2012年6月17日日曜日

湘南江の島界わい ものがたり(6)中井浜の櫓山荘跡が?


                                              阪東湖人

   
 ものがたり(4)の巻でしたが、~JR藤沢までリムジンバス、JR大船ではモノレールでどうのこうの~~と、なんやゴチャゴチャ書かんでも、この地図写真で江の島・岩本楼への交通路、もうスッキリと分かりますね。 

 ところで明陵とか、菊陵とか、ガッコのなまえでやたら好まれますが、その陵、第一義は丘と言うても、もっぱら天子さまとか、尊いヒトの陵墓の意。そういえば卓球部がよく階段ランニングしていた明陵の愛宕神社脇も、小笠原家墳墓群でしたネ。

 で、これまたまったく逆の陽の面で、岩本楼の「楼」~~新字体でつくりを米と女にしたように、なんやこれも原義を離れた二次、三次的には「歌舞音曲を伴う歓楽や飲食の場所」のニュアンスが強いですね。
 鎌倉時代は修験坊だったというのに~~江戸天下泰平の世では、丹沢の山岳信仰、峻厳な大山詣で身も心も洗われる~~さぁ、その後は? 実は帰りは藤沢街道を下って世俗的骨休めの歓楽境、江の島で~という面が多分にありました。
 第一、観音サマが鎮座されるというのも、江戸市中~イヤ、江戸学のあのサイデンスティッカーさんの言うところの「当時は辺境の歓楽街、浅草」と江の島、言うなれば同じじゃないですか。

 で、またこの観音サマ江島神社への参拝路=岩本楼へのルートにも、かの時代、遊妓を抱えた店があったそうです。やがて明治ご一新、歴史的世俗の第二波は、英国人がヨコハマからやってきたことです。ものがたり(3)で述べました西洋人、とりわけ湘南大磯あたりをイングランド南部海岸に見立て、海水浴を広めた英国人たち、江の島が英コーンワルのセントマイケルズマウントさながらで、望郷心に駆られたようです。

 その明治の終わりころ、西洋人と邦人成金の別荘、洋館建設ブームに沸くこの湘南の片瀬海岸に、相模の国の多くの石工職人が集まったそうです。
 相模の国でも、西の熱海に近い真鶴では高級な石材、小松石を産し、東側の三浦半島付け根横須賀佐島では、佐島石が有名です。そこいらの職人さんたちが建設ブームで、いま言う湘南片瀬江の島に、材料の石材ともども船で続々来た。

 で、おまっとーサン~エェ、パンフレットに同じ写真あるヤテ?
~まぁ下記写真がみなさま、お待ちかねの岩本楼  http://www.iwamotoro.co.jp/ 入口。ズズィッとどうぞ中へ。その自慢の相州産石材をたっぷり使っていますね。

 まぁ、往時の界わい~~言うてみれば和製西部劇~腰の革ベルトに石を刻むノミを挟み、宵越しのゼニは持たない気風の石職人の親方、オニイサンたちが通う酒場は、メリーさん、ペギーさんに相当する仇な姿の姐さんの世界。片瀬から江の島にかけにぎわったそうです。小田急片瀬江ノ島駅の竜宮城スタイルは、なにやらそのシンボルなのでしょうか。
 
 一方、江の島の高台には、明治中期の英人貿易商サムエル・コッキングの別荘跡があるのです。実は、「小倉北区中井浜の櫓山荘跡」にソックリ。興味のある方は同窓会当日、ここを訪れるのもいいでしょう。
 江ノ電経営の有料エスカレータ「江の島エスカー」を使えば、石段を上がると20分かかるところ、わずか4分と、楽チン。ああ同じようなエスカレータ、香港島ならタダなのに~~
 で、このコッキングさんもこの地で多分、若き日、あるいは両親から聞いたであろう、遥かコーンウォルは、セントマイケルズを偲んだのでしょう。こんなん多分、藤沢市教委のパンフレットには載っていないと思います。

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