラス越しながめる子どもたちの中にはわたしも~~こんなことを思い出すきっかけは、板櫃町史を調査研究中のM君からメール添付で送られてきた地図。旧小倉市役所の位置について、わたしの思い違いを正すものだった。その地図には当然、旦過市場付近も克明に記されている。最近、叔父を見舞った北九州医療センターも「市小倉病院」で載っている。
 だが戦後一番の格式を誇った「田川旅館」はミステリー。大物政治家が投宿することで有名で、わたしも小学時代に父親と一度、広い玄関先で東映時代劇で見たような御女中連の貫禄ある動きにブッタマゲた記憶があるが、なんと戦前はこの一流旅館の姿がない。まぁそれよりも、何かおかしいと思ったのが、西鉄北方線のこと。M君メール地図では、旧馬車鉄道の北方線は「病院前」から「旦過橋」、終点が「大阪町」だった。
 故郷を長く離れると、忘却と望郷で思い違いも激しくなる。おまけにいま多くで「北九州モノレールは旧北方線の跡に設置された」と解説があるのも、混乱の元になっていないか。
 かく言うわたし、いつの間にか北方線の終点、大阪町(のち魚町)をモノレールの平和通りと混同していた。
 小倉っ子には常識だろうが、現在の「みかげ通り」こそが旧北方線跡の道路だと、「かねやす饅頭」連想でようやく記憶がよみがえった。モノレールは旧電停「病院前」を越えたところで「くぎをチョイト曲げるように」新設(?)平和通り、新小倉駅方向に建設されたのだ。わが記憶回復のキーワード「かねやす百貨店」に感謝だ。
 こんな調子だから、当の北方線電車にはあまり乗ったこともなく、沿線模様も知らない。ただ北方線は小倉高での紫川マラソンでは現地到着に必須の乗り物。マラソンコースは覚えていないが、競馬場ゴールの記憶が鮮明。一年生のとき、時間差で最初にスタートした三年生が、われわれより遅く競馬場に戻るのが、「追い越してもいないのに~」となんとも不思議だった。さすがに三年になるとそのヒミツをさとり、紫川べりで休息、サボった。すると某君から「ダメだよ、真面目にサア、走ろう!」と促された。
 優等生かつ謹厳だった某君は、のち夏目漱石が教えた元ナンバースクールの先生に。でもその後、その国立大学では、なぜか水着キャンペーンで有名な女優が二人も誕生した。
 ところでいま袋叩きの東京電力とは似て非なるものだが、昭和三十年代「地域独占西鉄」への憤まんガス抜きを、A新聞西部本社が仕掛けた。まず読者から「北方線を本線と相互乗り入れにしてほしい」という声。
 対する西鉄回答は「現地を見ればお分かりですが、レールの幅が違うので、現状では無理です」だった。「バス運転手、車掌の態度が悪い」を先頭に憤まん投書はその後も殺到~。結局、A新聞社は柔道ではないが「(一定の)効果あり!」と連載を止めた。あるいは陰での、西鉄広報部の新聞社ロビー活動汗だくの成果かも知れない。
 また小倉駅移転問題で「繁華街はどうなる」と、学者センセに聞く企画。「室町と浅野の新駅付近は両極ともに繁栄」と「新駅に経済重心が移る」とに意見は分かれた。だが現実は~「新しい小倉駅へ、駅へ」と店舗群は移動。長らく栄え、突然斜陽となった室町商店街は現西小倉駅開業まで、苦難の道を歩んだ。駅移転による店舗移動現象をさらに加速させたのが北方線の”磁力”であり、魚町銀天街の吸引力だったろう。
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 来年、江の島鎌倉同窓会に集うご予定の皆さんで、もし興味があれば~~この西鉄北方線、改め北九州モノレールに類似した話が、はるか湘南の地にもあります。JR大船駅から「湘南江の島駅」までの「湘南モノレール」。羽田、北九州の跨座式ではなく、ゴンドラの懸垂式。
 「小田急片瀬江ノ島付近まで」、「イヤ、いっそ江の島まで伸ばすべ~ジェンヨ!」と構想はドンドンふくらみましたが~地域独占江ノ電(小さな西鉄??)と地権者(銀天街??)が猛反対、結局、中途半端な断崖上のモノレール「湘南江の島」駅が終点。見上げると、ああぁ~これ懐かしの西鉄高架折尾駅の三倍の高さダヨ。当然、江の島までは江ノ電駅前土産物街を通り、相当距離を歩るかされます。なにやらコレ、平和通が終点駅だったかつての北九州モノレールと同じ。
 このため、皆さんお泊り予定の「岩本楼」 http://www.iwamotoro.co.jp/ 交通案内にも湘南江の島モノレール駅の記載はありません。でも、モノレール駅そばの江ノ電「江ノ島駅」の案内はあります。なぜ~? それはお泊りになると分かるでしょう。

 さらに江ノ電鎌倉駅のこと。テレビで全国版のこの駅も、アレは戦後まもなくの産物。歴史的には鶴岡八幡宮至近の若宮大路、鎌倉警察署前付近が終点で駅名も「小町」。諸般事情勘案、北九州モノレールに先立つ半世紀前に「くぎをチョイト曲げるように」現JR鎌倉駅にショートカットで接続されたのです。それでも天下の鶴岡八幡宮、参拝客数がへたることはなかった~~コレ、若い頃に鎌倉警察の御用聞きで、深夜当直のオマワリサンから聞いた受け売り。
  同窓会ご一行さま、由比ガ浜某店でご昼食とのことですが、観光バスばかりじゃあ分からない~~お帰りは鎌倉駅に向う方もいらっしゃると思いまして~~

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