阪東湖人
~西テツ電車が市街を走る記憶のまま~故郷を離れ半世紀人間の最新情報ネタ元を明かすと「北九州のあれこれ」というHPがその一つ。そのなか「北九州展望」の巻にあるのが櫓山荘跡=小倉北区中井浜だ。「かつてこの櫓山荘には、作家の里見弴、久米正雄、宇野浩二、作曲家の中山晋平、童話作家の久留島武彦など多くの著名人や文化人が訪れ、北九州にサロン文化の花が咲きました」とある。櫓山荘は響灘~いや小倉高流だと~大空涵(ひた)す玄海~に臨む、白砂青松の海辺の高台にあった。
が、まぁ文芸世界には無縁の半世紀人間。この櫓山荘には別の面での思い出がある。小学ワルガキ時代、仲間とこの場所を「怪人二十面相の隠れ家」と信じて探検に出掛けた。境川側から崖をよじ登って到達した櫓山荘洋館はまだ、わずかだが原型をとどめていた。いま思えばサンルーム(当時は小学校にもある温室と思った)のガラスはコナゴナ、まったくの廃墟。でも「確かに怪人二十面相がオル」~ワルガキらは、妙に納得したものだった。
数年前に12期生HPで、RKB毎日による「探検! 九州 小倉高校・日明かいわい」の収録DVDを関東在住者が回し見をしているのを知り、当時の管理人先輩Kさんから無理に借用、むさぼり見た。案内のRKB北九州局白木正四郎アナ、どこかで見た顔と思ったら白木正元旧戸畑市長の息子。それはさておき、DVDにはもちろん、小倉高も登場した。でも半世紀人間が最も注目したのは櫓山荘から南になるが、昔の九州工業高校で現真颯館高校と北小倉小の間の坂道の名称のこと。白木アナらの声は「▼▲タマ坂」と、▼▲部分は音声消去の”不自然な”ものだった。
▼▲タマ坂~実は当時の周辺ワルガキらには有名な坂道の名だが、その場所はこの日まで、真颯館高校わきの西テツ電車道に沿う坂道のことと信じていた。当時、遠足で乗った西テツ電車内でみんなが「▼▲タマ坂、▼▲タマ坂」とはやしたて、先生に怒られた。ところで北小倉小とはいつ出来たのか?~ワルガキ時代、この地は鉄のバールを使って度々ベンケイガニの巣穴を掘り起こし、農家の人に怒られた場所だった。
でも、戸畑区と小倉北区を分ける境川沿い、この中井浜ものがたり~文芸と少年時代の郷愁だけの世界ではない。それは次回に。
2012年2月23日木曜日
2012年2月21日火曜日
北九州放送局に福岡放送局、なにか特別なわけ?
阪東湖人
あるとき、NHKの放送記者と知り合った。彼の駆け出しが京都放送局というので、ふと思い出し、「じゃぁ小峰さんを知っていますか?」と聞いたら、「ハイ、あの方はいま熊本放送局長です」との返事。小峰さんとは~~かの日、英語恐怖症になった愛宕健児も多い(?)あの厳格英語の小峰昇先生、そのご子息のこと。NHKにいるとはかねてより聞いていたし偶然、顔もテレビで知った。
はるか白黒テレビ時代だが、居酒屋隅のブラウン管を見上げると、調理のアブラで汚れた黄色い画面には、とある事件模様を語る京都放送局記者。その名前が「小峰」とあり、あの怖い先生に似た顔。でもご子息の語り口は穏やかだった。
小峰先生の訃報はNHK熊本放送局長の父として、各新聞全国版にほとんどもれなく載った。実際、熊本放送局長はかなりのエライさん。関東でいえば、横浜放送局より甲府放送局の方がエライ例のごとく、四方八方に電波を飛ばすパワーの差からランクが生まれる。
八幡西区に住むM君から聞いた話だが~北海道は別にして、二つのNHK放送局が同県内にあるのは福岡県だけらしい。北九州放送局に福岡放送局、なにか特別なわけがあるのだろう。こんなエピソードも~~韓国でまだテレビ放送が始まる前、かつ日本文化情報ご法度の時代の昭和30年代、日本に近い釜山の富裕層は首都ソウルに先立って皆、日本のテレビを見て楽しんだという。九州から対馬への放送電波が必要以上に強かったから、十分受信できたそうだ。
平成の世となってしばらくの盛夏。明陵関東同窓会の暑気払いが銀座のビヤホールであると聞き、出かけた。会場には先輩のAビール会長もいた。Aビール直営店だった。ビールの話から~世相・テレビの話題となり、アルコールが体内を駆け、いい気分のわたし、「NHK受信料、あんなもの払う必要ないんですよ。払わせたければ外国のように映像画面にジャミングかければいい」と、Aビール会長に話を向けたら笑った。
それから数年後だったか、このAビールの会長がNHK会長に転じたとは皆さんご承知。人生、将来予測は不可能~~というより、いつも浅はかな当方。それにいまやデジタルテレビ時代。ジャミングではなく、画面に丁寧だが押しの強い「登録お願い表示」が出る。あのとき笑ったAビール会長改めNHK会長を思い出しながら、いまや優良視聴者となって久しい。
2012年2月16日木曜日
来年は「半世紀後の東京修学旅行のようなもんだなぁ」
阪東 湖人
ふと思い出した。あのころ、北部九州の高校はみな東京修学旅行だった。おまけに、お隣八幡高校の修学旅行日程の一部は湘南の江ノ島・鎌倉。東京では国会議事堂を背に地元代議士を中心に「ハーイ、パチリ」のオマケつき。われら来年の記念同窓会での関東大集合、なにやら「小倉高は京に奈良だったから、まぁ半世紀後の仕切り直し、老年東京修学旅行のようなもんだなぁ」という声すら聞こえる。
その湘南、三浦半島の一部葉山から続く相模湾一帯を呼ぶとはだれでも知っている。冬の風は実は相当強いが、首都圏の他の地よりはるか温暖なのがウリ。「藤沢が主のような顔をしているけどなぁ~」と不満タラタラだったのは、かつてのれんをくぐった平塚の小料理屋の大将。大将によれば当然、平塚こそ湘南の中心。実際そんな時代もあった。
でも、あの映画「太陽の季節」に「狂った果実」で裕次郎が活躍、その主な舞台は葉山、逗子、鎌倉とあれば~~それに藤沢・江ノ島が東京五輪でヨット基地として脚光を浴びて以来、こっちが主役。こうした三浦半島と湘南の温暖な気候は単純明快な人々を生む。「イラクの戦闘地域と非戦闘地域 ?~そんなことわたしに聞いても分かる訳ないじゃないの!」~~そんな国会答弁の総理大臣も近年、三浦半島から。また「フランス語は数を勘定できない言葉」なんて物議をかもした東京都の現最高指導者も湘南出身だ。
これは単純明快かどうか~~昨年夏に湘南の藤沢市でマンガのような騒ぎが~~市役所内で火災報知機のスイッチ切り、煙モウモウのバーべキュー~~この職員懇親パーティにはなんと藤沢市長(当時)も出席。でも切ったはずの報知機にモレがあり、非常ベルが鳴り続けた。消防本部は関係者を厳重注意処分にしたが、一昨年にはこの消防本部も一緒にバーベキュー。今年は招待されなかった消防本部の「しっぺ返し」くさい話だ。まさにこれこそ三浦半島から続く湘南気質。
付け加えると、バーベキュー市長は別の問題が尾を引き、最近落選した。
かつて藤沢駅前に何かの飾り、「We are Shonanian!」の大横断幕が電車からも見えた。ハワイアンからの連想か。あれ「Shonanese」じゃないのかナ。でも、なにこれしき。かつて国際港横浜大桟橋近くにWell Come の大看板。名古屋城ではガイジンさんらが笑いながら記念撮影の足元。オーストラリア観光客のオヤジが地面を指差す先には「足元注意!」 Foot Notice! 名古屋市教委とあった。ウーン、Foot Note なら「脚注」だろうが~~。ともあれ、英語かぶれと単純明快さは気楽。
春遠からじと言えど、当方の大利根・阪東の地は日々の寒さが身にこたえる。都内通勤時、常磐線は地下鉄千代田線に乗り入れ都心を貫通する利便さだったが~~いずれ暖かい三浦半島に隠遁しようかと考える日々だ。
ふと思い出した。あのころ、北部九州の高校はみな東京修学旅行だった。おまけに、お隣八幡高校の修学旅行日程の一部は湘南の江ノ島・鎌倉。東京では国会議事堂を背に地元代議士を中心に「ハーイ、パチリ」のオマケつき。われら来年の記念同窓会での関東大集合、なにやら「小倉高は京に奈良だったから、まぁ半世紀後の仕切り直し、老年東京修学旅行のようなもんだなぁ」という声すら聞こえる。
その湘南、三浦半島の一部葉山から続く相模湾一帯を呼ぶとはだれでも知っている。冬の風は実は相当強いが、首都圏の他の地よりはるか温暖なのがウリ。「藤沢が主のような顔をしているけどなぁ~」と不満タラタラだったのは、かつてのれんをくぐった平塚の小料理屋の大将。大将によれば当然、平塚こそ湘南の中心。実際そんな時代もあった。
でも、あの映画「太陽の季節」に「狂った果実」で裕次郎が活躍、その主な舞台は葉山、逗子、鎌倉とあれば~~それに藤沢・江ノ島が東京五輪でヨット基地として脚光を浴びて以来、こっちが主役。こうした三浦半島と湘南の温暖な気候は単純明快な人々を生む。「イラクの戦闘地域と非戦闘地域 ?~そんなことわたしに聞いても分かる訳ないじゃないの!」~~そんな国会答弁の総理大臣も近年、三浦半島から。また「フランス語は数を勘定できない言葉」なんて物議をかもした東京都の現最高指導者も湘南出身だ。
これは単純明快かどうか~~昨年夏に湘南の藤沢市でマンガのような騒ぎが~~市役所内で火災報知機のスイッチ切り、煙モウモウのバーべキュー~~この職員懇親パーティにはなんと藤沢市長(当時)も出席。でも切ったはずの報知機にモレがあり、非常ベルが鳴り続けた。消防本部は関係者を厳重注意処分にしたが、一昨年にはこの消防本部も一緒にバーベキュー。今年は招待されなかった消防本部の「しっぺ返し」くさい話だ。まさにこれこそ三浦半島から続く湘南気質。
付け加えると、バーベキュー市長は別の問題が尾を引き、最近落選した。
かつて藤沢駅前に何かの飾り、「We are Shonanian!」の大横断幕が電車からも見えた。ハワイアンからの連想か。あれ「Shonanese」じゃないのかナ。でも、なにこれしき。かつて国際港横浜大桟橋近くにWell Come の大看板。名古屋城ではガイジンさんらが笑いながら記念撮影の足元。オーストラリア観光客のオヤジが地面を指差す先には「足元注意!」 Foot Notice! 名古屋市教委とあった。ウーン、Foot Note なら「脚注」だろうが~~。ともあれ、英語かぶれと単純明快さは気楽。
春遠からじと言えど、当方の大利根・阪東の地は日々の寒さが身にこたえる。都内通勤時、常磐線は地下鉄千代田線に乗り入れ都心を貫通する利便さだったが~~いずれ暖かい三浦半島に隠遁しようかと考える日々だ。
2012年2月4日土曜日
まぶしかった遠い日 中間にある埴生公園の思い出
阪東 湖人
東筑高校の”門前町”という表現が適切か、折尾駅周辺の連続立体交差事業が進められていると聞いた。平成31年度までに完了予定とか。明治24年に日本初の立体交差駅となった折尾駅。現状の筑豊本線が地上ホーム、鹿児島本線が二階ホームで交差するさまが一変し、鹿児島本線、筑豊本線、短絡線ホームのいずれもが並んで高架化される。九カ所の踏切がなくなり、駅周辺はすっかり生まれ変わるという。
その折尾駅で思い出すのは遠い昔、 小学生の日曜日。父親が突然「埴生公園に行こう」とわたしを連れ出した。八幡、黒崎と過ぎ、折尾駅で乗り換えた。この日本で初の二階建て交差駅は小学生には興味津々。乗り換えた筑豊本線は中間町(当時)にある筑前埴生駅で降りた。すぐそばの公園、それが埴生公園だった。大きな池を取り囲む柳だったか、水面に映える緑がまぶしかった。初夏だったと思う。
埴生公園にベンチがあったかどうかは忘れたが、そこにもう一つのまぶしい光景が出現した。30歳半ばかの女性が待っていた。父親がその女性に「この子だ」と言った。さらに「このおばさんと話がある」と、二人はそばの料理屋に消えた。小学生のわたしはひとり一時間近く公園で遊び、やがて父親が現れたが、その女性はもういなかった。父と子は、また折尾駅経由で帰宅した。ただ小学生の関心ごとで母親には「折尾駅と公園に行った」とだけを伝えた記憶だ。
そのときの父親の年齢をはるかに超え、老域に達したいま~~週刊こどもニュース「そうだったのか!」の池上某ではないが~~ハタとひざを叩かんばかり、当時の父親の行動を理解できた。不器用な男ではあったが、そんな大そうな冒険もあったのか、と。
われら男の子それぞれに「わが青春のマリアンヌ」の鮮烈な思い出を持つはず。再び会うことのないそのマリアンヌを生涯忘れない一方、妙齢のご婦人に心を奪われることも、これまた生涯、何度かあろう。そんななか遠い日、まぶしかった埴生公園と父親のあの冒険を思い出した。
------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
ところでこれまでの一連の雑文に「又か」と眉をひそめる御仁も多いと思います。どうぞ、賛成、反対、ああでもない、こうでもない~「バカヤローもうやめろ!」~を含め、ブログにご参加を。
2012年1月29日日曜日
廃業したあのN書店は小笠原藩御用の老舗だったが
阪東 湖人
昭和32年、早春の話である。戸畑市教委事務局に勤める年長のイトコに連れられ、小倉市内の「N書店」を探しに行った。~N書店といっても魚町銀天街にあったカタカナ綴りのN書店ではない。それはあとで書く~
小倉市の中学で使う教科書を買うためだった。有体に言えば越境入学の苦肉の策。イトコは教委勤めの立場で、小倉では古くからあるN書店が教科書取扱い本舗と聞いたらしい。街で出会う人ごとに二人で尋ねながら、ようやく探し当てた場所は旧武家屋敷によくある瓦を積んだ土塀、それも崩れかけたような場所だった。そこに確かに書店の看板。でも廃業していた。古い店内を覗くと、ひと気はないが、それでもまだ幾分書籍が並び、積んであった。現代風でない和式の構え。のちに聞いた話だとN書店は小笠原藩御用の老舗だったという。
結果的にはヤレヤレ、その中学教科書、小倉市内の一般書店で購入が可能だった。N書店の場所はどこだったのか、当時、土塀はまだ城下町の名残で小倉の各所に。思えば現紺屋町あたりではないか。門司の毎日新聞西部本社が紺屋町に移ってくる前で、戦後が色濃く、まださびしい家並みだった。「N」という少女歌手がテレビで有名になったのはそれから10年近くたってからか。附属小に通ったこのN書店の娘は店の廃業後、一家で上京したこと、今ではダレでも知っている。附属の東京同窓会にも一度出席したという話も聞いた。
前置きは長いが、書店の「N」という苗字は、実は遠く岐阜、愛知の木曽、長良、揖斐川の三大河川沿いに圧倒的に多い。会社の先輩に中学、小倉高同級生と一字違いのN光昭という人物がいた。この先輩も名古屋周辺出身。また河川沿いに圧倒的に多いのは、先祖が川魚漁師、鵜飼いに関わる生業だったのではないかと思う。山梨選出代議士ながら、はるか遠き、若松築港会社の汚職事件で全国区登場のN氏、また千葉・木更津出身の現グルメ俳優Nと、いずれも悪役で名を馳せたが、彼らの地元も歴史的に鮎漁の盛んな地域だった。
一方で「N」という苗字は、旧豊前企救郡の板櫃地域にもポツポツ点在する。小倉高先輩、後輩にも見られる。先祖が川魚漁師、鵜飼いに関わる生業とは、紫川では鵜飼い漁が昭和30年代でも観光行事だったし、かつてはおそらく板櫃川、遠賀川でも鵜飼い漁があったと思われることとも合致する。中間市の遠賀川に近い地域にも「N」という職能集団のような地名がある。そして北九州では板櫃支流の槻田(金山)川沿いにも同じく「N」という地名。旧八幡製鉄の社宅で開発される前、ここは川魚漁どころか、タケノコを掘る山だったが~。
ところでもう一方の魚町銀天街のN書店には良い思い出がない。創刊間もない朝日ジャーナル綴込専用バインダーを、少年のマニアックさで5冊注文、一週間後に求めに行くと、レジ奥から経営者の奥方の声が聞こえた。「一冊だけ渡しなさい。残りは△△サンからも注文があるから取っといて!」。店員もわたしに、「残りの入荷は未定」と、これも手馴れた客扱い。まだ若輩、苦情を言うことも出来なかった。ただその不快さから、再びこの店を利用することはしなかった。のちに見た同窓会名簿に、この商売人然とした奥方の息子が小倉高後輩として載っていたのは、実に複雑ではあった。この銀天街N書店も数年前、閉店に追い込まれたという。それを知ったのはごく最近だ。時代の流れか。半世紀前の小笠原藩御用の老舗N書店と、その閉店模様をまた思い出した。
昭和32年、早春の話である。戸畑市教委事務局に勤める年長のイトコに連れられ、小倉市内の「N書店」を探しに行った。~N書店といっても魚町銀天街にあったカタカナ綴りのN書店ではない。それはあとで書く~
小倉市の中学で使う教科書を買うためだった。有体に言えば越境入学の苦肉の策。イトコは教委勤めの立場で、小倉では古くからあるN書店が教科書取扱い本舗と聞いたらしい。街で出会う人ごとに二人で尋ねながら、ようやく探し当てた場所は旧武家屋敷によくある瓦を積んだ土塀、それも崩れかけたような場所だった。そこに確かに書店の看板。でも廃業していた。古い店内を覗くと、ひと気はないが、それでもまだ幾分書籍が並び、積んであった。現代風でない和式の構え。のちに聞いた話だとN書店は小笠原藩御用の老舗だったという。
結果的にはヤレヤレ、その中学教科書、小倉市内の一般書店で購入が可能だった。N書店の場所はどこだったのか、当時、土塀はまだ城下町の名残で小倉の各所に。思えば現紺屋町あたりではないか。門司の毎日新聞西部本社が紺屋町に移ってくる前で、戦後が色濃く、まださびしい家並みだった。「N」という少女歌手がテレビで有名になったのはそれから10年近くたってからか。附属小に通ったこのN書店の娘は店の廃業後、一家で上京したこと、今ではダレでも知っている。附属の東京同窓会にも一度出席したという話も聞いた。
前置きは長いが、書店の「N」という苗字は、実は遠く岐阜、愛知の木曽、長良、揖斐川の三大河川沿いに圧倒的に多い。会社の先輩に中学、小倉高同級生と一字違いのN光昭という人物がいた。この先輩も名古屋周辺出身。また河川沿いに圧倒的に多いのは、先祖が川魚漁師、鵜飼いに関わる生業だったのではないかと思う。山梨選出代議士ながら、はるか遠き、若松築港会社の汚職事件で全国区登場のN氏、また千葉・木更津出身の現グルメ俳優Nと、いずれも悪役で名を馳せたが、彼らの地元も歴史的に鮎漁の盛んな地域だった。
一方で「N」という苗字は、旧豊前企救郡の板櫃地域にもポツポツ点在する。小倉高先輩、後輩にも見られる。先祖が川魚漁師、鵜飼いに関わる生業とは、紫川では鵜飼い漁が昭和30年代でも観光行事だったし、かつてはおそらく板櫃川、遠賀川でも鵜飼い漁があったと思われることとも合致する。中間市の遠賀川に近い地域にも「N」という職能集団のような地名がある。そして北九州では板櫃支流の槻田(金山)川沿いにも同じく「N」という地名。旧八幡製鉄の社宅で開発される前、ここは川魚漁どころか、タケノコを掘る山だったが~。
ところでもう一方の魚町銀天街のN書店には良い思い出がない。創刊間もない朝日ジャーナル綴込専用バインダーを、少年のマニアックさで5冊注文、一週間後に求めに行くと、レジ奥から経営者の奥方の声が聞こえた。「一冊だけ渡しなさい。残りは△△サンからも注文があるから取っといて!」。店員もわたしに、「残りの入荷は未定」と、これも手馴れた客扱い。まだ若輩、苦情を言うことも出来なかった。ただその不快さから、再びこの店を利用することはしなかった。のちに見た同窓会名簿に、この商売人然とした奥方の息子が小倉高後輩として載っていたのは、実に複雑ではあった。この銀天街N書店も数年前、閉店に追い込まれたという。それを知ったのはごく最近だ。時代の流れか。半世紀前の小笠原藩御用の老舗N書店と、その閉店模様をまた思い出した。
2012年1月22日日曜日
大寒のおおごと彼我 中華旧正月「春節」に沸く新茄坡
阪東 湖人
アナログ老人に大寒の底冷えは、おおごと。そんな折に南洋旅行をしたかつての同業他社後輩から報告メールがきた~~~「気温28度、春節に沸く新茄坡から、氷雨の帝都に戻って参りました。もっとも、かの地に置いては、冷房の寒さとの戦い、セーターの手放せない毎日でもありました。~~~(中略)~~~ご紹介頂いた『NR坂先生』に歓待していただき、豪勢な中華料理をごちそうになったうえに広大なキャンパスを見せてもらいました。いろいろと勉強になるお話もうかがうことができました(後略)」~~~。
上記文中の新茄坡はシンガポール、同期生で南洋工科大教授NR坂先生とはお分かりですね。パリ、ニューヨーク、それにこのシンガポールは駐在員泣かせ、日本からの個人的お客の多いことで有名。八幡西区在住のF君もNR坂先生を訪問したと聞いたなぁ。また「30年余前の高校恩師がひょっこりたずねてきた」とは、パリ駐在員の話。NR坂先生のもとにも、私の紹介のような迷惑客が多いのかもしれない、ごめんなさい。
ところで南洋の豪勢な中華料理で思い出す。かつてシンガポールで、日本生まれの李老人にご馳走になったこと。「日本人はフカヒレばかり珍重するが、大陸中国では海の魚、それも白身のカレイ、ヒラメなど魚料理が一番なんですよ」と、大学時代まで日本にいた李老人、両親は華僑だった。また華僑の実業家や14期生のI氏から聞いたが、日本でのフカヒレの多くが人工もの。インドネシア・バリ島では、海草類その他から製造しているらしい。
そういえば若い頃だが、大寒の底冷えのこのころ、冬着で成田、シンガポール半そで、フランクフルト防寒具というおおごとの出張があった。でもあのセクシーな制服のシンガポール航空アテンダントのおねえさんたち、フランクフルト空港での乗客見送りには高級な毛皮コートをまとう、博多弁で言えば”艶な”格好。おまけに乗り換えたルフトハンザの金髪アテンダントはノーブラでドキドキしたこと忘れない。
出張の帰りも、この南回りで欧州からシンガポールに入国したらさぁ大変、フリーパスのはずの税関検査でおおごと。乗客全員の荷物、徹底的に調べ上げられた。前にいたオーストラリアに戻るオバサン、スーツケース内の下着をかき回され、大声で抗議するが係官は無言で続行。後で知らされたが、麻薬密輸の情報がタレこまれたからだという。
でもそれより前のシンガポール初旅行の際は、オノボリサン風背広上下姿の私に税関係官全員が挙手敬礼。当時シンガポール政府の閣僚の多くが30歳台だったから間違えられたのかとも。インドでは「オマエはマレージアンチャイニーズか?」と問われたし、台湾経由フィリピンに向かう当時の中華航空では、前後客には英語で話すアテンダントも私の前に来ると、ヤッパ中国東北部生まれへのシグナルか、当然のようにマンダリン(北京官話)で困った。
大寒のおおごと、最後は~~~アナクロ老人の、なんか過去の自慢話みたいですみません。
アナログ老人に大寒の底冷えは、おおごと。そんな折に南洋旅行をしたかつての同業他社後輩から報告メールがきた~~~「気温28度、春節に沸く新茄坡から、氷雨の帝都に戻って参りました。もっとも、かの地に置いては、冷房の寒さとの戦い、セーターの手放せない毎日でもありました。~~~(中略)~~~ご紹介頂いた『NR坂先生』に歓待していただき、豪勢な中華料理をごちそうになったうえに広大なキャンパスを見せてもらいました。いろいろと勉強になるお話もうかがうことができました(後略)」~~~。
上記文中の新茄坡はシンガポール、同期生で南洋工科大教授NR坂先生とはお分かりですね。パリ、ニューヨーク、それにこのシンガポールは駐在員泣かせ、日本からの個人的お客の多いことで有名。八幡西区在住のF君もNR坂先生を訪問したと聞いたなぁ。また「30年余前の高校恩師がひょっこりたずねてきた」とは、パリ駐在員の話。NR坂先生のもとにも、私の紹介のような迷惑客が多いのかもしれない、ごめんなさい。
ところで南洋の豪勢な中華料理で思い出す。かつてシンガポールで、日本生まれの李老人にご馳走になったこと。「日本人はフカヒレばかり珍重するが、大陸中国では海の魚、それも白身のカレイ、ヒラメなど魚料理が一番なんですよ」と、大学時代まで日本にいた李老人、両親は華僑だった。また華僑の実業家や14期生のI氏から聞いたが、日本でのフカヒレの多くが人工もの。インドネシア・バリ島では、海草類その他から製造しているらしい。
そういえば若い頃だが、大寒の底冷えのこのころ、冬着で成田、シンガポール半そで、フランクフルト防寒具というおおごとの出張があった。でもあのセクシーな制服のシンガポール航空アテンダントのおねえさんたち、フランクフルト空港での乗客見送りには高級な毛皮コートをまとう、博多弁で言えば”艶な”格好。おまけに乗り換えたルフトハンザの金髪アテンダントはノーブラでドキドキしたこと忘れない。
出張の帰りも、この南回りで欧州からシンガポールに入国したらさぁ大変、フリーパスのはずの税関検査でおおごと。乗客全員の荷物、徹底的に調べ上げられた。前にいたオーストラリアに戻るオバサン、スーツケース内の下着をかき回され、大声で抗議するが係官は無言で続行。後で知らされたが、麻薬密輸の情報がタレこまれたからだという。
でもそれより前のシンガポール初旅行の際は、オノボリサン風背広上下姿の私に税関係官全員が挙手敬礼。当時シンガポール政府の閣僚の多くが30歳台だったから間違えられたのかとも。インドでは「オマエはマレージアンチャイニーズか?」と問われたし、台湾経由フィリピンに向かう当時の中華航空では、前後客には英語で話すアテンダントも私の前に来ると、ヤッパ中国東北部生まれへのシグナルか、当然のようにマンダリン(北京官話)で困った。
大寒のおおごと、最後は~~~アナクロ老人の、なんか過去の自慢話みたいですみません。
2012年1月15日日曜日
松竹映画「秋刀魚の味」テレビ放映のあとに来たもの
昨年のこと、懐かしい小津安二郎遺作の松竹映画「秋刀魚の味」のテレビ放映がきっかけで、地元に40年以上続くトンカツ専門店を発見、この店も小津監督お気に入りサッポロビールであることから感激、週2回のペースで独り通い続けておりました。秋刀魚の味の一シーンとは、佐田啓二が同僚と東京上野広小路裏の名物トンカツ屋「蓬莱屋」とおぼしき店の二階で、サッポロビールを飲みながらトンカツを食べる場面のこと。
そこに衝撃的知らせ、先ごろ受けた人間ドックでの検査詳細報告が届いたのです。「今後飲み続けると肝臓がフォアグラになるよ」というもの。この重い知らせで酒はキッパリやめ、歌舞音曲の類や宴席の誘いは断り、ホテルロビーでコーヒー(お代わり自由だから)を飲む程度、チーズケーキ片を手に雑談悪口、いや清談を健康法にと決断、実行しました。
さらに追い討ちも。ある清談会合の帰途の夜間車両に冷気が流れ込んだ際、突如めまいから、意識もうろうの脳梗塞(?)”臨界体験”をする始末。これは何かの啓示か教示と理解。それ以後、夜間外出も控えることにしました。
わたしには酒乱系DNAとともに、まったく酒を受け付けない血筋もあります。一代で財を成した故伯父は一滴も飲めない人で、会うたびに配偶者は違う女性でした。いまさらその才にならうには遅すぎるが、酒をやめることだけは出来ました。また病歴自慢の業界先輩から、「コーヒーにチーズケーキなんて、そりゃダメ。出がらしのお茶に、黒豆センベイにしなさい」とありがたい忠告もありました。でもなんかわびしいですねぇ。
そんな折、関西支部新年会のご案内、平成24年1月14日(土曜日)「スーパードライ梅田」は、実にまぶしく見えましたぞ。 (阪東湖人)
登録:
投稿 (Atom)