2012年10月20日土曜日
湘南江の島界わい ものがたり(18) エッ!宗像大社から勧請?
阪東湖人
「歌は世に連れ世は歌に連れ」~~NHK懐かしのメロディなんていう番組の冒頭、こんなセリフが流れましたねぇ。江の島もなんか、時代とともにその「云われ」も相当に変化したようです。厳かなる江の島の歴史も、岩本楼 www.iwamotoro.co.jp/ のHPをたどり、「江の島観光案内」をひも解くと現われます。
~が~実は江の島も、時代とともに「云われ」が変化しています。 そんでぇ~~いまじゃぁ「江ノ電島」とか、「江の電砦」とまで、陰口が聞かれるようになりました~~まぁ、歴史とは、そんなもんでしょう。
ところで「江の島観光案内」では~江の島の3つの宮(辺津宮,中津宮,奥津宮)を江島神社と呼ぶ。それぞれ海の守護神の女神が祀られている。辺津宮はその本社でタギツヒメノミコト。建永元年(1206年)に僧良真によって荘厳な社殿に遷宮され~(エライ時間飛ぶが~)昭和51年(1976年)に改築された~と、なります。
~上写真は”箸休め”。英 St Michael's Mount 再登場~まぁグローバルに、ものごと想像しましょう~~
(続けますと)イチキシマヒメノミコトを祀る中津宮は、慈覚大師により仁寿三年( 853年)に創建。~~(エライ時間飛ぶが~~)元禄2年(1689年)に再建、また~~(エライ時間飛ぶが~~)現在の社殿は 平成8年9月に大改造。商人や歌舞伎界から寄進された石燈篭など、 当時の江の島詣での盛況がうかがえる。
では奥津宮は?ン?? この岩本楼”支配下”「江の島観光案内」ご説明では、それがないんです。
それとは別にこんな話も聞きます。明治以前の江の島には岩屋本宮・上之宮・下之宮の三宮があり、岩屋本宮(中之坊)には岩本坊、上之宮には上之坊、下之宮には下之坊と別当寺があった。岩本坊(注,のちの岩本楼)は三坊の頂点にあり、唯一院号の使用を許可され岩本院と称して江の島全山の惣別当をつとめていた。
上之宮は現在の中津宮、下之宮は辺津宮である。本宮は岩屋で、「現在の奥津宮は」本宮御旅所と呼ばれ、岩屋本宮の管理下にあった。江の島では寺の僧は神社の神主も兼ね、圧倒的に仏教的色彩が強く、神社は中津宮や奥津宮の建物を見れば分かるように小規模。
(そして明治の世~)神仏分離令で江の島の坊主は還俗し、「神主」になった。全国的に仏教、寺は廃仏毀釈により、建物や仏像、文化財が破壊された。(実は、鎌倉もこのあたりに”暗黒時代”があるのです。ずーっと、ずーっと、武家の都をとどめたわけではありません)
江の島の仏教的色彩は皆無となったのだが、でも平成5年に江の島大師が再建され、仏教的色彩が戻ってきた。~~こんなん~~もう、無茶苦茶やわ。
また、関東において、宗像三女神が祭られている代表的な神社が江島神社ということになるそうです。なんや、もっともっと明治の世における廃仏毀釈&国家神道確立への道~~その臭い、フンプンですねぇ。われらが九州宗像大社の流れは、アジヤ大陸、朝鮮半島との縁が色濃く、相模灘の江の島とは、全然関係ないと思いますが~~
ところが、はだか弁天さま~~「江の島観光案内」ではこんな話。欽明天皇(539年-571年)の時代に天から現れた天女とか。 ~~江の島の対岸の悪龍を退治した天女が武威を備えていると信じられ 源頼朝らが尊崇したとされた。~~その後、戦乱の時代を経て江戸時代になると、琵琶を抱いて音曲を司る妙音天女(はだか弁天)に姿を変え、武士ばかりでなく、 商人や芸人などにも広く慕われた~~
まぁ、ぐちゃぐちゃ引用すれば長くなります。が、実に都合のよい話を持ってくるもんと思いますねぇ。欽明さんは、朝鮮半島に縁が深かったならば、そのついでに、江島神社は宗像大社のルーツに「牽強付会」するも可ですが、では、はだか弁天さんのほうは~??~~、それで弁天さんは、辺津宮の境内の奉安殿に別にあるのか~~と、納得できるような~~できないような~~~まぁ、来年6月6日、屁理屈は言わず、まず行って見ることが先ですかねぇ。
~~弁天サンに結構こだわるのは、幼児時代の記憶ですが、洞海湾若松にも弁財天神社があるからです。いまじゃあ~若松南海岸通り(バンド)と、なんや上海みたいオシャレですが、かつては競艇場直行のアズキ色若松市営バスが走り抜ける場所。~~「べざいてん」とか「べんてん」とか、地元で言った波打ち際の神社のことです。
2012年10月18日木曜日
「爽快に続け! 倉高健児ゴルフ」&引退「うるさジジイ」の繰言
阪東湖人
メールで倉高健児ゴルフ世話役の某君から年次ゴルフ案内。いつもは封書の案内状なのに~と思い読むと「手紙が宛先不明で戻った」という。とりあえず「ご手配、いつも忘れず、恐縮の限り~~しかし、ゴルフセットは処分しました」と返事した。でも拙宅を宛先不明とは~~某君手紙、住居番号末尾が隣家となっていただけ。かつて、はるかアフリカ・ジンバブエに手紙を送った。半月経って「宛先不明」で戻った。こちらの手落ちで、英国式私書箱の番号末尾1か2を間違えた。旧植民地はこんなものかとあきらめたが、今回、ご当地郵便局での「アフリカ程度」の扱いにはビックリ。
早速、日本郵便株式会社にメール。「~~郵便局はアフリカ奥地並み。拙宅には自慢じゃないが連日、税金督促状や、未納会費請求が届く。配達員は左手にそれを持っているはず。~~郵便局は近衛公の別邸脇、栄えある特別局だったはずだが、いまや場末。現状サービス、アフリカ並みを脱却すべく、ご本社より~~郵便局長以下に叱責と督励方を切に望む」と(むなしくも)遠吠えした。
それには某君から、「~~いささか穏やかじゃないね。うるさいじじいになりつつあるね。老化現象は着実に進んでいる。なにごとにも些細なことには目をつぶり穏やかにね」との”お叱り”を頂戴した。
いやぁ、ゴルフ~この倉高健児ゴルフなら、実に「小春日和の爽やかな青空のもと同窓の仲間とともにワイワイガヤガヤ」と楽しめるのだが、かつて自慢した1,2,7番アイアンも親類の若者に譲ってもうない。
おまけに老化現象は着実に進んでいる。思えばゴルフ、よくやったな~~と思う。ここで一度だけ、わが総括、「爽快に続け! 倉高健児ゴルフ うるさジジイの引退繰言と思ひ出」を是非お許し願いたい。まぁ、うるさジジイの繰言、たわ言は無視、諸氏の写真だけ見て貰う手もあろう。
大宅壮一が「緑の待合」と言った日本ゴルフ。企業社会ではわたしも接待ゴルフを拒む野暮はなかった。ゴルフ後のサウナ&マッサージ、寿司屋、そして高級クラブ。ハイヤーで帰宅。一方で異常なまでの「エチケット・ルール」。市民生活で紳士でない奴ほど「エチケット」「エチケット」と騒いだ。
コンペの「エチケットリーダー」も戦中翼賛会の臭い。わたしのいた、戦後成り上がり企業の社長は、「自分など、”財界人”としてはキャディ上がりの身~~」など抜かし、東京ビジネス界で失笑を買った。
拙宅近所には青木功がそのキャディだった名門ゴルフ場があり、最寄駅では特権階級の名残なのか、揃いの舶来ブレザーに大そうな革鞄という、日本独特のゴルフ紳士達にいまもよく出会う。メンバー様のゴルフセットは倶楽部保管で、ビジターは宅急便が今日。JRはグリーン車利用。
若き日の昭和天皇が三つ揃いで楽しんだ時代があった。その「大正時代の野球帽」風シャッポ姿までくだけた現代ゴルフ。でも行き帰りは、ブレザーにステータスシンボリックな革鞄。東京駅ではスチュワーデスじゃあるまいに、3人分の足場を邪魔するゴロゴロキャスター付キャリーバッグを転がす旅オヤジがいる一方、ゴルフ紳士は重い革鞄を下げ、(アレなら楽なのに~と)ゴロゴロバッグを横目でにらんでいる。
「ゴルフケース」はとうとう、日本では未発達。アメリカではゴルフバッグでなく、ハードケース化した「ゴルフケース」がゴロゴロキャスター付き。そのままゴルフカートに積む。またカートはコースの中を、ミズスマシのように左右、斜め上下、自由に動けるのも日本と違う。カートは目線が高いので、ロストボールもよく見つかる。1プレーで1ダースは拾える。服装はNYですら、プレー中も帰りも一緒だったり、まちまち。ジャージ姿も。
ゴルフ場近くの家から幼い少年が、濃縮ジュースを薄めて入れたポリタンクを抱えて現れる。生温かい1杯が1ドルとは高いが、幼児から自活を教えるのがアングロサクソンだ。「お金を集めてポキモン(ポケモン)を買うんだ!」と言ったこのティミー君。離れた場所から、じっと見守る親がいた。
環境配慮「ティー」は木製でメーカー宣伝ロゴ入り。米東部で南部進出日本食品メーカーのロゴ入りティーを拾ったときは、本邦企業戦士の営業活動に感激した。以来あちこちティーショットの場の、打ち損じで埋まっているティーを掘り出しコレクションにした。
またかつて五大湖とリンクする鉄道の要衝、中西部ミネソタでは、巨大な貨車操車場と機関庫が土盛りされ、ゴルフ場に。ここでのプレー、機関庫屋根上からの打ち下ろしと、遠景には北米大河ミシシッピ。はるか2000キロを下りメキシコ湾に注ぐ、その雄大な流れとともに忘れられない。
欧州大陸フランダースの真冬、スパイク付ゴム長を履いて薄氷シャーベット状のグリーンでボールを転がしたが、凍結ボールはすぐ止まって進まない。石畳に入ったOBボールは、とんでもない方向に撥ね、行方不明に。このスパイク付ゴム長とは、羊を追う牧童が、長い冬に使うものの転用だ。
南半球シドニーで買ったカンガルー1枚革のゴルフシューズは、フランダースの酷寒でパックリ割れた。またニュージーランドでは、アイアンだけ使用可のゴルフ場があった。相当広くとも、ウッドは奴らの腕力ではコントロール不能、どこまで飛ぶやら~~
一方、南洋では椰子のささくれ立った高い幹にボールが刺さった。また茂った熱帯樹のどこかにとどまって落ちてこないボールも。
キャディが高価なクラブを、すり替えたりの話、中古ボールを新品に塗り替え加工する技は、元駐在員同窓諸氏が詳しい。「ティー」はプラスチック製輸入品で品薄。携帯ストラップのように紐をつけ、ショットで飛ばしてなくさないよう大事に使った。
ゴルフ銘柄ではない、ホンモノ毒蛇コブラには二度も遭遇、陸軍演習場隣接のコースでは、「パリパリ~ダ、ダ、ダ~」と乾いた音がいつも。機関銃実弾を撃っているのも南洋ボケで気にならなかった。酷暑の下、スタミナ飲料には「リポビタン」のドイツビール割り、アボカド・カカオ割りジュースが一番だった。
その南洋、グリーン以外では、かつてはタンポポ状の草が敷き詰められた。現在ではティフトン芝に替えられたと聞く。でも印度亜大陸インダス平原パキスタンでは、タンポポ状のまま。全土がゼネストの日は仕事にならず、日本の友人とゴルフしたが、ベテランのはずの彼よりもわたしのスコアがよかったのは、タンポポ状の草を熟知していたから。ゼネストで荒れた大都市カラチでの死者、重軽傷者多数とは、のちに知った。
明陵関東でも拙宅近くで定期的にコンペをおやりの様子。でも、先輩後輩の階級社会、「エチケット」に「日本独特のゴルフ紳士会」の雰囲気やに~~
老化現象は着実に進んでいるわたし、嗚呼、倉高健児ゴルフの良き思い出、和気あいあいで実に爽快だった。でも、まだまだお元気な「倉高健児」のみなさんは、これからも是非続けてください、新規参入もいいでしょう。なんたって「エージシュート」到達圏なんですから。
2012年10月9日火曜日
湘南江の島界わい ものがたり(17) たまに猫が乗るエスカー
阪東湖人
江ノ島といったらエスカーを忘れてはいけない~~というユーモアな指摘が地元発信のネットに載っています。「ものがたり(6)中井浜の櫓山荘跡が?」にある以下くだり~「江ノ電経営の有料エスカレータ『江の島エスカー』を使えば、石段を上がると20分かかるところ、わずか4分と、楽チン』~」など、陳腐な説明でしたが、こちらサンは~もっとオモロイ話、お伝えしましょう。
とはいえ、”江ノ電島”の現場を経験しなければ、実感の湧かないペーソスでもあります。来年ぜひ、「江ノ電砦」の島とエスカーを体験して下さい。
このような記述です~~
ただのエスカレーターなのに有料という代物だけど、とりあえず乗っておこう。
「探偵ナイトスクープ」で桂小枝がいつ取材に来てもおかしくない。パラダイス(人のまばらなレジャー施設という意味)として。
「エスカレーター乗ったら景色見えるでしょ?」という期待を込めて乗ってはいけない。左右は広告ばかりの壁である。しかし、徒歩はかなり歩くので乗っておこう。
広告は一度設置されると交換されないから古いものばかり。リニューアルされて新しくなったがそれでも古くなった。それがエスカー唯一の見所。
たまに猫が乗っている。(と言うか殆どのタイミングで同行してくれるよ、鰯とかは、くわえていないけど。)どうやら昇りだけで降りがないので、エスカレーターの言葉を半分にして「エスカー」というらしい。
というわけで、このエスカー使って、お待ちどうさま~~イヨイヨ、はだか弁天さまを拝観。ああ、ご公儀のもと、江戸の良民には、こんなんが扇情的だったんでしょうか。
愛宕が丘の中間か期末かの試験終了日、みんなで、「風と共に去りぬ」を観たのは、玉屋向かいの映画館、第二中央(?)と記憶しますが、この劇場、それよりはるか前、「空中ぶらんこ」という洋画の大看板が(善良な小倉市民に)扇情的と問題になりました。
イタリヤ出身の妖艶、ジーナ・ロロブリジーダのそれはそれは、グラマーな容姿が、電車通りに出現したのです~~安寧秩序がお役目の小倉警察署も映画館の真ん前。個人的にはニンマリ、でも公的には憤怒ポーズの署長サン、県内市川大門の最高幹部、警察本部長に早速お伺い~~~
当局のただならぬ動きに業界側も素早く反応。ロロ(ブリジーダ)さんの網タイツ・ビキニ風衣装艶姿の「ウェスト周り」が黒く塗りつぶされ、この市川大門の権威と面子は(野田どぜうvs胡錦濤さんのケースとは違い)守られました。
~ところで映画館や銭湯の看板描き、かつては東京芸大出の絵手も居たそうです(この話、どこかで聞いた気もする~~)。
従三位、文化勲章、かの平山郁夫画伯ですら売れない時代、小中学校の黒板の年間予定枠白エナメル書き~この話、平山先生の甥御サンから聞きました。
当時、この平山画伯の甥御サンは愛宕が丘同期T君の部下。T君は当時、NC旋盤など工作機械では世界トップ水準H社の重役でした。~~脱線、脱線でも、妙なところで人脈が浮かびます。
~~で、はだか弁天さまを観た皆さま、「なんや、コレ?」と思ったら、(江ノ電エスカーに下りはないので)江ノ電砦の石段をトボトボ降りて岩本楼 www.iwamotoro.co.jp/ に戻りましょうか。
次回は、この老舗旅館、江島神社のことなど、世話人団の方々から、「この野郎!せっかくの努力を、誹謗中傷しやがって!」と憤怒の”差し止め請求”されない程度にとどめた、その全貌を暴いていきましょうか。
2012年9月29日土曜日
湘南江の島界わい ものがたり(16) 一遍上人に始まる藤沢
阪東湖人
日照り続き、水不足の残暑でしたが、突然秋の気配と降雨。すると猫額庭の土中から、スローモーション映画のように、はぐれアサガオが芽を出し、ツルを伸ばし、アレヨアレヨという間に花が咲いた。そう言えばアサガオは秋の季語とか~~そんなこと習いましたねェ。
一方冷気で彼岸花も一気に咲く気配だと、いかに湘南江の島新名物といっても、もうこのショウガもタップリの「生しらす丼」を楽しむ季節ではなく、せめてアッタかい「釜揚げしらす丼」や下記の「しらすパン」の季節ではないでしょうか。
つい最近、集団的、個別的に”江の電島”を訪れた同期生で、この「しらすパン」をパクついた御仁もいるようやに聞き及びます~~皆さま宿泊ご予定の岩本楼 http://www.iwamotoro.co.jp/ 至近土産物街の店でのことです。
ところで江の島のある藤沢ではこのほど、「第39回藤沢市民まつり」が盛大に開かれました。湘南らしくパレード、屋台村と多彩なイベント。そして今回初めて登場したのが遊行寺エリア。昭和30年代から40年代を再現、縁日やウイロウ売りの口上、サル回しなどが催されました。
この遊行寺は一遍上人を宗祖とする時宗総本山。そもそも藤沢は遊行寺門前町として生まれ、「藤澤山」の山号が町の名となり、やがて東海道の宿場町に発展し、今日の藤沢市となった~~ということだそうです。
遊行寺、残念ながことに、皆さま向かう江の島とは、JR藤沢駅からまったくの反対の山側、バスでは藤沢橋下車か、徒歩十五分の場所であります。
ちょっと不便ですが、来年6月の記念同窓会来訪の折には足を運んでみてはいかがですか。ちょうど同期の出稼ぎ定着&地元住民化組の幾人かが、この近辺に住んでいるようだし~~この遊行寺~~まぁ、言うてみれば、小倉は足立山麓の黄檗宗の名刹、広寿山福聚寺のイメージ、雰囲気のようでもあります。話題、思い出にも広がること必至デス。
若いころわたし、藤沢警察ご用聞きバッカだったので~この遊行寺、知りませんでした。バチアタリめが! 根アカで明るく、軽いノリが身上の湘南族のメッカ、藤沢が、こんな由緒ある街だったんですねぇ~
~~実際は”いいくら加減俗っぽい”あの鎌倉の社寺群よりは、ちょっと寄り道してでも、崇高な一遍上人の心に触れるのもいいのではありませんか。
なお、境内では「アオが~」とか、「馬車の奴!」とか、懐かしくとも、この手の悪口雑言は厳禁。天罰が下ります。でも、あの口の悪い湘南族、この掟、守っているとは思えません~~実際、参拝帰りに急停車のバス内で、シタタカおつむをぶっつけた者がおります~~~
2012年9月20日木曜日
別府・鉄輪までの貸切バス 日豊本線大分までの思い出
阪東湖人
福岡支部から今年の一泊旅行案内のハガキが届いた。いつもながらの丁寧な文面の詳細を覘く。別府、鉄輪温泉の文字に思わず目がとまった~
もう60年近く前、小学校の貸切バス利用一泊修学旅行が別府、鉄輪温泉だったのだ~5クラスあった6年生で、わがクラスのバスだけが幸運にも、日野アンダーフロアエンジンのバス~
~またまた、マニアックになるが~日野アンダーフロアは、エンジンが前後輪間の床下。コーチビルダー、つまりボディーは西工製で、フロント運転席ウィンドウは2等分カーブドグラスという優雅さだった。
~~他のクラスのバスはリヤエンジンで、フロント運転席は2面の平面ガラス。正面を見ればカナツボまなこ状で、グ~ンと引っ込んだ運転席はアメリカ型。ボンネット型田舎バスを見慣れた老人が”鼻ペシャ・バス”と呼んだ。
カナツボまなこに鼻ペシャは、広いアメちゃんの国が考えたもので、バス正面強度維持と、運転手の日よけには抜群の設計だが、左右視界が悪い。いかにも日本向きではなく、しばらくして消えた。でも本家の新大陸では当分使われた。大人気TBS~RKBネット「逃亡者」。故デビッド・ジャンセン演じるリチャード・キンブル医師は、この鼻ペシャ・バスを乗り換え、乗り換え、全米を逃げまくった。
下記、進駐軍兵士撮影写真の左側の西テツバスがこの鼻ペシャ・バス後ろ姿。リヤウィンドウと、その下の冷却空気取り入れネットのシンメトリーも個性的というんだろうが、わたしの好みではない。この稀少、コダクローム総天然色写真は、昭和28~30年ごろの福岡市内。博多知らずのわたし、電停は「万町」とあるが、どのあたりなんだろう?
で、別府まで、よい子たちの乗ったバス車列は、穴ぼこ交じりの砂利道、国道10号を砂塵を立ててひた走り、途中どこかで休憩はしたのだろうが覚えていない。
ただ強烈な記憶は、宇佐から別府間の山岳峠のこと。ここでは進行路面が二等辺三角形状で、頂点を越えるバスが一瞬、宙に浮いた。この道、いまはもうないだろう。(その後12期先輩HPで、「立石峠」と判明)
300人近くが泊まるのだから、鉄輪温泉の宿もかなり大きなもの。四方が廊下の中庭が温泉で、男児たちはここでイモ洗い状になったが、楽しかった。
高崎山のサルも記憶にないが、いまもあるのか楽天地。その展望大型双眼鏡で別府湾の方を眺めたら、レンズの中にはノッポのあんちゃんたちが隊列組んで、真っ直ぐ行進したり、突然直角に曲がったり~~その曲がり方が運動会のよい子たちと違うので、ああアメちゃんだと、子どもにもわかった。既報、米陸軍病院での治癒兵士のようだった。
日豊本線大分までの旅は、オヤジの金満兄への月いちペース「大枚現金拝領通い」の延長線上の話だった。わが伯父は、その岳父が国立大分病院に入院、ムコの力を見せ付けるため、弟たるオヤジに見舞いの旅を命じたのだ。
この大分までの旅の魅力は、トンネルがあることだった。日豊本線は中津どころか、宇佐あたりまで、まったく平坦な線路だから。大分駅を降りて市電に乗り、雨にぬれて探し当てた国立大分病院。金満兄の岳父のベッド脇で、オヤジはいつになく畏まっていた。
10年ほど前だが、あることで2度、JAL、ANAで大分まで空路した。市電は当然なくホテルに向かうタクシーで、国立大分病院のことを聞いたが、運転手は知らなかった。
よい子の修学旅行から実に半世紀。温泉は別府駅付近の名物「高等湯」に浸かってみた。ぬるいお湯だったが休憩の広間で横になると身体がジンジン火照ってきた。
名にし負うあの別府温泉の効能だ。熱海を知った親族の一人が、「あんなん、別府に比べれば赤子っちゃ」と言ったが、別府の町並み、砂浜でさえ温泉蒸気が立ち上る。それに海の幸の素晴らしさ~~ああ、福岡支部、今年の別府、鉄輪温泉一泊旅行、すばらしいものになるでしょう。来年の江の島組も頑張らなくちゃあ。
2012年9月17日月曜日
日豊本線の記憶は新田原の桃に山国川の老人、朝鮮戦争
阪東湖人
まぁ、関東では甲州山梨県が本場だが、桃の季節になると、昭和20年代に北九州消費地向けに栽培されていた、日豊本線沿い新田原の桃も忘れられない。皮をむく前、硬い桃を水でよく洗って繊毛を落とした。新田原の桃の繊毛は、いまよりもっと長く密で、手に取るとタンポポのように風に舞った。これが皮膚に付くと炎症を起こしたのは~~紅顔の少年だったかせいか~~いまは厚顔メタボ、それに品種改良で、いまや桃にも繊毛はほとんどない~~
まず、話は鉄チャンから。写真の蒸機の排煙板は門鉄型デフレクター、いわゆる「門鉄デフ」でヨオロッパ、とりわけ独逸蒸機と、本邦では門司鉄道管理局内の機関区でしか使われないものだった。日豊本線に限らず、鹿児島本線でも走った。ただし筑豊本線は複々線どころか3複線の石炭大輸送がメーン。デフのない貨物型蒸機が片手間旅客輸送にも廻された。
怖い小峯先生が時たま、各教室を笑わせたのは、例の「団玲子のような美人~」だけではない。日豊本線満員列車でぶら下がって通学の先輩が、駅のポイント通過の揺れでレール脇の電柱だったか、転轍機レバーだかで頭をしたたか打ち付けた。それ以来、この先輩は”アタマが良く”なり、九大に現役で合格した~というような話だったが、果たして本当かどうか~
オヤジは経済感覚がゼロだったが、伯父たちには才覚があった。中津に豪勢な自宅があった、すぐ上の兄も元はといえば高等小卒の後、大阪鉄道連隊に入営、現中国遼寧省に派遣され石炭に接したのがきっかけで財を成した。
後除隊の戦後は、大阪の石炭輸送海運会社の重役となり、大阪と九州とを頻繁に行き来した。伯父の山国川沿い中津の宅は、元陸軍少将の邸宅だった。
「イマニ」というその元陸軍少将は、伯父が買い取った邸脇の、自分の使用人がいた小住宅に住み続け、洗い晒しの旧陸軍礼服、鳥の羽根付き帽姿にステッキを突く老人で、まるでチンドンヤ~~実に残酷な戦後模様だった。
子ども心にも珍しい服装のイマニ元少将に寄って行った記憶がある。子どもにすら「トージョーは決して悪い奴じゃぁない」と言った。陸士ではずっと先輩だったのだろう。
この光景をずっと覚えているのは、1月に1回は、中津までオヤジと金満伯父のもとに日豊本線で通ったからだ。
日豊本線の駅名はたちまちそらんじた~「椎田~松江~宇島~中津」と、いまでも覚えている。弟(オヤジ)の中津通いが兄からの金銭受領と知ったのは、大人になってからだった。そんなことつゆ知らず、当時は相当のお坊ちゃん階級でなければ乗れない自転車も、小学低学年でこの伯父から貰って得意になった。周囲の友達はみな貸し自転車屋に並んで借りていた。
オヤジの呑み過ぎで、月曜日早朝の日豊線通勤列車で中津から戻り、そのまま小学校に通学したこともあった。日豊線通勤列車は座る場所はほとんどない貨物車改造車。また伯父からの大金でオヤジ殿は気を大きくしたのか、子どもでも腰が沈む柔らかい座席の2等車に乗ったことも。進駐軍兵士がその2等車に入ってきたときはビックリ。でもこのGIたちは、意外や持参軍用毛布を通路床に敷いて座った。これはあの京都修学旅行夜行列車で今度はわたしが体験した。
ある駅で向かい側に進駐軍専用列車が停まった。病院列車だった。目の前で窓のカーテンを全開していたその光景も忘れられない。のちに見た戦争映画そのもの。車窓の向かい病院列車の中には、顔、腕、脚に包帯を巻いた兵士が、ベッドに横になっていた。小銃もそばにあったのだ。のちに知ったが、病院列車が向う別府には、米陸軍病院・保養施設があった。
小学低学年でイトコとリヤカー遊びで右腕を骨折した。骨接医の元には、進駐軍兵士と愛人らしい日本女性が来ていた。暗い顔で先に帰ったその2人のことを骨接医は「アメちゃんは朝鮮前線に行くらしい。あのねえちゃんが『彼の腕を折ってやって』と懇願したが、そんなことは出来ないと断わったところ」と言った。
2012年9月12日水曜日
湘南江の島界わい ものがたり(15) 日本人妻名義で別荘を
阪東湖人
江の島の高台にあるコッキング遺構、わたしは、ガキ時代に探検した小倉北区中井浜の櫓山荘跡に似ていると確信しています。でも「牽強付会」とはこのことでしょうか。まぁ遺構、紀元早々のイタリヤ・ポンペイに、また紀元前はるかの印度、いやパキスタンのモヱンジョダロ~にまで時代は逆戻りですが~「どこも似たものであることは確か」~と、イヤハヤものすごい観察眼デス~
~ところで最近、尖閣問題で中国の「核心的利益」という言葉がシンブンによく出ます。サムエル・コッキングにとっても、この場所は、故国をしのぶ「絶対譲れない」心の拠り所だったのではないでしょうか。
なんでもコッキングは、明治の初めに英貨2ポンドで別荘庭園を建てたようです。当時の2ポンドを邦貨に換算すれば相当なものだったでしょう~
~というか、明治初期の本邦通貨はまだ未発達だったとも。しかも、外国人は土地購入など出来ないから、日本人妻名義だった。
ヨコハマでも、山手、元町がハイカラさんで有名ですが、一方、鶴見の高台が出船入船の眺望、交通の便が良いため、外人さんが数多くいました。いまは、埋もれた歴史になっていますが、皆さまが5年前に神戸北野界わいを歩かれた、あの光景に似たものだったのでしょう。
江の島にかかわる明治黎明期の外人さん~もうひとりは、ご存知、あの大森貝塚発掘のエドワード・モース。品川から東海道線、京浜東北に乗ると大森の右手に「大森貝塚どうのこうの~」という記念碑が見えますが、下の写真のように、江の島にも記念プレートがあります。
明治初年の東大のお雇いガイジンのひとりで、この江の島に臨海実験所をつくったということです。モースは日本が気に入ったのか、生涯に何度も長期来日、明治黎明期の恩人のようです。
若いころ、神奈川県内で御用聞きをやったわたしですが、モースが江の島に縁があったとは、これは知らなかった。
富士山が初冠雪で、いよいよ秋になってくるようです。相模湾の海につかるのは、サーファーさんだけか。これからさらに冬、早春の光景は、来年6月梅雨時の江の島記念同窓会の参考にはならないかもしれませんがお付き合い下さい。
もう時効かなぁ~季節はもう少し前だったか~40数年前に”宮中某重大事件”が、この海でありました。毒クラゲに、やんごとなき身分のお方が刺された~この項、これ以上は永久削除~
まぁ、江の島記念同窓会ですから、ガイジンサンの話は以上オワリということで、次回はもっと本題の、みなさまのご関心がある江の島(いや、江ノ電島というべきか)のほうに進めようと思います。
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