2012年9月4日火曜日

新若戸道路開通60余年前 この地にいた旧制高校庭球名手 

              
                                             阪東湖人


 戸畑区と若松区を結ぶ「新若戸道路」が9月15日(土)に開通することになったようだ。半世紀前の若戸大橋の開通は、五市合併の前座でもあり関心も高かったが、今回は目立たない海底トンネルのことでもあり、どうであろうか。エンジニアの同期諸氏にはフツーのことだろうが、それにしても技術の進歩はすさまじい。

 この手(潜函式)の海底トンネルは、わが初めての海外旅行たる「英領(当時)香港の九龍トンネル」で実感した。それでも往路は下記写真、いまも人気らしいスターフェリーの、それも安価だが波で大揺れの二階席に陣取った。まぁ、映画「慕情」での記者サンと美人医師の悲恋物語”追体験”~~ではなく、野郎2人珍道中。アンチョビ入りピザを初めて食ったのも、この香港のイタリア食堂だった。
スターフェリーの写真
スターフェリー (トリップアドバイザー提供)

 ところ変わって洞海湾のフェリー、若戸渡船がいまも健在なのは、心強い。若松系明治学園ー小倉高組には負けるが、わたしも若松に縁があり、若戸渡船を数多く利用した。だがそれ以上に、この新若戸道路の戸畑側入口の川代岸壁地区、ここは幼児時代過ごした場所。そこが海底トンネル入口になったとは、若戸大橋どころではない~~隔世の感~

 ~もう60年以上も昔になる終戦から3年後のこと。オヤジがかつての部下と一緒に、この川代岸壁地区に戦中からあった松浦化学研究所を買い取り、合成(代用)ショウユを造った。ただし明大応援団あがりのオヤジにそんな芸当、あろうはずもない。旧部下の福井さんがいたからだ。のちに聞いた話だが、福井さんは京大工学部出のインテリ。幼児のわたしもよく遊んでもらった。旧制高校では庭球の名手だったとか。

 福井さんは海風が吹き抜けるこの地でも、庭球ラケットをよく振っていた。さらなるこの福井さんの意外な素顔はのちに譲るが、庭球ラケットは愛宕が丘時代まで福井さんとの懐かしい思い出としてわが勉強部屋(?)に飾っていた。写真右側木造建物が旧松浦化学研究所。眼鏡をかけた右人物が福井さん。上下写真は奇しくも同位置。60余年後、この土地の下が新若戸道路トンネル入口として掘り進められたのだ。

 その旧松浦化学研究所には、いろんな実験用器具があった。
 精密秤の分銅は極小から特大までズラリ並んでいたが、小さなものは幼児のオモチャには格好で持ち出して遊んだ。フラスコ、ビーカーとは名称はもちろんのちに知ったものだが、珍しく見え持ち出しては割った。親にはナイショのつもりだがバレバレ。
 長じての高校時代、高橋先生、木下先生の化学物理実験室の備品類が、実に懐かしいものに見えたが、その後のわが人生に結びつくことはなかった。
 その福井さんが旧松浦化学研究所購入を采配した。この化学研究所で合成ショウユを造る~~工学部出の福井さんにはオチャノコサイサイ。どんな味だった知らぬが、ショウユは貴重品で求める人が、朝早くから並んだ。空襲で焼け出されて食器も十分ないのか、毎朝、皿でショウユを求めに来た婦人は幼児心にも記憶に残る。
 当然、大儲けで、元化学研究所改めショウユ工場には、親族、オヤジの友人と、いろんな人が出入りした。友人で同じく応援団あがりM氏は、まもなく県会議員に立候補した。八幡に若戸地域は大票田、M氏が三輪トラックの荷台の上で演説する姿をおぼえている。もう故人のM氏、まぁ、「メガネドラッグかっぷくメタボ」に先立つ、郷土選出の大臣ともなった。

 オーストラリア先住民アボリジニーは、厳しい生活環境の未開時代、「モノすべて分かち合いで生きる」知恵を持った。先進国民はそれを”所有観念がない”と切り捨てる。まぁ、オヤジも、このアボリジニー的感覚というか、儲けた金はほとんど分け与え、使ってしまった。
 わたしが懐(なつ)いた福井さんのその後は~~病を得て早く亡くなったのだが~福井とは偽名で、本名は「ヤブノ」さんで、滋賀県の大地主の放蕩息子。奥さんと呼ばれる人がいたが、実は愛人だった。滋賀には本妻と子どももいた。わたしを可愛がったのは郷里に残したわが子を想ってのことだったろう。でも京大工学部卒は正真正銘で、遺骨は本妻さんが滋賀へ持ち帰ったと聞いた。人生いろいろ~~世に出る人の周りにも、さまざまな人生模様がある。


0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。