2012年4月18日水曜日

半世紀ぶり「帰倉」 旦過市場で「運命の人」に遭遇


                                               阪東湖人


 旦過市場そばの医療センターに入院の叔父から突然、「昔のことを思い出して~」と気になる電話。急きょ病気見舞いで約半世紀ぶりの帰郷。ステーションホテル小倉14階に一泊。この立派なホテル、新幹線客など3階から一階フロントまで降ろされるのは~~フロントは他の一流ホテル同様の3階にすべきではないでしょうか。すでに駅付近には縦横無尽の高架歩道、それもほぼ3階の位置にあるのでは。

 半世紀以上前は小倉ステーションホテル。町内でも話題となった叔父の結婚式も、オープン早々のこの「北九州の帝國ホテル」でだった。当時の上流、小倉富野や八幡高見族でもないのに~~一族の反対を押し切り、大枚はたいたのが勝気で見栄っ張りの祖母。高学歴お嫁サン親族へ立ち向かうハッタリだった。
 この派手な婚姻により現関門地域の開業医、某君家系と縁者に。さすが優等生某君医系ファミリーの血脈か、叔父の娘たちはいずれも優秀で、わがポンツク系とは一線を画し突出~イトコ会には波風が立った~~~ああぁ脱線~その頃からこのホテルは1階がフロントでした。
 ともあれ、客室は快適。朝モノレールを見下ろし、コレットをながめ~この地にあったパチンコ屋から一徳先生が出てきて、われら悪童連とハチあわせ~思い出した。
 
 コカコーラにアコム看板のビルは、第三中央劇場ではなかったか。3年生のときベッドシーンのある洋画を見たが、近くのシートには、小中一貫厳格礼儀のカトリック学園出身だが、当時としては早熟な2年生O君の姿も。甲子園準優勝パレードの記憶がある畑投手の焼き鳥屋がこのあたりにできたと昔、週刊誌で見たが残念、確認の時間はなかった。
 空気は昔と違って相当きれいになっているようだ。さすが経済協力開発機構(OECD)も認めた、環境モデル都市の北九州市だ。でも一方で、工場の煙突の煙が、当時としては”誇らしげ”に「七色の虹」を描いた「東洋のピッツバーグ」、いや河口に海浜だから「東洋のフィラデルフィア」と言うべきか~産業都市として活気あった、あの時代も忘れられないものだ。
 叔父がいる医療センターの柱には、トーナス・カボチャラダムスの巨大絵画。また旦過市場には、懐かしいマテ貝がどの魚屋にも。その昔、昭和30年代まで、北九州のどの街の市場でもマテ貝が並んだ。 
 家庭では七輪で醤油をかけ焼き、大人は酒の肴に、子どもはおかず。香ばしい匂いが町内中に漂ったものだ。また、この旦過市場はインドネシヤの市場「パサール」を思い出す雰囲気で感極まった。
 そのインドネシヤ~赤道直下の大都市ジャカルタの港コタにもマテ貝料理のレストラン。一緒の友人は料理がおいしかった分、財布をすられた。酷暑の中をソフトクリームをなめ、ビールを飲む風変わりな毛唐メタボがいたことを思い出し、旦過市場「モリシタパーラー」でソフトクリーム”昼食”。あまりにうまいので二個も食った。
 出来ることなら将来、この旦過市場の近くに住みたい。本当にそう思う。
 市場脇の昔のドブ川神岳川は浄化が進み、往時の城下、白鷺が小魚をねらう光景~まるで日本画の構図~とは、ポンツクのチョイト、ピントハズレな感想になるか。そういえば昔、美術部でここをはるか「おフランス・パリ」のセーヌ下町何とか運河になぞらえ、カンバスに絵筆を振るった画才ある後輩がいたなぁ。でもヤッパ、新鮮で安くてしかもうまいアジヤ世界、インドネシヤのパサールにより近い。
 叔父との面会を終えたあと夕刻と夜、M君と板櫃町史の非公式研究会開催。場所はまぁ、京町に紺屋町と、繰り出してしまった。日曜で銀天街のつる平サンはあいにく休み。翌、月曜日も第一月曜で、これまたお休み。銀天街は昔からある店に、新しい店舗もチラホラ。昔、鼻のひっしゃげた犬が、それでも「銀天街の主」のように堂々と徘徊していたこと、思い出した。
 最近、日本中で、ラーメン屋などが「商い中」なんて粋がった札下げている。ああいうものは、小冊子「小倉魚町銀天街物語」にあるM呉服店など、伝統ある大店が使ってこそ、サマになる~でも小冊子にあるこの呉服店主サンの写真、アレ、どこかで見たことがある~それになぜかスーツ姿だ。和装がピッタリの貫禄なのに~

 近くにつる平サンのこんなポスター、赤坂小梅姐さんだった。若き日の小梅姐さん~~ああぁ、似た顔と、末娘、筑豊に縁との共通点、幼なじみを思い出した。
 小倉高われら先輩になる優秀な姉さんを卒業後もほめる先生たち~~その妹として先生たちと出会うのが、よほどわずらわしかったのか~~バイパスで小倉西高~某女子大と進んだ女トモダチは小梅姐さんと同郷でも、あの気風(きっぷ)と度胸はナカッタネ。小倉高もバイパスだもん。
 ちなみにその愛宕が丘・某国立女子大卒の才媛姉上、いま高名刺繍作家となり、北九州市立美術館でもたびたび個展、グループ展。7月初めにもまた行われる。

 再度、旦過市場。丸和向かいの歩道は自転車だらけ。そこにジャンパー姿で自転車に乗った、個性的ご面相のジイさんが目の前を通り過ぎた。どこかで見た顔~~ああぁ~沖縄返還密約のN山太吉っつあん。旦過市場に通うのは当たり前か。本木雅弘が演じたTVドラマ「運命の人」の弓成亮太は、カミサンが言うハンサム。
 だが~~まぁご面相のことはやめとこ~~「貴方だって決して男前ではないのだから!~~」と、同じ業界系の同期女性Bさんから、カミサン以上の辛らつな言葉を投げられたし~ぃ。実にショッキングで”顔の自信”もなくした。「当分同期会、同窓会は遠慮しよぉ~っと」
 山陽地下超特急~~驚いたなぁ、帰途ヒロシマ1時間かからず、新神戸まで2時間。東海道新幹線、盛土ジャリ線路のせいか、のろい~割高料金。でも満席、満面うっしっしのワル、JR東海は大もうけ。

 ところで新幹線の英語案内放送。紅毛人との取引が長かった元業界老人として一言~~つくばエクスプレス、東海道新幹線の順に正統英語的な案内音声。山陽新幹線はやや米東部アクセントか。ところが小倉駅新幹線ホームでは、ガイジンも見かけないのに進駐軍 CAMP KOKURA のなごりか~~~外国女性の米語だ。高圧的だから西南のセンセか、いや現中学高校の語学補助アメリカ女性の声ではないかとも~~~
 ~~~進駐軍時代を「あの頃は~~~」と、思い出すだけならいい。でもいま高飛車な米語を浴びせられると、老人は現実と進駐軍専用時代とを錯覚錯乱、不快にもなる。

 かの日の小倉駅(現西小倉駅近く)には、進駐軍専用列車、進駐軍専用車両。昭和30年代半ばまで西鉄電車の各電停には「MAY DRIVE ON TRAMWAY」の標識。あの英語は主語がないからおかしい~と、センセに聞いたポンツクだったが。

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