2012年4月26日木曜日

小倉藩お抱え「文人」となる? 数世紀後の清張サンのこと



                                    阪東湖人

 http://tois.nichibun.ac.jp/chizu/santoshi_2303.htmlは、オドロオドロしい「昭和14年下関要塞司令部許可済 小倉市地圖」だ。拡大すると縣立小倉中学のそばに「明陵学館」とあるのが印象的だが、それはともかく軍都小倉の中心部は詳細が伏されている。戦後はソックリ進駐軍のものになったピンク色の旧小倉城エリア。板櫃町史研究同学のM君が別の地図で示してくれたが、軍事機密の第12師団司令部、第14連隊、砲兵工廠、小倉兵器庫部分だ。
 かえってピンク色での機密扱いにより他のシャバの風景、つまり市街の繁栄振りが目に浮かぶ。ちなみに「おフランス」の地図も、軍域はピンク色だ。16サンチ(センチ)砲なんて言った日本軍は、実に徳川慶喜以来フランスかぶれが尾を引く。また三萩野には競馬場~あぁこれが本邦初の競輪場の元か、いま全国ニュースのあのコワ~イ組織もまだない様子。 

 余韻はまだまだ続く約半世紀ぶりの帰郷。意外や、個性的ご面相のN山太吉さんと旦過市場で遭遇した。掲載写真の前をN山太吉さんが通った。でも魔性の美女につながる場所は、もうどこにもなかった。私の関心は、ひたすら現北九州にほの見える再開発の波動と、意外なその地域差に集束されてきたようだ。
 M君とはこの点では見解が異なるが、やはり市庁舎は現在、市総合体育館が立つ八王寺地区であるべき~長い時間をかけ”ブラジリア”にすべきだったと。~~はるか南米のブラジリア~~この計画首都をまだどうのこうのと批判する人もいる。でも世界ではいまやこの首都移転は成功との評価を得ている。

 あの北九州五市合併は「県庁所在地以外で初の政令都市への道」。なにしろ当時、比類なき行政指導権限を誇った「お上」の意のまま。その自治省サマの青写真による出来レースが五市合併の実体。お役人、審議会用語で言えば「落とし所」が準備された北九州市誕生劇だった。その自治省では実力次官がなぜか五市合併政令都市推進派。この次官はのち読売新聞社長・日本テレビ会長となるが、それは読売新聞正力社主の女婿だったから。
 そして「ジャイアンツ・ファンの皆さん お待ちどうサマ !!新聞は読売で~~」とばかり、北九州市誕生の翌昭和39年、読売新聞西部本社が小倉で印刷を開始した。五市合併劇は、太鼓をたたく前からキャンペーン祭りに踊り狂った、愚かな他のマスコミよりもこちらが一枚上手だった。

 また新市名では、五市合併を前に訪れたライシャワー駐日米大使が一案「八倉越市」を提案し注目されたが、その裏では、仮称「北九州市」が周到に準備されていた。また八王寺地区に高層新市庁舎という構想が発表されてまもなく、「八王寺地区地下に廃坑トンネル!!」という衝撃ニュースが飛び出し、八王寺案は白紙に~すでにさる筋が用意した(時限)バクダン情報だったろう。
 これは昭和35年当時の金比羅山頂の公園から見た、到津遊園裏口付近。右端下は金比羅池で八王寺地区はさらにこの先になる。当時はまだ山林と丘陵地帯。この付近に新市庁舎が完成していれば、どのような光景が出現しただろうか。
 この八王寺案白紙の結果、ほとぼりを冷ますように戸畑市庁舎を暫定市庁舎で運用、それも当分の間続いた。その後、黒塗り旧富士銀本店によく似た市庁舎がスンナリ旧小倉城内に出来た。これにより小倉が盟主の地位を不動のものとし、今日に至る。

 皮肉なことに、政令市の核に落ち着いたはずの小倉にも浮沈模様がある。分かりやすく言えばその象徴が、少子化現象を上回る菊陵中コンパクト化と思永中の都心集約化&”民度向上”だ。かつて菊陵は山の手と商家の子弟、思永はまさに庶民の子弟が大多数。その思永が山の手スタイルとは~卒業生なら気恥ずかしい気分にもなろう。もっとも昭和14年地図では、大門、金田側には板櫃川を天然堀として存在した西紺屋町、西小姓町と、むしろ紫川向うよりランクの高い町並みがあった。鷗外でおなじみの安國寺、また小倉藩家老の子孫、T君の邸宅もこちら側。思永の復権もそんな歴史的事情がよみがえったかのようだ。

 このあたりは、板櫃町史研究のM君が現地を踏んだ状景として解説してくれた。「これまでの小倉の街の発展からは遅れていた西小倉地区が小倉北区の発展(変化)のポイント。思永中ー西小倉小が条件が良くなっていて~略~板櫃川沿いの地域が良い方向に変化していきそう~~」と、指摘する。都市高速1号が及ぼす影響が大なのだ。いまや昭和14年ピンク色軍事機密地域が、都市高速道路を得て意外や再開発のスポットとなっている。

 我田引水的北九州ブラジリア論に戻る。板櫃川が東西に流れる背後の南面、八王寺の丘に新市庁舎があればこそ、戸畑バイパスが生きる。北部九州の南北に平野が広がる遠賀川の中間、直方に、紫川流域郊外という馬蹄形に発展する地域を九州自動車道がつないでいることも人、物流に好都合になったはず。いま沈滞気味という八幡東区の活性化にもつなげられる。このエリアには現在ユニークな市立美術館があるが、そばに新市庁舎があったならば、二極の政治・文化のコアともなる。
 
 ところで浮き草稼業の転勤で高校アルバム類は不明だが、校内誌「汲泉」5,6,7号はなぜか手元にある。昭和35年11月発行汲泉5号巻末には、村田譲一先生の特別寄稿「十年後の北九州」がある。このなかで村田先生が仮称「北九州市」としているのは、すでにこの名称が底流としてあったことの証左だ。
 この村田寄稿が総じて当時の高度経済成長バラ色の夢トーンなのは当然としても、すでにそのとき、小倉日明港の将来発展を予測され、逆に「暗影深し門司港」とあるのは、半世紀後の現北九州市の地政学的分析からも慧眼卓見だ。写真は昭和35年当時の日明方面。矢印が小倉高校だ
 この半世紀に整備が進んだ北九州都市高速道路と九州自動車道。それに当然ながら山陽新幹線の経済効果・影響は大きい。九州新幹線誕生で福岡との経済綱引きも微妙に変わる。さらに今後、都市高速道路網がどのように延伸されるか~その葉脈の役割で「北九州市という葉」の、つやと輝きが違ってくる。

 最後に松本清張記念館について~~清張サンの小倉での下積み生活が後年の活字エネルギー。それが小倉城脇に、あまりに立派な記念館があるのでは~~400年、500年後の人たちは、清張サンを小倉藩の「文人の重臣だった」と時代を混同するのでは~まるで宮本武蔵のように~と危惧する。清張サンが育ち、生きた紫川向うの古船場、中島あたり~いやもうそれは旦過市場近く~であるべき~~、これは考えすぎ、妄想でしょうか。

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