2012年6月24日日曜日

8万人の小倉に東京下町5万人が~造兵廠「民族の大移動」



                                              阪東湖人
   
  以前、「筑前と豊前小倉の国境いでも民族の大移動"文化戦争"」との題で「~~君津では房総弁(正確には上総弁)が一夜にして九州弁に変わった」エピソードを書かせて貰いましたが、戦前の小倉には、これとはまったく逆の現象があったことを最近、知りました。「かんもん北九州ファンクラブ」会報にある、ミニ講演会総集編http://kan-kita.com/kan-kitafc/vol_93.pdf の「商業都市小倉の町の変遷」からです。
 このファンクラブ会報の委員長、また副代表でもある小倉高11期先輩のミニ講演報告 、 「造兵廠の移転が小倉を活気付けた」との項で、こんな話が載っています。
 ~~関東大震災で被害を受けた造兵廠を小倉に神崎市長が誘致。(昭和8年 人口8万人の小倉に5万人の江戸っ子がきた) 小倉弁が変化したほど~~
 なお、pdf ページは非常に重い(10.25MB)ので、開くのに時間がかかります。

 同期生S君を思い出しました。お父上は造兵廠の移転で東京から小倉に来たということでした。また半世紀前ですが、小倉のある商店で出会った、わたしの周囲には珍しかった、気さくだが礼儀正しい女性のことも。
小倉在住何十年のこの女性も、親が造兵廠の移転で東京から小倉に来たということでした。子どものころ、髙島屋や三越の屋上で遊んだことを大変懐かしがったのです。

 一方、「ナットウ!ナット、ナットウ!」と、納豆売りの少年の声が毎朝響いたのが戸畑の早朝でした。昭和初期を東京で送った故オヤジは毎回呼び止め、オキュウトよりも納豆を朝飯に好みました。
 またオヤジどこからか、キムチを買って来たことがあり、まぁこの両食品で家には複雑なニオイが漂いました。ああ、まだトイレも水洗でなかったし~~脱線しましたが、納豆を食すヒトが地元にかなり多かったのです。
 で、先輩の記す、小倉とその周辺、実際8万人の小倉に5万人押し寄せれば、「文明の衝突」も起きたでしょう。博多と違った擬似的標準語もNHK小倉放送局の影響というよりは、先輩の言う5万人の江戸っ子がきた~からだったのか。

 東京オリンピック前年にわが家は、”夜逃げ同然”で戸畑から東京赤羽に身を寄せました。城北の赤羽は、いわゆる上級サラリーマン族の多く住む、世田谷、杉並お上品イメージとは違い、「ベネルクス並み人口稠密地帯」という擦り切れた表現が適切か~北九州工場地帯に似た気さくな下町でした。
 北九州の「カクウチ」同様の早朝から開く酒場もあり、住んだのも陸軍被服本廠跡地。この写真は昭和40年代初めの被服本廠跡地の姿。当時近くあった自衛隊施設も戦前は陸軍兵器支廠・造兵廠から、戦後は米軍兵器補給廠と変身を繰り返したものです。まさに小倉造兵廠の変遷とよく似ていました。

 話を北九州に戻しますが、わが先祖の地である八幡大蔵一帯には「神田」、「神保町」、「末広町」と東京下町から、また上本町は大阪、三条などは京都なのか、それぞれ採ったような名残があります。
 民族の大移動ではないが戦前、官営八幡製鉄所でも同様の文明の衝突はあったようです。でも、こちらは数は少ない幹部クラス子女の話。「東京から転校してきたナントカさんたちはまったく地元と違っていた」~~とは、旧八幡高女時代の母親の思い出。
  それにしても「小倉のどこかで見た、経験した」と、東京下町で感じるもの~~やはり、この造兵廠の大移動が源流ではないでしょうか。実は「かねやす饅頭」も、東京下町のものでした。  

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