2012年9月20日木曜日

別府・鉄輪までの貸切バス 日豊本線大分までの思い出

               
                                              阪東湖人


 福岡支部から今年の一泊旅行案内のハガキが届いた。いつもながらの丁寧な文面の詳細を覘く。別府、鉄輪温泉の文字に思わず目がとまった~
 もう60年近く前、小学校の貸切バス利用一泊修学旅行が別府、鉄輪温泉だったのだ~5クラスあった6年生で、わがクラスのバスだけが幸運にも、日野アンダーフロアエンジンのバス~
 ~またまた、マニアックになるが~日野アンダーフロアは、エンジンが前後輪間の床下。コーチビルダー、つまりボディーは西工製で、フロント運転席ウィンドウは2等分カーブドグラスという優雅さだった。 
 
 ~~他のクラスのバスはリヤエンジンで、フロント運転席は2面の平面ガラス。正面を見ればカナツボまなこ
状で、グ~ンと引っ込んだ運転席はアメリカ型。ボンネット型田舎バスを見慣れた老人が”鼻ペシャ・バス”と呼んだ。
 カナツボまなこに鼻ペシャは、広いアメちゃんの国が考えたもので、バス正面強度維持と、運転手の日よけには抜群の設計だが、左右視界が悪い。いかにも日本向きではなく、しばらくして消えた。でも本家の新大陸では当分使われた。大人気TBS~RKBネット「逃亡者」。故デビッド・ジャンセン演じるリチャード・キンブル医師は、この鼻ペシャ・バスを乗り換え、乗り換え、全米を逃げまくった。

 下記、進駐軍兵士撮影写真の左側の西テツバスがこの鼻ペシャ・バス後ろ姿。リヤウィンドウと、その下の冷却空気取り入れネットのシンメトリーも個性的というんだろうが、わたしの好みではない。この稀少、コダクローム総天然色写真は、昭和28~30年ごろの福岡市内。博多知らずのわたし、電停は「万町」とあるが、どのあたりなんだろう?

 で、別府まで、よい子たちの乗ったバス車列は、穴ぼこ交じりの砂利道、国道10号を砂塵を立ててひた走り、途中どこかで休憩はしたのだろうが覚えていない。
 ただ強烈な記憶は、宇佐から別府間の山岳峠のこと。ここでは進行路面が二等辺三角形状で、頂点を越えるバスが一瞬、宙に浮いた。この道、いまはもうないだろう。(その後12期先輩HPで、「立石峠」と判明)

 300人近くが泊まるのだから、鉄輪温泉の宿もかなり大きなもの。四方が廊下の中庭が温泉で、男児たちはここでイモ洗い状になったが、楽しかった。
 高崎山のサルも記憶にないが、いまもあるのか楽天地。その展望大型双眼鏡で別府湾の方を眺めたら、レンズの中にはノッポのあんちゃんたちが隊列組んで、真っ直ぐ行進したり、突然直角に曲がったり~~その曲がり方が運動会のよい子たちと違うので、ああアメちゃんだと、子どもにもわかった。既報、米陸軍病院での治癒兵士のようだった。
 日豊本線大分までの旅は、オヤジの金満兄への月いちペース「大枚現金拝領通い」の延長線上の話だった。わが伯父は、その岳父が国立大分病院に入院、ムコの力を見せ付けるため、弟たるオヤジに見舞いの旅を命じたのだ。

 この大分までの旅の魅力は、トンネルがあることだった。日豊本線は中津どころか、宇佐あたりまで、まったく平坦な線路だから。大分駅を降りて市電に乗り、雨にぬれて探し当てた国立大分病院。金満兄の岳父のベッド脇で、オヤジはいつになく畏まっていた。

 10年ほど前だが、あることで2度、JAL、ANAで大分まで空路した。市電は当然なくホテルに向かうタクシーで、国立大分病院のことを聞いたが、運転手は知らなかった。
 よい子の修学旅行から実に半世紀。温泉は別府駅付近の名物「高等湯」に浸かってみた。ぬるいお湯だったが休憩の広間で横になると身体がジンジン火照ってきた。

 名にし負うあの別府温泉の効能だ。熱海を知った親族の一人が、「あんなん、別府に比べれば赤子っちゃ」と言ったが、別府の町並み、砂浜でさえ温泉蒸気が立ち上る。それに海の幸の素晴らしさ~~ああ、福岡支部、今年の別府、鉄輪温泉一泊旅行、すばらしいものになるでしょう。来年の江の島組も頑張らなくちゃあ。

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