2012年10月20日土曜日
湘南江の島界わい ものがたり(18) エッ!宗像大社から勧請?
阪東湖人
「歌は世に連れ世は歌に連れ」~~NHK懐かしのメロディなんていう番組の冒頭、こんなセリフが流れましたねぇ。江の島もなんか、時代とともにその「云われ」も相当に変化したようです。厳かなる江の島の歴史も、岩本楼 www.iwamotoro.co.jp/ のHPをたどり、「江の島観光案内」をひも解くと現われます。
~が~実は江の島も、時代とともに「云われ」が変化しています。 そんでぇ~~いまじゃぁ「江ノ電島」とか、「江の電砦」とまで、陰口が聞かれるようになりました~~まぁ、歴史とは、そんなもんでしょう。
ところで「江の島観光案内」では~江の島の3つの宮(辺津宮,中津宮,奥津宮)を江島神社と呼ぶ。それぞれ海の守護神の女神が祀られている。辺津宮はその本社でタギツヒメノミコト。建永元年(1206年)に僧良真によって荘厳な社殿に遷宮され~(エライ時間飛ぶが~)昭和51年(1976年)に改築された~と、なります。
~上写真は”箸休め”。英 St Michael's Mount 再登場~まぁグローバルに、ものごと想像しましょう~~
(続けますと)イチキシマヒメノミコトを祀る中津宮は、慈覚大師により仁寿三年( 853年)に創建。~~(エライ時間飛ぶが~~)元禄2年(1689年)に再建、また~~(エライ時間飛ぶが~~)現在の社殿は 平成8年9月に大改造。商人や歌舞伎界から寄進された石燈篭など、 当時の江の島詣での盛況がうかがえる。
では奥津宮は?ン?? この岩本楼”支配下”「江の島観光案内」ご説明では、それがないんです。
それとは別にこんな話も聞きます。明治以前の江の島には岩屋本宮・上之宮・下之宮の三宮があり、岩屋本宮(中之坊)には岩本坊、上之宮には上之坊、下之宮には下之坊と別当寺があった。岩本坊(注,のちの岩本楼)は三坊の頂点にあり、唯一院号の使用を許可され岩本院と称して江の島全山の惣別当をつとめていた。
上之宮は現在の中津宮、下之宮は辺津宮である。本宮は岩屋で、「現在の奥津宮は」本宮御旅所と呼ばれ、岩屋本宮の管理下にあった。江の島では寺の僧は神社の神主も兼ね、圧倒的に仏教的色彩が強く、神社は中津宮や奥津宮の建物を見れば分かるように小規模。
(そして明治の世~)神仏分離令で江の島の坊主は還俗し、「神主」になった。全国的に仏教、寺は廃仏毀釈により、建物や仏像、文化財が破壊された。(実は、鎌倉もこのあたりに”暗黒時代”があるのです。ずーっと、ずーっと、武家の都をとどめたわけではありません)
江の島の仏教的色彩は皆無となったのだが、でも平成5年に江の島大師が再建され、仏教的色彩が戻ってきた。~~こんなん~~もう、無茶苦茶やわ。
また、関東において、宗像三女神が祭られている代表的な神社が江島神社ということになるそうです。なんや、もっともっと明治の世における廃仏毀釈&国家神道確立への道~~その臭い、フンプンですねぇ。われらが九州宗像大社の流れは、アジヤ大陸、朝鮮半島との縁が色濃く、相模灘の江の島とは、全然関係ないと思いますが~~
ところが、はだか弁天さま~~「江の島観光案内」ではこんな話。欽明天皇(539年-571年)の時代に天から現れた天女とか。 ~~江の島の対岸の悪龍を退治した天女が武威を備えていると信じられ 源頼朝らが尊崇したとされた。~~その後、戦乱の時代を経て江戸時代になると、琵琶を抱いて音曲を司る妙音天女(はだか弁天)に姿を変え、武士ばかりでなく、 商人や芸人などにも広く慕われた~~
まぁ、ぐちゃぐちゃ引用すれば長くなります。が、実に都合のよい話を持ってくるもんと思いますねぇ。欽明さんは、朝鮮半島に縁が深かったならば、そのついでに、江島神社は宗像大社のルーツに「牽強付会」するも可ですが、では、はだか弁天さんのほうは~??~~、それで弁天さんは、辺津宮の境内の奉安殿に別にあるのか~~と、納得できるような~~できないような~~~まぁ、来年6月6日、屁理屈は言わず、まず行って見ることが先ですかねぇ。
~~弁天サンに結構こだわるのは、幼児時代の記憶ですが、洞海湾若松にも弁財天神社があるからです。いまじゃあ~若松南海岸通り(バンド)と、なんや上海みたいオシャレですが、かつては競艇場直行のアズキ色若松市営バスが走り抜ける場所。~~「べざいてん」とか「べんてん」とか、地元で言った波打ち際の神社のことです。
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