2012年9月17日月曜日

日豊本線の記憶は新田原の桃に山国川の老人、朝鮮戦争

               
                                              阪東湖人


 まぁ、関東では甲州山梨県が本場だが、桃の季節になると、昭和20年代に北九州消費地向けに栽培されていた、日豊本線沿い新田原の桃も忘れられない。皮をむく前、硬い桃を水でよく洗って繊毛を落とした。新田原の桃の繊毛は、いまよりもっと長く密で、手に取るとタンポポのように風に舞った。これが皮膚に付くと炎症を起こしたのは~~紅顔の少年だったかせいか~~いまは厚顔メタボ、それに品種改良で、いまや桃にも繊毛はほとんどない~~

 まず、話は鉄チャンから。写真の蒸機の排煙板は門鉄型デフレクター、いわゆる「門鉄デフ」でヨオロッパ、とりわけ独逸蒸機と、本邦では門司鉄道管理局内の機関区でしか使われないものだった。日豊本線に限らず、鹿児島本線でも走った。ただし筑豊本線は複々線どころか3複線の石炭大輸送がメーン。デフのない貨物型蒸機が片手間旅客輸送にも廻された。

 怖い小峯先生が時たま、各教室を笑わせたのは、例の「団玲子のような美人~」だけではない。日豊本線満員列車でぶら下がって通学の先輩が、駅のポイント通過の揺れでレール脇の電柱だったか、転轍機レバーだかで頭をしたたか打ち付けた。それ以来、この先輩は”アタマが良く”なり、九大に現役で合格した~というような話だったが、果たして本当かどうか~

 オヤジは経済感覚がゼロだったが、伯父たちには才覚があった。中津に豪勢な自宅があった、すぐ上の兄も元はといえば高等小卒の後、大阪鉄道連隊に入営、現中国遼寧省に派遣され石炭に接したのがきっかけで財を成した。
 後除隊の戦後は、大阪の石炭輸送海運会社の重役となり、大阪と九州とを頻繁に行き来した。伯父の山国川沿い中津の宅は、元陸軍少将の邸宅だった。

 「イマニ」というその元陸軍少将は、伯父が買い取った邸脇の、自分の使用人がいた小住宅に住み続け、洗い晒しの旧陸軍礼服、鳥の羽根付き帽姿にステッキを突く老人で、まるでチンドンヤ~~実に残酷な戦後模様だった。
 子ども心にも珍しい服装のイマニ元少将に寄って行った記憶がある。子どもにすら「トージョーは決して悪い奴じゃぁない」と言った。陸士ではずっと先輩だったのだろう。

 この光景をずっと覚えているのは、1月に1回は、中津までオヤジと金満伯父のもとに日豊本線で通ったからだ。
 日豊本線の駅名はたちまちそらんじた~「椎田~松江~宇島~中津」と、いまでも覚えている。弟(オヤジ)の中津通いが兄からの金銭受領と知ったのは、大人になってからだった。そんなことつゆ知らず、当時は相当のお坊ちゃん階級でなければ乗れない自転車も、小学低学年でこの伯父から貰って得意になった。周囲の友達はみな貸し自転車屋に並んで借りていた。

 オヤジの呑み過ぎで、月曜日早朝の日豊線通勤列車で中津から戻り、そのまま小学校に通学したこともあった。日豊線通勤列車は座る場所はほとんどない貨物車改造車。また伯父からの大金でオヤジ殿は気を大きくしたのか、子どもでも腰が沈む柔らかい座席の2等車に乗ったことも。進駐軍兵士がその2等車に入ってきたときはビックリ。でもこのGIたちは、意外や持参軍用毛布を通路床に敷いて座った。これはあの京都修学旅行夜行列車で今度はわたしが体験した。

 ある駅で向かい側に進駐軍専用列車が停まった。病院列車だった。目の前で窓のカーテンを全開していたその光景も忘れられない。のちに見た戦争映画そのもの。車窓の向かい病院列車の中には、顔、腕、脚に包帯を巻いた兵士が、ベッドに横になっていた。小銃もそばにあったのだ。のちに知ったが、病院列車が向う別府には、米陸軍病院・保養施設があった。

 小学低学年でイトコとリヤカー遊びで右腕を骨折した。骨接医の元には、進駐軍兵士と愛人らしい日本女性が来ていた。暗い顔で先に帰ったその2人のことを骨接医は「アメちゃんは朝鮮前線に行くらしい。あのねえちゃんが『彼の腕を折ってやって』と懇願したが、そんなことは出来ないと断わったところ」と言った。

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