2011年4月5日火曜日

私の桜紀行

斉藤世二
さて大好きな桜の季節が巡ってきました。私が勤めていた会社のOB会のHP「コマツ社友会」の「OB通信」に「私の桜紀行」が掲載されていますので、ぜひご覧下さい

2011年4月1日金曜日

日本社会はどこまでヘタってしまったのか


 まず東北関東大地震、1000年に一度と言われ、外電では300年ぶりという表現もありますが、最初にその犠牲者の方に深い哀悼を捧げます。
 先輩12期生が中心の「関東明陵同窓会」
では、早速「東日本巨大地震寄付金のお願い」運動を同窓生に展開しています。
 また北九州では、先輩14期生の原子力専門家、金氏顕さん(小倉・三郎丸在住)が、原発事故を分かりやすく解説されている様子がうかがえます。


阪東湖人

 広域電力公共企業たる某電のザマをみていると、そう感じる。ここの社長サンは一方「日本広報学会会長」。 なのに、3月11日発生の福島第一原事故の2日後から”失踪”。3月29日付のワシントン・ポストは「経営者が雲隠れ」と批判したが、すでに20日にロイター通信はベトナム反戦歌、ジョーン・バエズの「花はどこに行った」を転用、「Where is Japan's nuclear power CEO?」を世界に配信した。かつてこの雲隠れ社長サンは、「嵐になれば現場にみんな駆けつける。パブリックユーティリティであるという点が会社のDNA」と、のたもうたのに。

 某電は、財界総理の木川田K、平岩”セラミック”と、そうそうたる大物を輩出したが、近年はヒラメ社員のたまり場。父親に次いでの2世社員、神奈川県出身の社長サン、資材部長上がりで制服を中国製に替えて3億円の削減に成功、「コストカッター」の異能ぶり。雲隠れ社長サンを引き上げた会長サンのテレビに出た姿、好々爺風だが、どうして、どうしてカミソリ頭脳。それもそのはず、お勉強DNAはすごい。会長サンの父は神奈川県出身でYゼミの創設者。その会長秘蔵っ子同県人の社長サンは、Yゼミで学んだのが出世の始まり?

 ところで、附中関東「小文字会」(?)重鎮の小倉高同期某君が、どうも雲隠れ社長サンと大学学部同期。またY須賀在住の某君宅の近くには、雲隠れ社長サンが高校時代通った超進学率カトリック学園があったのだが、某君に聞いてみたら「同期は800人もいたので知らない」だった。

 某電は、「福島原発の事故被災者を支援する新組織のトップに(体調不良で入院中の)社長が就いた」とイケシャーシャと発表。でもロイター通信は、神奈川県人で原発反対の河野太郎代議士の某電についての感想をすでに伝えている。「本当のことは(絶対)言わない。それがこの会社のDNA」と、河野代議士、政界3世ながらそれなりの辛らつさ。
 外国のメディアは鋭く、きついツッコミで警告する。でも日本のメディアは江戸以来、庶民の意思を代表する瓦版なのに、明治の政治家御用と化して以来、「社会の公器」、「客観性」なんて、どうもゴマカシの美風に包まれ、今日に至っている。

2011年2月21日月曜日

北九州モノレール「小倉駅乗り入れ」 私的あとさきの記憶


阪東 湖人

 “真相は藪の中”かとつぶやきながらも、いつしか忘れたことを先ごろの東京モノレール事故で思い出した。都内と羽田空港を結ぶモノレールが、変電所漏電が原因で2時間もストップ、乗客が空中の車両にカンヅメにされた騒ぎだった。実に東京モノレールも、北九州モノレールもコンクリ・鉄骨のレールをまたぐ「跨座式」。このイメージが北九州モノレール「小倉駅乗り入れ」の”私的あとさきの記憶”をよみがえらせてくれた。

  昭和60年ごろ本社勤務のわたし、よく言っても場所待ちひまポスト。会社には朝毎読の全国地域版が翌日には届いたが読む人はなく、ただ積まれるばかり。ひまなおり、ひとり読んでいたその北九州版の記事に、「モノレールは地元商店街の反対で~~小倉駅前平和通が終点に」~~確かにそう書いてあったと記憶する。

  それから時は流れ平成10年、このころ本格窓際族のわたし。またも同様の地域版を読んでいると、「モノレール小倉駅乗り入れが実現」とあった。でも小倉商店街の旦那衆の意見は、オヤオヤ「悲願がやっとかなった~~もともと小倉駅乗り入れ反対の声など、なかった」となっていた。その旦那衆のなかに「もしや同期の○○君の名前はないか」と、紙面を追ってみたりした。

  ところで真相は藪の中とは、小倉駅乗り入れ反対の事実を証明するにも、当時の旦那衆がいまだ健在とはいくまいし、その息子世代はわが同期生に重なるが、その現旦那衆にしても当時は、商業界ではまだ若輩。あの海老蔵サンではないが遊び盛りの中年若旦那。親の商売よりはほかごと(女性?)に関心が向いたのではないだろうか。「反対の声などなかった~」というイメージ醸成は、そんな背景からでは? 

  いやそれ以上にモノレールが当時の小倉駅に乗り入れるのは、技術とコスト面で相当の困難さもあったのでは。つまり、「地元商店街の反対を配慮」も併せた、当局の“玉虫色解決”ではとも思えてきた。それは小倉以後の、わが地元のJR千葉モノレール駅の複雑さを見て、思いが強くなった。11階のそごう屋上をかすめるモノレール駅から、地上JR千葉駅への乗り換えは実に手間。技術・コストはかなりのものとうかがえる。運営は市、県を中心の三セクター。お陰で市庁舎前、県庁前駅は必要以上に立派。またお役所仕事による大赤字。多くの駅にはエスカレータ、エレベータの過剰完備。当然ながら予定路線の一部は未完、計画断念となっている。

 モノレールには昔から関心があった。わが浮沈の会社人生でも、あるとき幸運にも貴重なドイツ出張がかなった。ついでにルール地方の工業都市ブッパータールの元祖懸垂式(現千葉モノレールも同じ懸垂式)を是非見たいと思った。だがスケジュールはルールからは遠いハンブルクで夢は消えた。

 ちなみに跨座式は懸垂式よりスピードと安定感があるのだが、さきの東京モノレール事故での巷の声は、「羽田空港の客を私鉄京浜急行と張り合い、キャパシティー以上の運行をやったからだ」と批判的。お客もまたモノレールより、二本レールの私鉄に安定感を求めているようでもあった。北九州もそうであろうが、二本レールの鉄道と共存するしかない。モノレールはレール周りの構造上、路線を縦横無尽に広げるのは苦手だ。

2011年1月9日日曜日

新年“顔面神経痛”アナクロ・ログ老人のつぶやき

新年“顔面神経痛”アナクロ・ログ老人のつぶやき
阪東 湖人

 関東平野の秀峰筑波を望み、大河大利根に臨む、わが地元図書館に意外や意外、「福岡・北九州 市内電車が走った街今昔」との写真本を見つけ、思わず手に取った。まずは「西鉄北九州線」〜〜決してチャチではなかったわが郷土、北九州線の巻をむさぼり読んだ。旧博多の電車はまずパス、理由は後述する。
 インターアーバン(都市間交通)たる大型市街電車の「西鉄北九州線」は、関西の阪神国道線の創生期と似ている。繁栄の北九州五市のうち四市を結ぶ路線でそこが博多の路面電車や東京都電との違いがある。
 この写真本にある北九州線の古い車両に少年時代がよみがえる。起業祭のにぎわいに向かう満員電車で伯母のハンドバッグの側面が見事に切られ、サイフが抜き取られた。おもちゃを買ってもらう予定が狂ったことは一大事だったので鮮明に憶えている。今はもうこんな無形文化財的なスリはいまい。また起業祭が近づくとミゾレが必ず降るとは、祖母の言葉だった。
 大門、幸町(戸畑)、中央区(八幡)の電停はそれなりに複雑で、新聞の投書に「電車に系統番号を付けて」との新入り転勤族の要望が載った。でも「系統番号とは何だろう?」というのが正直な地元意識。また中央区電停脇には本格的なアイスクリームを出す店があり、いつも父親にねだった。私的には中央区の方が小倉魚町より都会を感じた。それは製鉄全盛の時代の証しだった。
 それから約十年、小倉高には西テツバスで通学したが、道路工事などでバスがう回のとき、戸畑中原から日明電停まで電車に乗った。中原電停に沿う鹿児島本線では、下り博多行き特急「あさかぜ」をよく見た。ある朝のあさかぜが、のちブルートレインと呼ばれる濃紺のスマートな編成で現れたのにはビックリした。
 だがこの写真本の終わりの方、西鉄北九州線終焉のさまには唖然とした。最後に我が物顔で走ったのは、寸足らずの運転席窓、いわば「“顔面神経痛”的ご面相」の使い回し博多の電車。なぜ博多の電車が〜とはあえて言うまい。西鉄北九州線のあのヘッドライトと優美な正面運転席の広い窓という、ノーブルさはどこに消えたのか。
 「博多の電車は小さいなぁ」と子どものころ、北九州線に誇りを持った。発車の際は「チーン、チーン」の路面電車ではなく、「ファーン」という市街電車の警笛だったから。なのに歴史に残される最後の北九州線電車は旧博多の路面電車というくやしさ〜〜。西鉄北九州線の勇姿は、わが脳裏にいまだに生きているのに、故郷では残酷な終焉が歴史として残された。
 仲間の阪神国道線もなくなったし、インターアーバンの矜持を守って消えたのは「まぁ、いっか」とも思うが、“顔面神経痛”的ご面相の電車だけは許せない。あれは今的にいえば、コンピューターウィルスだ。

2010年11月11日木曜日

関西地区の釣り好き有志が京都舞鶴で鯛釣り



去る11月7日、関西地区の釣り好き有志が京都舞鶴で鯛釣りをしました。

佐藤・後藤・扇野


今回で3回目の海釣りで、前回は和歌山の加太だったが、今回はもともと京都の久保君が懇意にしている釣り船で、大物を釣ろうと久保、後藤、大久保、扇野、藤本、佐藤の6人で船をチャーターした。しかし数日前から久保、藤本の二人が残念ながら体調不良となり、残り4人で決行となった。 当日の天気予報は曇りで、午後からは雨もあり、寒いとのことで、皆、パッチをはいたり、何枚も重ね着をしたり、雨具も準備万端。朝9時舞鶴の船集合に大阪から一時間以上も早く着いた後藤、扇野組、佐藤も早めに着いたが、一番ゆっくりしていたのが、現地に前日から泊まっていた大久保。 みんな大きなクーラーを持ってきている。船は1時間ほど走り、沖の冠島付近までいく。 船長が佐藤に水深を測るので、糸を降ろしてみてくれというので、針に一匹餌をつけるただけで糸を降ろす。降りたと思ったら、引いてるという。まさかと思ったら早速鯛が上がってきた。みんな気を良くして釣り始める。 最初の出だしは良かったが、そのあとはポツポツだった。

後藤・大久保・扇野
大久保の大鯛

天気はひとつない快晴、風、波もなくポカポカ陽気で、汗さえ出てきた。酒を飲み食いながらの太公望。昼からはみんなそこそこ釣れていたが、船釣り2回目の大久保は釣りに飽きたのかサロンで昼寝、こっちは糸が絡まったり大変な思いをいしていると、起きて竿をさわって「大物が釣れているぞ」と電動リールを巻き始めた。それを見た船長から、巻き方が早い等と注意されながら上がってきたのが、なんと75CMの大鯛、びっくり、しかもその下にも、鯵と鯛がつながって上がってきた。さっそく大鯛を抱いて写真を撮るが、なかなか手につかない、やっとの思いでおさまった。その後も、「もうこれだけ釣れたらやめた」と寝転んでいる。

佐藤の釣果(もらったものも入ってます)
 
後藤も、扇野もぱらぱらつれているようだが、後藤は人が釣れるたびに羨ましがってごちゃごちゃぼやいていた。扇野は黙々と釣っている。私はお祭りや、針を切られていらいら、仕掛けを4回も替えた。がみんなそこそこの収穫で、良い釣りだった。せっかく釣った魚を大久保はいらないとわれわれに分けて、特に大鯛は後藤が大喜びで持って帰った。
写真を何枚か貼ってますが、詳しく見たい方はインターネットで( 釣り船 マーメイド 舞鶴 )を検索し、11月7日の釣果をクリックしてください。 詳しく見れます。


http://www.mermaid-1.com/report.html

11月11日                    佐藤紘一

2010年10月12日火曜日

黒崎に再び映画館を

黒崎では映画館は休館しているのですね。
以下 2010/10/08付 西日本新聞朝刊より

2010年10月8日 02:01 カテゴリー:九州 > 福岡
201010080012_000.jpg

2010年8月27日金曜日

「あれが本当の豊前うどん?」~大門電停裏にあった河口屋

 讃岐うどんの全国制覇ぶりはテレビでよく紹介される。東京でも、神田駿河台下の讃岐うどんの店はテレビ登場以前から評判。そこから少し歩いた裏通りに「豊前うどん」の店があった。豊前の名に「あの味では~」との期待を持って入ってみた。でも、何のことはないごく普通の味。あの味とは、小倉大門電停裏にあった「河口屋」のうどん。当時からして少々汚い大衆店で、霜降り服生徒のたまり場。半世紀後のいま、関東15期同窓会で話題に出しても知るものはない。
 河口屋は自宅とは逆方向なのに、その味をおぼえ下校のときよくかよった。当時九州では珍しい「タヌキうどん」もあった。客それぞれの粗末なアルミ鍋を小さなガスコンロにかける。うどん一玉分がグツグツ煮込まれ、ツユが煮立ってこぼれると、そばのカメからヒシャクでツユを注ぎ足す。伸びてしまうと心配するほどさらに煮込む。それでも”コシのある”うどんが出来上がる。
 この評判の河口屋では、従業員が店主とケンカ別れし、その元従業員が勝手に名乗る河口屋が銀天街にも出来た。生来の好奇心からこの店も覗いてみたが、大門の店とはツユの深みが違うどころか、ニガミすらあった。本店のおばさんに伝えると、「この店の味を出せるわけがない」とつぶやき、アルミ鍋のうどんをかき回した。そのうち、「元従業員が河口屋を名乗って営業しているが関係なし。当店の味は他の追従を許しません」との張り紙。実に大らかな時代だった。河口屋のあの味にはその後、お目にかかったことがない。
 大門電停裏の通りの奥と書いたが、実はこの裏通りこそ旧長崎街道。往時は小倉城下の天下の通りには当然、歴史がある。この旧道にあった中学(思永)同級生の古い店構えの「柴田提灯店」の方は、インターネットではいまも健在のようだ。また旧小倉駅前にはかつて同じく同級生の実家、三徳うどん店があった、ここはまた河口屋とは違った煮干味の記憶がある。
 「あれが豊前うどんの本当の味だったのでは~」と、思い出す河口屋。そういえば、英語の小峰先生は、真夏の倉高食堂で冷やしうどんを食べている生徒を睨みながら「オーイかけうどん、ツユはうんと熱くしてな!」と注文したが、先生は河口屋をご存知だったのだろうか。
(阪東湖人)