2012年3月17日土曜日
奈良坂紘一教授が登場 3月16日付の読売新聞朝刊1面
3月16日付の読売新聞朝刊1面左肩の続き物に、シンガポールのナンヤン(南洋)工科大、奈良坂紘一教授の談話が登場しています。
この記事は、「列島再生」第2部「新たな国土づくり」の第2章「成長支える頭脳」シリーズです。
奈良坂談話の内容を読めるように、新聞記事を部分的に添付しました。大阪読売版、西部読売新聞でも、この紙面展開ぶりは多分同じだと思います。
奈良坂教授の談話は、さらに2面の「東大、インドに乗り込む」記事の最後にも登場、「日本の基礎研究は高水準にある。それを呼び水にして優秀な頭脳を呼び込むといった、政府の明確な方針が必要だ」と提言しています。
2012年3月10日土曜日
「オヤジバトル! 」と自分史 学区外 若松ものがたり(下)
阪東湖人
NHK北九州開局80周年記念ドラマ「オヤジバトル!」には、再活性化を願う若松の商店街が登場する。明治32年に北九州で初の家庭電灯、水道は門司とほぼ同時(異説*若松の上水道設置は九州では長崎市に次ぐ、大正2年末の戸数約6200に60%の普及率)、都市ガスも戦前から市内全域に張りめぐらされた若松。ニッポンイチの石炭積出港は昭和30年代まで元気モリモリ。目抜き通り「中川通り」は名物貨物電車が走り、市営バスは一攫千金ねらう若松競艇への客をフル・ピストン輸送。街に札束が舞う一方、当時大作家の火野葦平を見かけもした。
そもそも官営製鉄所登場前の八幡・若松は「洞の海」一衣帯水。恥ずかしながらわたくし的ルーツの一つ若松に母方の大祖父。この山師は日清戦争の開戦直前、軍の竹材大量調達を見越し、山口、島根と回って買い占めた。その金で若松の中川堤(のち中川通り)左岸を入手。あざとい商才に加え、”ロマンス”も多かった大祖父は、そのうちのある娘(大叔母)にだけ財産を残した。
人生早く、夫と子どもを亡くした大叔母は、舞踊、観劇、マージャンに明け暮れ、本業の和菓子屋経営は使用人任せ。でも税務署には腰が低かった。土地も太平洋戦争時に多くを手離したが、和菓子屋周辺の一等地は守った。
まあ新開地若松の女性はこの大叔母も含め、女だてらばかり。女侠「どてら婆さん」を幼女のころ恐々見たというから、そんな風土だ。でも高級洋菓子を扱い始めたら、土地であまり見かけない上品な院長夫人がお得意さんに。なんと吉田修先生の1年7組で一緒W君の母上。W君はいまその院長。またはるか昔、若松の幼稚園での仲間、H君も同じクラスになった。
一方、大叔母から和菓子屋を「譲りたい」との話があり、前座でお気に入りの姪、母が手伝った。私を引き取り店の後継者にとの流れにも。だが血縁分上乗せで激しい"オンナバトル! "の末、訣別。大叔母は若戸大橋完成直前に死んだ。でも「姪には知らせるな」と言い残し、死は長らく伏せられた。遺言書には土地建物など「譲る」と書かれた母の名の上に朱線二本が引かれ、訂正印が押されていた~という。
最期を看取った”縁者”が養子になった様子で、遺産はそっくり任せた。もとより父親は大叔母とはそりが合わず、また河合校長の父、若松中(河合)安禄山先生の薫育”男の美学”かどうか~「女房方の財産など、とんでもない」と一顧だにしなかった。でも大叔母からオモチャを買って貰ったわたしには未練があった。
いまグーグルアースで中川通りを上空から見ると、大叔母の和菓子屋の通り向かい、オモチャを買って貰った「わだや」と、和菓子屋隣りの香川カメラが健在。大叔母が妙に”張り合った”創業百有余年の料亭「金鍋」も伝統の姿のまま。だが和菓子屋も、またそばのしゃれた帽子屋も、もうない。
歴史に「もし」は禁じ手だが~”我をして大叔母の遺産相続たらしめば”~「オヤジバトル!」に”老商店主”で登場したのでは ~実際、地元商店主の皆さんが全編、エキストラで活躍する、福岡発地域ドラマ「オヤジバトル!」は3月17日(土)午前零時15分から、NHK総合で~オシマイ~
2012年3月7日水曜日
「NTT柏支店長が苦情電話に出るわけない」と思った~
阪東湖人
受話器2個を両方の耳と肩の間にはさんでの受け答え~昔の株屋さんには負けるが、現役時代の電話機の使用回数とゴルフとは、恥ずかしながら同期生の誰にも負けないダントツ実績のはず。「電話ばかり使ってないで、会って来い!」とは当時の上司。また「針金(電話線)でなく、たまにはこちらにいらっしゃい」とのお得意さんの嫌味風ユーモアが、肩にはさんだ受話器から響いたものだった。
電話局との縁も多い。地方から東京に戻る際、電話を移転させるのはまだ面倒だった当時、兄貴がNTT社員だからという同僚が”手を回してくれた”。
転勤直前のある日、かかってきた電話は朴訥な茨城訛りで「▲▲センセイですか? ▲▲センセイほどの人なら(電話)線は2本必要です。すぐ引きますから」と否応なかった。実際、この朴訥さとセンセイほどの人~には参った。当時ファクスはまだ自動切換えでなく専用線が必要。のちに知ったのはこの朴訥社員こそNTT内で伝説の人物。統括するNTT柏支店エリアで、空前絶後ダントツ実績の営業係長だった。
市外局番04という広大なNTT柏支店エリア。かつてM物産の社宅群があった。社宅脇の斜面に電話用コンクリ電柱が横倒しで何十本も束ねて積まれていた。斜面の下は通学路。電力の電柱ほど太くはないが転がり落ちると危険。実際、そのような事故もあった。M物産、警察、それとも娘の通う小学校、どこに電話しようかと考えたが、通りいっぺんの「連絡しときマス」対応で終わりそうなので、コンクリ電柱の主、そのNTT柏支店にコワモテ電話に出た。
でもNTT柏支店長はかなりのエライさんで、苦情電話などに出るわけがない。空前絶後ダントツ実績の営業係長には「センセイほどの人が~」と返されそうだし、こちらも次長職経験ありで、支店次長に「カクカクシカジカ~地震があったらどうなる!コンクリ電柱撤去しろ。すぐ対応しないなら、シンブンに投書するぞ!」と息巻いた。相手も苦情には手馴れた様子。まもなくコンクリ電話電柱はすべて撤去された。
当時(1990年)偶然だが、「ふるさと北九州市を考える会」会報をふと見たら、名簿にT大教授のNR坂君、以前セゾングループにいたN君、小倉西高出身で一度どこかでご一緒したS藤さん(M商事秘書室)とともに、元生徒会総務、久野君の名前。アレッ! NTT柏支店長だった。
それからまた、浮き草稼業の掟で各地を転々。とうとう久野君にこのエピソードを伝えることも出来なかった。おまけに電話ときたら、あのときのダントツ実績の営業係長からの「おだて追加一本」に加え、もう一本も電話局預け。で、都合3回線をいまだ保持の身。ケータイも次々に高機能化され、新機種の売り込み電話とメールが”シャーシい”昨今。あの朴訥な声で「▲▲センセイですか?」の営業係長は実にスゴ腕だったと、いまさらながら思う。
2012年3月4日日曜日
「オヤジバトル!」と自分史 学区外 若松ものがたり(上)
阪東湖人
2012年は若戸大橋開通50周年だ。あのとき、洞海湾の潮風の吹くなか、開通間近の若戸大橋に生徒を引き連れたのが、学年主任の高橋範義先生。「この橋の開通と五市合併で北九州はさらに~~」と、先生が熱弁をふるってからもう半世紀が過ぎ去った。
また、NHK北九州放送局も開局80周年になるとか。その開局記念の福岡発地域ドラマ「オヤジバトル!」が3月17日(土)午前零時15分から総合で「全国放送決定!!」だそうだ。
このドラマ、オヤジバトル! は試験的だったのか、関東ローカルですでに放映された。ストーリーは~若い頃、成功を夢みて上京したバンドマンが、厳しい現実と直面、希望を失って故郷・北九州若松区に帰る。そこでかつての恋人と結婚。新しい仕事も見つけ、恋人の連れ子である小学生の娘と3人で人生の再スタート~だが~というもの。
若戸大橋の方もシンボルとして何度も登場する。幼児期を過ごした若松が舞台なので懐かしく見た。
幼稚園にしばらく通った若松。その昔の仲間には奇しくも小倉高同期、医院の息子H君と地元名門企業Sの坊ちゃん。Sの坊ちゃんとは幼稚園でアルミ食器の取り合いをした。食器はチューリップの絵が女児用、野球選手の絵が男児用。多分、進駐軍払い下げ食器、それに補助食も。でも保母さんは適当に配った。野球選手の食器がと喜んだら、Sの坊ちゃんもつかんでいた。
彼の目力は当時からあたりを払う威力で、残念ながらわたしは野球選手の食器を放した。またSの坊ちゃんとは父親同士が旧制若松中で同級生。こちらもはるかな大正時代だが、当時教育実習生の河合青年、のちの河合校長に習った仲だった。
それから約40年後になるが、浮き草稼業のならいで転勤を繰り返し、名簿では所在不明だった。そのとき北九州では小倉高卒業25周年の記念同窓会。それも若松の佐藤公園横、若松パークホテルで開催されたとのこと。河合校長も出席など~それもはるかのちに知った。なぜ若松パークホテルが会場だったのか~
かつて幼稚園でアルミ食器の取り合いをしたS君も元気な顔を見せていたという。地元名門企業で顔の効くはずのS君、会場選定に関わったのかも。でもいまやその若松パークホテルも取り壊され、マンションになるはず、いや~なった、とかいう話も最近聞いた。
2012年2月25日土曜日
小倉北区 中井浜ものがたり(後)=Fukuoka 3-B POW Camp編
阪東湖人
櫓山荘跡を怪人二十面相の隠れ家と信じた戦後間もないワルガキ時代。中井浜の櫓山荘がけ下の境川沿い砂州には、木造バラックが並んだ。当時、ここに家族と住む小学級友を訪ねた。何かの施設の転用とは子ども心にもわかった。電柱状の大きな材木が建物内外の支えに何本もあるバラック群は、中国、朝鮮半島からの引揚住宅と後で知った。電脳情報の現代、中井浜の引揚住宅木造バラック群とは~ネットで偶然、それも導かれるようにたどり着いたのが旧連合軍捕虜、関係者のHP。それは Fukuoka 3-B POW Camp という名称だった。
Fukuoka 3-B POW Camp は日本軍「中井浜聯合軍俘虜(捕虜)収容所」のこと。HPの資料写真、さらに関連ページに飛ぶと米英蘭の捕虜が収容され、Nepots power plant(日発)、YAHATA SEITETSU での強制労働~~収容所監視の日本軍将校、兵士がCruelだったとの表現や、製鉄所クレーン作業事故で死んだ仲間の記述がある。日本敗戦と収容所解放時の喜びに加え、米機B29から中井浜収容所への食糧投下、栄養失調の捕虜たちや、死亡者の一覧も見られる。
ネットの内容は、彼らがよく使う「許そう、だが決して忘れない」あのトーンを超える。産業県福岡の各所には同様、連合軍捕虜が収容され、戦争支援の労働力として使われていた。ここではそれ以上は触れまい。
一方、旧小倉中出身で大先輩、水野勲新日鉄副社長(明陵同窓会第4代会長)は生前の対談場面で連合軍捕虜について「イギリス、オーストラリア、インド兵の捕虜たちで、1,200人ぐらいいましたね。でも、製鐵所もクリスマスパーティをしたり、扱いに気を遣っていましたから、終戦後も何も問題は起こりませんでした。(後略)」と語る。=西日本シティ銀行:地域社会貢献活動:ふるさと歴史シリーズより
また旧八幡中からの生徒勤労動員で連合軍捕虜と一緒に働いた叔父も、「なぁケネディ!この戦争が終わったら、君の国に遊びに行くからな」と軽口たたく仲にまでなったと、同人誌に書いている。捕虜たちも昭和20年前後の時点で、日本がほどなく降伏に追い込まれるとの母国放送の情報を密かに得ており、製鉄所側も故水野氏のいう”厚遇”に出た様子だ。
付け加えると、叔父のいう「~ケネディ!」とは、ケネリーKennely米陸軍兵のことであると、ネットの捕虜名簿で確認できた。
願わくば、北九州市も櫓山荘跡という華やかなサロン文化の記念碑だけでなく、そのがけ下、「中井浜連合軍俘虜収容所跡地」の保全あらんことを。無辜(むこ)の民多数が犠牲になった、あの米軍の北九州大空襲とともに、Fukuoka 3-B POW Camp も「負の遺産」の一部として是非、後世に伝えてほしい。
櫓山荘跡を怪人二十面相の隠れ家と信じた戦後間もないワルガキ時代。中井浜の櫓山荘がけ下の境川沿い砂州には、木造バラックが並んだ。当時、ここに家族と住む小学級友を訪ねた。何かの施設の転用とは子ども心にもわかった。電柱状の大きな材木が建物内外の支えに何本もあるバラック群は、中国、朝鮮半島からの引揚住宅と後で知った。電脳情報の現代、中井浜の引揚住宅木造バラック群とは~ネットで偶然、それも導かれるようにたどり着いたのが旧連合軍捕虜、関係者のHP。それは Fukuoka 3-B POW Camp という名称だった。
Fukuoka 3-B POW Camp は日本軍「中井浜聯合軍俘虜(捕虜)収容所」のこと。HPの資料写真、さらに関連ページに飛ぶと米英蘭の捕虜が収容され、Nepots power plant(日発)、YAHATA SEITETSU での強制労働~~収容所監視の日本軍将校、兵士がCruelだったとの表現や、製鉄所クレーン作業事故で死んだ仲間の記述がある。日本敗戦と収容所解放時の喜びに加え、米機B29から中井浜収容所への食糧投下、栄養失調の捕虜たちや、死亡者の一覧も見られる。
ネットの内容は、彼らがよく使う「許そう、だが決して忘れない」あのトーンを超える。産業県福岡の各所には同様、連合軍捕虜が収容され、戦争支援の労働力として使われていた。ここではそれ以上は触れまい。
一方、旧小倉中出身で大先輩、水野勲新日鉄副社長(明陵同窓会第4代会長)は生前の対談場面で連合軍捕虜について「イギリス、オーストラリア、インド兵の捕虜たちで、1,200人ぐらいいましたね。でも、製鐵所もクリスマスパーティをしたり、扱いに気を遣っていましたから、終戦後も何も問題は起こりませんでした。(後略)」と語る。=西日本シティ銀行:地域社会貢献活動:ふるさと歴史シリーズより
また旧八幡中からの生徒勤労動員で連合軍捕虜と一緒に働いた叔父も、「なぁケネディ!この戦争が終わったら、君の国に遊びに行くからな」と軽口たたく仲にまでなったと、同人誌に書いている。捕虜たちも昭和20年前後の時点で、日本がほどなく降伏に追い込まれるとの母国放送の情報を密かに得ており、製鉄所側も故水野氏のいう”厚遇”に出た様子だ。
付け加えると、叔父のいう「~ケネディ!」とは、ケネリーKennely米陸軍兵のことであると、ネットの捕虜名簿で確認できた。
願わくば、北九州市も櫓山荘跡という華やかなサロン文化の記念碑だけでなく、そのがけ下、「中井浜連合軍俘虜収容所跡地」の保全あらんことを。無辜(むこ)の民多数が犠牲になった、あの米軍の北九州大空襲とともに、Fukuoka 3-B POW Camp も「負の遺産」の一部として是非、後世に伝えてほしい。
2012年2月23日木曜日
小倉北区 中井浜ものがたり(前)=櫓山荘跡編
阪東湖人
~西テツ電車が市街を走る記憶のまま~故郷を離れ半世紀人間の最新情報ネタ元を明かすと「北九州のあれこれ」というHPがその一つ。そのなか「北九州展望」の巻にあるのが櫓山荘跡=小倉北区中井浜だ。「かつてこの櫓山荘には、作家の里見弴、久米正雄、宇野浩二、作曲家の中山晋平、童話作家の久留島武彦など多くの著名人や文化人が訪れ、北九州にサロン文化の花が咲きました」とある。櫓山荘は響灘~いや小倉高流だと~大空涵(ひた)す玄海~に臨む、白砂青松の海辺の高台にあった。
が、まぁ文芸世界には無縁の半世紀人間。この櫓山荘には別の面での思い出がある。小学ワルガキ時代、仲間とこの場所を「怪人二十面相の隠れ家」と信じて探検に出掛けた。境川側から崖をよじ登って到達した櫓山荘洋館はまだ、わずかだが原型をとどめていた。いま思えばサンルーム(当時は小学校にもある温室と思った)のガラスはコナゴナ、まったくの廃墟。でも「確かに怪人二十面相がオル」~ワルガキらは、妙に納得したものだった。
数年前に12期生HPで、RKB毎日による「探検! 九州 小倉高校・日明かいわい」の収録DVDを関東在住者が回し見をしているのを知り、当時の管理人先輩Kさんから無理に借用、むさぼり見た。案内のRKB北九州局白木正四郎アナ、どこかで見た顔と思ったら白木正元旧戸畑市長の息子。それはさておき、DVDにはもちろん、小倉高も登場した。でも半世紀人間が最も注目したのは櫓山荘から南になるが、昔の九州工業高校で現真颯館高校と北小倉小の間の坂道の名称のこと。白木アナらの声は「▼▲タマ坂」と、▼▲部分は音声消去の”不自然な”ものだった。
▼▲タマ坂~実は当時の周辺ワルガキらには有名な坂道の名だが、その場所はこの日まで、真颯館高校わきの西テツ電車道に沿う坂道のことと信じていた。当時、遠足で乗った西テツ電車内でみんなが「▼▲タマ坂、▼▲タマ坂」とはやしたて、先生に怒られた。ところで北小倉小とはいつ出来たのか?~ワルガキ時代、この地は鉄のバールを使って度々ベンケイガニの巣穴を掘り起こし、農家の人に怒られた場所だった。
でも、戸畑区と小倉北区を分ける境川沿い、この中井浜ものがたり~文芸と少年時代の郷愁だけの世界ではない。それは次回に。
~西テツ電車が市街を走る記憶のまま~故郷を離れ半世紀人間の最新情報ネタ元を明かすと「北九州のあれこれ」というHPがその一つ。そのなか「北九州展望」の巻にあるのが櫓山荘跡=小倉北区中井浜だ。「かつてこの櫓山荘には、作家の里見弴、久米正雄、宇野浩二、作曲家の中山晋平、童話作家の久留島武彦など多くの著名人や文化人が訪れ、北九州にサロン文化の花が咲きました」とある。櫓山荘は響灘~いや小倉高流だと~大空涵(ひた)す玄海~に臨む、白砂青松の海辺の高台にあった。
が、まぁ文芸世界には無縁の半世紀人間。この櫓山荘には別の面での思い出がある。小学ワルガキ時代、仲間とこの場所を「怪人二十面相の隠れ家」と信じて探検に出掛けた。境川側から崖をよじ登って到達した櫓山荘洋館はまだ、わずかだが原型をとどめていた。いま思えばサンルーム(当時は小学校にもある温室と思った)のガラスはコナゴナ、まったくの廃墟。でも「確かに怪人二十面相がオル」~ワルガキらは、妙に納得したものだった。
数年前に12期生HPで、RKB毎日による「探検! 九州 小倉高校・日明かいわい」の収録DVDを関東在住者が回し見をしているのを知り、当時の管理人先輩Kさんから無理に借用、むさぼり見た。案内のRKB北九州局白木正四郎アナ、どこかで見た顔と思ったら白木正元旧戸畑市長の息子。それはさておき、DVDにはもちろん、小倉高も登場した。でも半世紀人間が最も注目したのは櫓山荘から南になるが、昔の九州工業高校で現真颯館高校と北小倉小の間の坂道の名称のこと。白木アナらの声は「▼▲タマ坂」と、▼▲部分は音声消去の”不自然な”ものだった。
▼▲タマ坂~実は当時の周辺ワルガキらには有名な坂道の名だが、その場所はこの日まで、真颯館高校わきの西テツ電車道に沿う坂道のことと信じていた。当時、遠足で乗った西テツ電車内でみんなが「▼▲タマ坂、▼▲タマ坂」とはやしたて、先生に怒られた。ところで北小倉小とはいつ出来たのか?~ワルガキ時代、この地は鉄のバールを使って度々ベンケイガニの巣穴を掘り起こし、農家の人に怒られた場所だった。
でも、戸畑区と小倉北区を分ける境川沿い、この中井浜ものがたり~文芸と少年時代の郷愁だけの世界ではない。それは次回に。
2012年2月21日火曜日
北九州放送局に福岡放送局、なにか特別なわけ?
阪東湖人
あるとき、NHKの放送記者と知り合った。彼の駆け出しが京都放送局というので、ふと思い出し、「じゃぁ小峰さんを知っていますか?」と聞いたら、「ハイ、あの方はいま熊本放送局長です」との返事。小峰さんとは~~かの日、英語恐怖症になった愛宕健児も多い(?)あの厳格英語の小峰昇先生、そのご子息のこと。NHKにいるとはかねてより聞いていたし偶然、顔もテレビで知った。
はるか白黒テレビ時代だが、居酒屋隅のブラウン管を見上げると、調理のアブラで汚れた黄色い画面には、とある事件模様を語る京都放送局記者。その名前が「小峰」とあり、あの怖い先生に似た顔。でもご子息の語り口は穏やかだった。
小峰先生の訃報はNHK熊本放送局長の父として、各新聞全国版にほとんどもれなく載った。実際、熊本放送局長はかなりのエライさん。関東でいえば、横浜放送局より甲府放送局の方がエライ例のごとく、四方八方に電波を飛ばすパワーの差からランクが生まれる。
八幡西区に住むM君から聞いた話だが~北海道は別にして、二つのNHK放送局が同県内にあるのは福岡県だけらしい。北九州放送局に福岡放送局、なにか特別なわけがあるのだろう。こんなエピソードも~~韓国でまだテレビ放送が始まる前、かつ日本文化情報ご法度の時代の昭和30年代、日本に近い釜山の富裕層は首都ソウルに先立って皆、日本のテレビを見て楽しんだという。九州から対馬への放送電波が必要以上に強かったから、十分受信できたそうだ。
平成の世となってしばらくの盛夏。明陵関東同窓会の暑気払いが銀座のビヤホールであると聞き、出かけた。会場には先輩のAビール会長もいた。Aビール直営店だった。ビールの話から~世相・テレビの話題となり、アルコールが体内を駆け、いい気分のわたし、「NHK受信料、あんなもの払う必要ないんですよ。払わせたければ外国のように映像画面にジャミングかければいい」と、Aビール会長に話を向けたら笑った。
それから数年後だったか、このAビールの会長がNHK会長に転じたとは皆さんご承知。人生、将来予測は不可能~~というより、いつも浅はかな当方。それにいまやデジタルテレビ時代。ジャミングではなく、画面に丁寧だが押しの強い「登録お願い表示」が出る。あのとき笑ったAビール会長改めNHK会長を思い出しながら、いまや優良視聴者となって久しい。
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