2012年1月22日日曜日

大寒のおおごと彼我 中華旧正月「春節」に沸く新茄坡

                                                                                                                            阪東 湖人
                                                           

  アナログ老人に大寒の底冷えは、おおごと。そんな折に南洋旅行をしたかつての同業他社後輩から報告メールがきた~~~「気温28度、春節に沸く新茄坡から、氷雨の帝都に戻って参りました。もっとも、かの地に置いては、冷房の寒さとの戦い、セーターの手放せない毎日でもありました。~~~(中略)~~~ご紹介頂いた『NR坂先生』に歓待していただき、豪勢な中華料理をごちそうになったうえに広大なキャンパスを見せてもらいました。いろいろと勉強になるお話もうかがうことができました(後略)」~~~。

 上記文中の新茄坡はシンガポール、同期生で南洋工科大教授NR坂先生とはお分かりですね。パリ、ニューヨーク、それにこのシンガポールは駐在員泣かせ、日本からの個人的お客の多いことで有名。八幡西区在住のF君もNR坂先生を訪問したと聞いたなぁ。また「30年余前の高校恩師がひょっこりたずねてきた」とは、パリ駐在員の話。NR坂先生のもとにも、私の紹介のような迷惑客が多いのかもしれない、ごめんなさい。

 ところで南洋の豪勢な中華料理で思い出す。かつてシンガポールで、日本生まれの李老人にご馳走になったこと。「日本人はフカヒレばかり珍重するが、大陸中国では海の魚、それも白身のカレイ、ヒラメなど魚料理が一番なんですよ」と、大学時代まで日本にいた李老人、両親は華僑だった。また華僑の実業家や14期生のI氏から聞いたが、日本でのフカヒレの多くが人工もの。インドネシア・バリ島では、海草類その他から製造しているらしい。

 そういえば若い頃だが、大寒の底冷えのこのころ、冬着で成田、シンガポール半そで、フランクフルト防寒具というおおごとの出張があった。でもあのセクシーな制服のシンガポール航空アテンダントのおねえさんたち、フランクフルト空港での乗客見送りには高級な毛皮コートをまとう、博多弁で言えば”艶な”格好。おまけに乗り換えたルフトハンザの金髪アテンダントはノーブラでドキドキしたこと忘れない。

 出張の帰りも、この南回りで欧州からシンガポールに入国したらさぁ大変、フリーパスのはずの税関検査でおおごと。乗客全員の荷物、徹底的に調べ上げられた。前にいたオーストラリアに戻るオバサン、スーツケース内の下着をかき回され、大声で抗議するが係官は無言で続行。後で知らされたが、麻薬密輸の情報がタレこまれたからだという。

 でもそれより前のシンガポール初旅行の際は、オノボリサン風背広上下姿の私に税関係官全員が挙手敬礼。当時シンガポール政府の閣僚の多くが30歳台だったから間違えられたのかとも。インドでは「オマエはマレージアンチャイニーズか?」と問われたし、台湾経由フィリピンに向かう当時の中華航空では、前後客には英語で話すアテンダントも私の前に来ると、ヤッパ中国東北部生まれへのシグナルか、当然のようにマンダリン(北京官話)で困った。
       大寒のおおごと、最後は~~~アナクロ老人の、なんか過去の自慢話みたいですみません。

2012年1月15日日曜日

松竹映画「秋刀魚の味」テレビ放映のあとに来たもの

  昨年のこと、懐かしい小津安二郎遺作の松竹映画「秋刀魚の味」のテレビ放映がきっかけで、地元に40年以上続くトンカツ専門店を発見、この店も小津監督お気に入りサッポロビールであることから感激、週2回のペースで独り通い続けておりました。秋刀魚の味の一シーンとは、佐田啓二が同僚と東京上野広小路裏の名物トンカツ屋「蓬莱屋」とおぼしき店の二階で、サッポロビールを飲みながらトンカツを食べる場面のこと。

  そこに衝撃的知らせ、先ごろ受けた人間ドックでの検査詳細報告が届いたのです。「今後飲み続けると肝臓がフォアグラになるよ」というもの。この重い知らせで酒はキッパリやめ、歌舞音曲の類や宴席の誘いは断り、ホテルロビーでコーヒー(お代わり自由だから)を飲む程度、チーズケーキ片を手に雑談悪口、いや清談を健康法にと決断、実行しました。

  さらに追い討ちも。ある清談会合の帰途の夜間車両に冷気が流れ込んだ際、突如めまいから、意識もうろうの脳梗塞(?)”臨界体験”をする始末。これは何かの啓示か教示と理解。それ以後、夜間外出も控えることにしました。

  わたしには酒乱系DNAとともに、まったく酒を受け付けない血筋もあります。一代で財を成した故伯父は一滴も飲めない人で、会うたびに配偶者は違う女性でした。いまさらその才にならうには遅すぎるが、酒をやめることだけは出来ました。また病歴自慢の業界先輩から、「コーヒーにチーズケーキなんて、そりゃダメ。出がらしのお茶に、黒豆センベイにしなさい」とありがたい忠告もありました。でもなんかわびしいですねぇ。

  そんな折、関西支部新年会のご案内、平成24年1月14日(土曜日)「スーパードライ梅田」は、実にまぶしく見えましたぞ。 (阪東湖人)

2012年1月3日火曜日

歴史ある板櫃川と旧板櫃町にある母校をもっと認識すべし

阪東 湖人


 新年早々、アナログ老のかんしゃく。旧小倉中校歌「~麓をめぐる紫のゆかりの色のなつかしき~~」とか、小倉高逍遥歌「~紺青清き紫の流れは永久に絶えずして~」とか、紫川ばかり称え、なぜか学園のそばを流れる板櫃川を無視する~~東筑高でさえ、あの汚いドブ川堀川(運河)をシンボルにしているのに~~という疑問というか、憤りがある。この一節、かつて明陵関東同窓会HPにほんの一部書いたが、消えてもうない。これを再び15期HPに絞り訴える。板櫃川の古戦場は歴史にも登場する。「紫川にはそんなものないだろうが~」と年甲斐もなく悪態つけば、いまや紫川流域は小倉北区ナイルデルタ状の繁栄ぶりという現実が抵抗勢力か。同期生も多く住んでいるから「数による異論」も出ようが~~
 
 私事だが、わがルーツの半分はこの板櫃川上流の金山川(槻田川)脇の八幡東区中尾町。またもう一つの支流大蔵川脇の同大蔵が父祖の地。だから感情的になる。あえて現槻田川を金山川と記すのも、源流に金鉱があった歴史を示すものだから。また板櫃川は戦前の改修前には日豊本線沿い菜園場を流れていたそうだが、それにしても小倉中学時代から、最も目に付く自然は板櫃川であったろうに。それどころか、現小倉高校も旧板櫃町の地に厳としてある。同期生で現在は八幡西区に住むM君は、企救郡板櫃町の調査研究を続けている。最近になっては松本清張記念館の年譜にある記述について、清張は小倉市立ではなく「板櫃町立の板櫃尋常高等小学校卒」と訂正させた。M君は新日鉄技師OBだが、中高時代から内外情勢・文系知識も抜群だった。
 
 その板櫃町は大正11年から14年まで、この短い間だけ存在し、大部分は小倉市に併合され、残りのわずか一部は八幡市に属する道を選んだ~~これも実はM君から教えられた。M君は新日鉄での関西、関東勤務を除けば、幼児時代から現役引退までのほとんどを、旧板櫃町地域で過ごしたという。わたし自身も考えてみればルーツ半分の中尾町、それに大蔵周辺は、筑前遠賀郡八幡町大蔵と豊前企救郡板櫃町とのグレーゾーン。さらに、疎遠となった親族を思い起こしてみると、そのほとんどが旧板櫃町エリアに住んでいた。わたしは遠路ながらも濃厚な板櫃町縁者というか、準末えいということになる。
 
 ところで関東、東北は元日の午後にも地震に襲われた。半世紀前の北九州、地震はほとんど体験なし。これもM君の話だが、皿倉山系から洞海湾域の岩盤層は実に安定したものという。思い出すのは祖母が幼少時、明治の話。一面アシの茂る洞海での製鉄所建設の様子を友達と見たという。葦原の地下の地盤が強固ならば、千葉・手賀沼の葦原沿いのわが身も地震に安全か~と脱線。祖母はこうも言った。(大正の)「河内貯水池の建設時には、来る日も来る日もセメン袋を山と積んだ貨物自動車が延々(板櫃川上流の)大蔵川沿い山道をじゅずつなぎで走り、天地が揺れた」と。先人たちは皿倉山系の地質・土木環境を十分計測、近代日本の礎となる産業設備を築いた。かつて九州鉄道も板櫃川沿いを走った。この地質・土木環境に、先進の工場群と多数の学園。実に板櫃川沖積流域に近代化のめぐみをもたらしたのだ。旧板櫃町と板櫃川の要にある母校。流域の歴史を大事にしようではないか。

2011年11月26日土曜日

「私と同じ世俗・即物的な同僚も、川原田徹展を食い入るように見た~」

阪東湖人 



 最初にトーナス・カボチャラダムスの個展を見たのは、もう30年近く前か、東京池袋の西武デパートでだった。当時はまだ川原田徹展というような感じだったと記憶する。世俗・即物的な私には場違いだが、これは同期女性Sさんから強く薦められてのことだった。ところが意外なことにその展示会場に、勤務先でこれまた世俗・即物的な同僚、それも技術系で日頃、芸術に縁のないと思われる男がいたことだった。この同僚、「ウン、ウン」とうなずきながら、川原田画伯の作品を食い入るように見ていたのだ。~~人は他人には見えない何かの心情を抱えている、また才能もあるもんだ~~以来、彼への評価を変えた。

 その後の川原田徹展は銀座だった。小倉同期ホテルマンM君が勤めるホテルのラウンジに同期生多数が集まった。画廊での展示鑑賞のあとの会合には弁護士K女史もいたし、画伯の奥方も一緒だった。私は奥方とは小倉高2年次で同クラス。「校舎内で学帽をかぶる是非の討議」のホームルームで学帽死守の男生徒に対し、こののち奥方は「かぶり続けるとハゲると言いますよ!」とピシャリ。これで討議は終わった。

 カボチャラダムスは、全国ネットの民放テレビに何度か紹介された。またNHKで「門司のシャッター通り」とかいうドキュメント風番組があったが、その最初と最後のシーンには、「ハメルンの笛吹き」のような格好でカボチャラダムスが一光景として登場したが、ナレーションでは何の説明もなかったのが、かえって印象的だった。

 こうしてイメージが定着後のトーナス・カボチャラダムスの個展。3年前だったか、埼玉県川口での催しにも出かけた。これは同期H君と一緒。会場の感想を求めるノートで画伯に対し、「確か、昔の西武デパート展示では、”サザエ浄土”というイメージ作品があったが、今はカボチャばかり、どうしてか?」と書き込んだが、もちろん返事はない。日頃、「お前たち(同期生)には作品は分かるはずがない」と、うそぶくのが画伯だそうだ。

 同期女性Sさんの葬儀には親しかった奥方も上京、参列された。同期女性のOさんと一緒に、北九州への新幹線まで見送りに東京駅に行った私。そのとき、半世紀前の「かぶり続けるとハゲると言いますよ!」の話題を出したが奥方、もう覚えていなかった。
 ところで今回、画伯のハガキは下記の内容。わが家では興味を持った娘が行ってみようか~と言っている。
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・テーマ:遊びもせんとや
     未完の天才 トーナス・カボチャラダムス最後の個展
・期 間:2011年12月5日(月)~15日(木)
・場 所:77ギャラリー東京都中央区銀座7-5-4 毛利ビル5F
・電 話:03-3574-1601
※なお、ギャラリーコンサートが、12月5日 15時(モーツァルト)
                                                       6日 15時(ビゼー)
                                                       7日 15時 (ヨハン・シュトラウス)
川原田氏は、この5日~7日に在京とのこと。

2011年10月28日金曜日

「筑前と豊前小倉の国境いでも民族の大移動"文化戦争"」


阪東湖人
 場所は利根川近隣の居酒屋。「ボクは千葉君津生まれなんですが、父親は九州八幡から来たんですよ」と、アルバイト店員は愛想良く語った。~~ハハーンあの「民族の大移動」かと、半世紀前を思い出した。今となってはこのアルバイト店員も首をかしげる民族の大移動との言葉。昭和40年代、千葉房総で操業を開始した君津製鉄所に向けて、大勢の製鉄所社員・家族が北九州から移住してきたことだ。当時の新聞には、「君津では一夜で房総弁が九州弁に変わった」と大げさな見出しが載った。

 つい先ごろまで素朴な漁師町だった当時の君津、外来児童が大半となった小学校では「ジャンケンポン」が「ジャンケンシー」に変わり、地元の子がジャンケンポンと言うと大勢の九州勢新入り級友から笑われ、泣いて帰った。そのわが子を見た親が「ジャンケンシーなど聞いたことがない!」と小学校に怒鳴り込んだ~このエピソード、個人的に似た体験があるからよくわかる。

 この千葉君津の"文化戦争"に似た動きがすでにあったのが、筑前黒田藩と豊前小倉小笠原藩の国境い、境川が小倉北区中原と戸畑区中原を分けるその戸畑側。昭和20年代後半、八幡製鉄社員の子弟が集まる戸畑側の小学校級友の親は、大分、四国、山口出身者が大半。結果的に、物や動食物の名前は擬似的標準語。そうでなければ会話が成り立たない。小学校で「地元言葉を集めるように」との宿題が出た。わが父親は若松育ち、母の系統は代々八幡地元民となれば、黒田藩博多弁の傍流とでもいうか、筑豊遠賀弁の世界。両親に聞いた「ごりょんさん=良家の奥方」の例を挙げたら学級のみんなが笑った~~「そんなはずはない」と父親は腕を組んだ。

 おりからの旧制若松中同窓会で、同級生の息子たちが私立学園に通うのを知った大学応援団出身の父親は、わたしをその私立学園への転入を試みた。母校大学と学園の名が同じであることで親近感をおぼえたのか、筑豊遠賀弁"保全"のつもりだったのか。が~~いずれも見当違い~~この私立学園は、応援団とは対極の学習院的都会ムードであったようだ。結局、中学は境川を越えて小倉側に行ったが、ここでは理科の先生も級友も蟹を「ガニ」と呼ぶのでビックリした。ツララ、ウニなども何か別の言葉だったという記憶がある。

 夕刻、同じく利根川近隣の蕎麦屋に「カキソバ始めました」とあったので暖簾をくぐった。「オヤジさん!そのカキソバ、と冷や酒で国士無双を!」と頼んだら、茨城県石岡出身のジイサン、「カキというのは海のカキだよ」と念を押した。変なこと言うなぁ~民放バラエティ「秘密のケンミン show」では、カキソバは茨城でどういうアクセントなのか思いながら、少々きこしめしてやっと気がついた。酔客好みの「蕎麦掻きではありませんよ」と、言ったつもりだったのだ。買いかぶりだよ ジイサン!

「昭和44年の朝日新聞東京社会面には、名門校小倉高校の騒ぎが載るほど~民族の大移動は関東地方にも九州情報を伝える場を与えた」

2011年10月18日火曜日

「伝統の白い雑のうでなく、布張り学生カバンの二人~」

阪東湖人
  当時、小倉高では学区外でいまだにちょっと気がひけるのだが、戸畑中原のかつての我が家付近、グーグルアースで上空から半世紀ぶりに“帰郷”した。左隣の家は駐車場に、右隣の酒屋も店を閉じた様子。垣根越しの隣家の秀才先輩Mさん(14期)の住んだ家は残っている。近所の内科医院も健在だ。先代院長は町医者だったが、戦前は軍医で中国大陸にいた縁でわが父親と碁仲間で親しかった。現在の先生は多分、明治学園から久留米大附設に進んだ"オチビちゃん”。あれからもう半世紀がたつ。

  北九州に昔からある風俗が酒屋の店頭で飲む「角打ち」。庶民、地元名士ともども「角打ち」を楽しんだ。我が家右隣の酒屋も「角打ち」。樋口一葉の小説「大つごもり」を地でいくように、地元中原の御曹司が厳格な親への当てつけに「角打ち」に現れ、周りが苦笑した。それ以上に、この酒屋の誕生にはエピソードがある。昭和20年代後半の朝鮮動乱期、中原でも酒屋は十分すぎる数。当時の大蔵省規制では新規開店は到底、認められるはずがなかった。それでも開店出来たのは、「大平が偉くなってからは、上京して邸に泊まるのは遠慮した」と笑った主人の言葉で分かる。大蔵官僚出身の政治家、のちの首相、大平正芳と酒屋の主人は幼なじみで、高松高等商業同級生だった。でもこんな話、戦後の日本ではどこでもフツーにあった出来事だろう。

  ところで、わが垣根越しの秀才Mさんは地元小5年でエリート校附小に。附中から進学したMさんと小倉高校で再会した。Mさんはいわゆる軟派不良だったが、私を後輩としてかわいがり、喫茶店、映画館に連れて行った。いつもタバコを吸って、私以外の世界では女子高生を誘ったりしていた。高橋範義先生はMさんを名指しで、「いくら勉強が出来てもあれではいけない」と、いわば接触するなと自戒を求めた。河合校長も朝礼で、「最近、喫茶店に行く生徒がいる」と注意したが、学業が同じとは行くはずもないのに私はMさんの弟分を気取り、笑って聞いた。そのMさんは3年次の秋以降、試験時以外ほとんど登校せず、東大受験で上京する学割証明を貰うのは私が代行。Mさんのように通学も伝統の白い帆布の雑のうではなく、布張り学生カバンにした。

  当然のように現役で東大に入ったMさんは近所でも話題に。角打ちの酒屋と大平の出世話から、Mさんも役人になるだろうと近所の年寄りは言った。私もその才能にあやかろうとMさんの母親から垣根越しに受験参考書すべてをソックリ貰った。東大生となっても夏秋冬と試験休みで長期帰郷、また私を誘って喫茶店で、今度はおおっぴらにタバコを吹かし、最新の東京事情を伝えてくれた。

  秀才の世界もいろいろ。Mさんは東大も駒場で退学、しばらくして復学したと聞き、卒業後は商社関連企業に籍を置いた様子。その後は、独立し経営コンサルタントで活躍した。また会社もいろいろ。私は小倉高先輩かつMさんと東大同期の某さんと同じ民間会社で偶然出会い、また職場も一緒になった。でもあるとき、酔っ払った某さんからバーのツケをそっくり払わされたあげく、その翌週、「あの金誰が払ったのかなぁ~~きっと○△サンかなぁ」ととぼけられたとき、この先輩に従うのをキッパリやめた。同じ小倉高先輩でも、“さわやか”だったMさんとあまりの違いがあるからだ。そのMさん、「でも、最近は借金を重ね逃げ回っている~」とは、東大三鷹寮時代から親しかったという小倉高同期、H君の話だ。この話を聞いて、実にMさんらしいなぁと、その“怪男児”ぶりを懐かしく思う私だ。

2011年10月4日火曜日

「恩師 池田治雄先生について 学区外通学生の思い出」

阪東 湖人

  昨年11月の池田先生の訃報、それを遅れて知ったのはこの7月の初めだった。先生は3年でわが担任。思い出すのは教壇から、「奨学会への寄付の書類をこれから回す。持って帰って親と相談しろ」と、これは本来の教師の役目ではないと言いげな顔だった。さらに付け加え、「学区外からきている奴で、とくに成績の悪いものは寄付金も3口だぞ」と、ニヤリ笑って私の顔を見た。その私の父は大正時代か、旧若松中学の悪童で、教育実習生の河合青年(後の河合校長)に出会った。河合青年の父も若中の國漢教師だった縁で、父は熱烈な河合校長信者。3口分も喜んで”奉納”した記憶がある。

  さらに学区外といえば、2年次でのホームルームの時間に女生徒Aさんから追及された。「学区外から来ている人は自分の学区に戻るべきです。本来、小倉高に進むべき人がはじかれているのです」と、実に鋭かった。彼女は優秀な成績で九州大学に進んだと後に聞いた。社会科の沖先生は、「本校は教師が優秀だからではなく、皆さんが優秀だから~~」と授業中によく語った。複雑な気持ちだった。本校は事実上、広く門戸を開いている~とのニュアンス。クールで柔軟な沖先生は、後に校長、同窓会長ともなられた。

  ところで池田先生は私に、「マンモス私大に行くよりは、小人数の成城大なんかの方が就職もいいぞ」とアドバイスした。とりあえず卒業しますと言うと、「明陵は君の成績では入れてくれないぞ~~まぁ、最後は入れるけどね」と、どこまでもリアルな先生。この“入れてくれないぞ”との先生の言葉だけを父に伝え、他流試合とばかり、博多、東京の予備校と転籍しているうちに父親の仕事が東京に移った。

 結局、マンモス私大に籍を置き自宅通学というか、都合5年半ほど籍を置きながら、某大手出版社でバイトに励んだ。いっぱしの編集者とされて増長、大学にはほとんど行かなかった。学園紛争時にたまたま登校すると、タテカンに見慣れた同級生の名前が。それも学生運動のリーダーとしてだった。そのF君に会ってみると当時、レモンちゃんといわれた深夜ラジオの人気学生アナも周辺にいた。やがて学生運動もしぼみ、景気も急速回復。就職もなんとか志望先に~~~。

 もう十年近く前か、池田先生が上京された。幹事役のSさんが言うには、「みんな集まるように」との先生の電話があったという。それぞれ苦笑しながら、フカヒレで有名な中華料理店で先生と卓を囲んだ。話題が咲くなかで私が、「先生は生徒を殴ったことありますか」と聞いたら、しばらく考え、「一度ある。キミらの相当先輩だが~~」と答えられた。その表情はちょっと曇ったようにみえ、私は戦後の動乱期の学園事情と拝察、それ以上のことは聞かなかった。昭和22年から46年まで教鞭を執った先生だった。お開きのあとは、当時、大手企業幹部の某君が先生を役員専用ハイヤーで送った。それを見送りながらホッとした私~~もう窓際族でタクシーチケットを使うのも、はばかる身分だった。

若き日の高橋先生、山中先生先、池田先生の姿(先輩の小倉中37期生ホームページから)