2013年1月26日土曜日

小倉南区と北前船とに縁 徳光和夫氏「ファミリーヒストリー」

               


                                              阪東湖人

 
 「同期生共有ブログであるべき場を、我が物顔で独占!」と批判これありの晩秋。「嘉田のオバチャン・ヨイショ!」を最後に、ブログ電子筆を絶ったわたしでした。が早春、NHK放映「ファミリーヒストリー」に徳光和夫氏の巻。小倉南区徳光、北前船、郷土史家の稲津義行先生再登場~~いやこれぞ、わが異端ブログの最終章と再発念、あえて電子筆を限定スイッチオンしました。
 稲津先生は半世紀前、菊陵、思永中に在籍。2012年8月10日掲載の『稲津先生は"暴力制圧型"体育教師でなく原田泰造風でした』は意外やアクセスも多数。また最後の小倉中生、黒崎在住の大先輩も脳老化防止には「汗、恥、文字をかくべし」と、ブログで説くことにも勇気付けられます。
 立教出身の徳光和夫氏は熱狂を超えた狂信的巨人ファンと、わが対極。その野球すら~高校時代前半、三萩野に通いつめたのは「わが青春のマリアンヌ」と、スタンドで同席できる一瞬夢見心地からでした。
 また立教については、明治応援団上がりのオヤジらが「慶応、立教、文化学院は不良のガッコ」と、生前、譲らなかった。偶然だがこれに娘が、中、高、大学と立教に世話になるというアンビバレントな感情の中で、徳光とは?と「ファミリーヒストリー」を見始めて、思いがけない往時の”日本海新幹線”北前船の歴史展開に吸い込まれたのでした。

 まぁ、以前同様の悪癖に加え、老人粘着性症候群を発症~~前置きが実に長すぎるのはスミマセン~~
 で、ファミリーヒストリー徳光和夫氏の現ルーツは北海道江刺で縁者も存在します。しかし徳光という地名が、日本全土でも小倉南区徳光にのみ残り、加えて徳光和夫氏も「オヤジが先祖は大分(豊州)出身と言った」と語っています。まぁ、小倉は旧豊前國でありますから符合も致します。
 徳光村は紫川沿い。往時は小倉港との間で河川交通もあった。 
 稲津先生の解説では、「長州藩との小倉戦争で疲弊した(豊前)徳光村民が北前船で北海道に渡ったことはあり得ること」としていますが、それ以上は判明しない様子。一方、わたしには昔、菅生の滝への遠足のときでしたが、「徳光」という西鉄バスの行先表示の記憶があります。

 さらにテレビ、石川県能登に徳光集落があり、一村の多くが徳光姓であること。この能登の地が徳光和夫氏の遠い先祖とつながりました。このキーワードが実に大坂~瀬戸内~門司田ノ浦~能登~江刺を結んだ北前船。
 ところで話は近世ですが、門司のあのK画伯、「先祖は名立たる廻船問屋~」と同期生の奥方が言っていたし、同じく、現北九州で活躍のS女史(後輩)の実家も、廻船問屋だったと聞き及びます。大正時代には九軌(のち西鉄)支線が門司田ノ浦まで伸びていたのも、この北前船の名残でしょうか。

 石原慎太郎の小説で昔、テレビや映画化された「青年の樹」登場人物のモデルが、現横浜財界人にいます。Fu Y夫氏は、港湾関係、球場、FM放送経営と多忙。わが現役時代一度、仕事で会いました。この横浜財界人、なんと同期Fu M夫君と名が一字違い。

 同期Fu M夫君の場合とは、まぁ他人の”そら似”でしかないでしょうが、この横浜財界人Fu Y夫氏の自叙伝では、ルーツは福井の何とか村で、一村ごとFuという苗字。父親は横浜で沖仲士上がりだといいます。

 徳光和夫氏の祖父は日露戦争後、港町神戸に。また横浜財界人Fu Y夫氏の父親は横浜に来た。北前船の世界は、このようにやはり、港町との濃いかかわりがうかがえます。まだまだ~~北前船がもたらした文化風俗類似点。北九州でも昆布多用とか、京都のバカ高いイモボウの原型、正月に干鱈をもどし、甘辛く煮た食材とか~~会社時代、北九州と同じ話し方をする後輩がおり、「あんた、同郷ネ?」と聞いたら「新潟デス」ということでした。同じイントォ~ネ~ション、これもまた、日本海北前船文化の名残でしょうか。

2012年11月10日土曜日

晩秋に遥か故郷を想う わが猫額庭の「はぐれアサガオ」 

              
                                              阪東湖人


 
 イヤハヤ、わが猫額庭「はぐれアサガオ」のド根性ぶりに敬服!!デス。
 いまだに、小さくも花を咲かせています。人間も、かくありたいものです。

 オタク、マニアが勝手に独断を書き込む、かなり、いいくら加減な「ウィキペディア」ですが、以下の記述がありました。
~~日本への到来は、奈良時代末期に遣唐使がその種子を薬として持ち帰ったものが初めとされる。アサガオの種の芽になる部分には下剤の作用がある成分がたくさん含まれており、漢名では「牽牛子(けんごし)」と呼ばれ、奈良時代、平安時代には薬用植物として扱われていた~
 ~まぁ、信用しとこや。
 写真右側にあるチョイト違うツルは、これまた、はぐれゴーヤ(苦瓜)のイタイケナ姿。さすがこの季節では結実はなく、初冬に消えていくでしょう。

 後ろの紅葉は、懐かしや北米原産のハナミズキ。東京大手町のビル群の谷間の植木市で購入。
 
 鉢植えを下げ、新三河島の京成電車ガード下の焼肉の金龍苑に入ったら、あの琵琶湖の知事サンのような婆さんに睨まれた。
 この付近~太古には古利根(現墨田)が流れていた。中世ロマン~「七重、八重~太田道灌の山吹の里乙女伝説候補地」大雄山泊船軒も、そう遠くではないが、山吹の里乙女と、琵琶湖の知事サンとでは女性も両極端か。

 レバサシでは、本邦元祖とか言うオールド・コリアンタウンのこの店。京成電車のゴトン、ゴトン、振動が頭上から響くなかで、通ぶってイロイロ食したら婆さんご機嫌回復~ところが「焼肉でガスコンロは一回だけ。二
度は着けないからネ。焼肉も同じものの再注文は駄目!」と、これまたなんや、天下をうかがう琵琶湖の知事サンお得意の”モッタイナイ”の独裁風客扱い。

 それでも食後は「ハナミズキの鉢植えを下げ、いかにも堪能したオッサン風わが後ろ姿」を長いこと見送ってくれた婆さん~~~もう数年前の話。風の便りではこの店、京成電車の高架改修で閉店したとのこと。また、レバサシもご承知のように巷からことごとく消え、さびしい限り。

 ところで故郷とは”板櫃川勉強堂”の誉れ高き、愛宕が丘の学区をはるかに離れた、旧八幡高のお膝元、奇しくもその板櫃上流となる大蔵渓谷にある大蔵小学校。その上に勝田神社。さらに勝田公園とあり、展望よく、いまもあるのか~~椿の名所でもあった。
 「勝田サンの椿の根元から湧き出す清流は眼病に効く」~と、わがご先祖サマたちは信じていた。上流は製鐵の河内貯水池になるこの大蔵川。歴史的に変動はあるが筑前・豊前の国境。また神功皇后神話の里でもあった。
 
 大叔父は、後輩エリートに次々に追い越された安川電機のマンネン課長。でも、これまた神功皇后神話を誇りとし、「なんと言っても、うちは大蔵神社(乳山神社)の氏子総代なんだからなぁ!!」と酒席ではいつも上機嫌。
 (安川で手に入れた)「上等のスコッチ飲ませてやる」と言うのでご相伴。そのオールドパー、二人で三分の一ほど、きこしめしたら「もういいだろう」と、さっとサントリーにすり替えた大叔父だった。 

 まぁ、この大蔵川と勝田公園向こう側の槻田(金山)川エリアにかけて、樹木を愛で、マッタリ暮らしたご先祖と一族。その血がわたしにも~~嗚呼、晩秋の大利根河畔寒風に、遥かな故郷を想うばかり。


2012年10月31日水曜日

湘南江の島界わい ものがたり(19) 漁閑期の”観光集魚灯”

                
                                              阪東湖人


 まぁ、江の島が「江ノ電島」と言われるその「シンボル」が、この「江の島シーキャンドル」(江の島展望灯台)。なんでも2002年、江ノ電開業100周年事業の一環で立ち上げられたそうです。そのシーキャンドルのライトアップ姿が、このほど「夜景サミット2012 in 長崎」で、関東三大イルミネーションに認定されたと、地元湘南では鼻高々です。
 この「夜景サミット」の関東の残り2つとは、当然、あの東京下町のスカイツリーもと思ったらゼンゼン~~!!
 東京ドイツ村(千葉県)、それに、あしかがフラワーパーク(栃木県)なんて、あんまりなじみのない場所でした。
 最近全国ネットで放映された、「B-1グルメ in 北九州」に比べ、はるか格下の催しみたい。それに、わが千葉にあるのに、なんで東京ドイツ村、それに、なんで千葉・成田にあるのに新東京国際空港なの?と、新たな疑問すら浮かんだのです。

 で、なぜにシーキャンドルが?~~晩秋、初冬の湘南、そりゃぁもう、富士山はくっきり見えますが、恋人同士のドライブ(古いデスネ)ぐらいでほかは、正月、ゴールデンウィーク、夏と比べりゃヒマの閑古鳥。それで考え出したのが、まぁ、江ノ電島の「江の島シーキャンドル」。12月1日(土)から、2月14日(木)まで、湘南の相
模湾に煌煌と照らし出される様子です。まぁ、言うてみれば漁閑期の”観光客集魚灯”ということです。

  「江の島シーキャンドル」~~なんや、和製英語のような~~でもご当地は、「We are Shonanian!」と、得意顔だったこともある土地柄です。湘南高校出身、今回の慎太郎老の都知事突然辞任での言動を見ればお分かりのように世間に対し、まったく物怖じしない、湘南族の土地ですから、何でもありです。

 まぁそういうわけでキンキラキン大好きだが、この湘南の地には、何か不安要素もあるのでは~~と懸念もしました。
 果たして、来年の記念同窓会6月6日、みなさま大宴会&お泊り予定の岩本院改め、岩本楼 www.iwamotoro.co.jp/はどうか。でもご心配なく。世話人団には元ホテルマン2人という業界専門家もいます。すでに「(火災など)万一の際の避難路」、「トイレの場所確認」と、実地検証を済ませ、万全の構えの様子です。

 なお、この右下写真のオジサンが、岩本楼の顔、49代目となる会長さんです。でも、愛宕が丘OGお姐さん方、フロントにはもっとイケメン社長の若旦那もいます。旅のムード”ぶち壊し”にはならないのでご安心を。それになんといっても、江の島は「江ノ電島」です。江ノ電グループが総力を挙げてお迎えする様子。老殿方にも十分なホステス???を、江ノ電島内でかき集めてくれるはずです。

 かの日~~平成10年8月、箱根高原のさわやかな空気のなかでの卒業35周年記念同窓会。花月園ホテルでの盛況振りを思い起こして下さい。今回も、おそらく総勢、数十人を超える、旧愛宕が丘健児&現マダムが集まる「卒業50周年記念同窓会」となるでしょう。
 その人波とは~~先輩12期生ホームページ「回覧板」の表現、奉行、会頭、院長、水先人、連合会長、酒豪、半酒依存人、下戸、徒歩人など多種多様の人種という言葉が一番でしょうか。現役時代のあの当時とは違って、多様な面々が集まり、多様な話題で盛り上がることと思います。でもご老体特有症候群の「病気、孫、年金」という三大自慢はやめましょうね。

2012年10月23日火曜日

原風景は「あしやからの飛行」  清楚な仏女優 その後は?

             
                                              阪東湖人


 「KLMオランダ航空が来年4月4日から、福岡ーアムステルダムを結ぶ定期直行便の運航を始めると発表した」と新聞にあった。こんなニュースを見ると、どうしても、あの北九州空港の存在が気になる。
 「これじゃぁ勝てない。”敵”はすでに1993年、地下鉄が乗り入れている」~~~その敵とは、もちろん福岡空港のことだ。ヨオロッパで一番進んだアムステルダムのスキポール空港地下には、おフランス・パリ北駅へ向け、時速300キロで突っ走る、欧州超特急TGV&ユーロスター姉妹版の「タリス」が停車する。博多の地下鉄と「タリス」が、なんともまるで”義兄弟”。

 悲願の北九州空港開港のいきさつは、みなさまのほうが詳しいので省略~~~でも、北九州の空の玄関は、あの場所で本当にいいのだろうか。かつて大分の友人が、北九州(海上)空港ができると、「大分空港が弱くなるかなぁ」と言ったことがある。北九州空港とは、その程度の影響力だったのだろうか。 

 北九州空港の前身、旧曽根飛行場には少年時代2度行った。伯父が名古屋に戻るのに、当時の「日ぺリ」(のちのANA)を利用したのを見送った。曽根飛行場はまだ定期便が飛ぶ前だった。いまでいうチャーター便だったのか、小さな英国製「デ・ハビランド・へロン」機が待っていた。
 このへロン機、セスナ程度のプロペラ2枚羽根のエンジンが、それでも4発ある立派な旅客機。わが目の前で、スチュワーデスさんに案内された伯父ら乗客十数人が乗って飛び立った。

 確か、伯父が見送り代に5百円くれたが、行き帰りはバスだったのか~~記憶がない。あの土ぼこりと草むらの曽根飛行場だった。もう一回は、森永製菓の御得意店舗へのサービスで、今度はセスナ機にイトコと2人で乗った。若松の伯母の菓子屋が森永ストア加盟店だったから、その余禄。北九州上空を一回りしたのだが、上空から見るとどこがどこだか分からない、当時はまったく平面的な景観だった。

 北九州空港の敵、福岡空港は、米板付基地返還後も依然、航空自衛隊に、第七管区海保航空基地を併設する。なんや、それなら北九州にも似たような、もっと適当な空港が整備されてしかるべきではないか。
 それが上記航空写真、遠賀河口域の「航空自衛隊芦屋基地」のこと。地政学的位置からも、北九州市でも成長著しい八幡西区、お隣中間市域など、さらに宗像田園都市に利便性がある。福岡空港のように芦屋基地の民間共用を本格的に目指すべきだ。

 航空自衛隊芦屋基地、その現基地司令は、なんと航空自衛隊で医官を除き、初の女性空将補、また自衛隊でも初の女性ジェネラル。全然関係ないが、新しい時代の息吹、そんな先進空気も感じる現地となった。
 (芦屋競艇は置いといて~)いにしえからの芦屋釜という文化、伝統もこの地は北九州の空の核と成り得る。
 東京都の最高指導者、石原慎太郎も「米空軍横田基地」を首都圏民間空港に!と言っている。親っさんは防衛庁長官もやった福岡県第9区、世襲系のM前代議士も、赤ジュウタンを再び踏みたいなら、いまや機は熟した。防空識別圏どうのこうの言わず是非、考えるべきではないか。

 ところで、芦屋、あしやと騒ぐ、わが原風景とは~映画「あしやからの飛行」~1964年公開というから、愛宕が丘を脱出し、まだフラフラしていたときか。小倉か東京か~どこかの映画館で見た。ユル・ブリンナー、ジョージ・チャキリスに、日本の女優も出た大映との共同制作とか。映画の筋は忘れたが舞台は、神戸の隣の高級なとこではなく、遠賀の「芦屋」。まずは映画館に貼ってあったスチル写真の、当時新人のおフランス女優、ダニエル・ゴーベールさんの”清楚な”姿が眼に留まった。

 でも、このダニエ(ー)ルさん、女優度を増すたびに大胆に大胆に~「R18指定」以上のエロスの世界に行ってしまった。実生活では当時、中米ドミニカの独裁者トルヒーヨ将軍の御曹司ドラ息子への玉の輿、さらにスキー界の伊達男、ジャンクロード・キリーとも結婚。見逃したが、米プレイボーイ誌には大胆な姿態を~~もあったそうだ。清楚から妖しく花開き~~でも1987年、44才にして見事に散り去った女優さんだった。
 芦屋~~「あしやからの飛行」~~とんだ話を展開したが、福岡空港に勝つためにはこの芦屋が必要と確信する。でも、地政学的には東筑を利することになってしまう~~~、チョッピリ懸念もある。

2012年10月20日土曜日

湘南江の島界わい ものがたり(18) エッ!宗像大社から勧請?


                
                                              阪東湖人


 「歌は世に連れ世は歌に連れ」~~NHK懐かしのメロディなんていう番組の冒頭、こんなセリフが流れましたねぇ。江の島もなんか、時代とともにその「云われ」も相当に変化したようです。厳かなる江の島の歴史も、岩本楼 www.iwamotoro.co.jp/ のHPをたどり、「江の島観光案内」をひも解くと現われます。
      ~が~実は江の島も、時代とともに「云われ」が変化しています。
 そんでぇ~~いまじゃぁ「江ノ電島」とか、「江の電砦」とまで、陰口が聞かれるようになりました~~まぁ、歴史とは、そんなもんでしょう。
 ところで「江の島観光案内」では~江の島の3つの宮(辺津宮,中津宮,奥津宮)を江島神社と呼ぶ。それぞれ海の守護神の女神が祀られている。辺津宮はその本社でタギツヒメノミコト。建永元年(1206年)に僧良真によって荘厳な社殿に遷宮され~(エライ時間飛ぶが~)昭和51年(1976年)に改築された~と、なります。

 ~上写真は”箸休め”。英 St Michael's Mount 再登場~まぁグローバルに、ものごと想像しましょう~~

 (続けますと)イチキシマヒメノミコトを祀る中津宮は、慈覚大師により仁寿三年( 853年)に創建。~~(エライ時間飛ぶが~~)元禄2年(1689年)に再建、また~~(エライ時間飛ぶが~~)現在の社殿は 平成8年9月に大改造。商人や歌舞伎界から寄進された石燈篭など、 当時の江の島詣での盛況がうかがえる。
 では奥津宮は?ン?? この岩本楼”支配下”「江の島観光案内」ご説明では、それがないんです。

 それとは別にこんな話も聞きます。明治以前の江の島には岩屋本宮・上之宮・下之宮の三宮があり、岩屋本宮(中之坊)には岩本坊、上之宮には上之坊、下之宮には下之坊と別当寺があった。岩本坊(注,のちの岩本楼)は三坊の頂点にあり、唯一院号の使用を許可され岩本院と称して江の島全山の惣別当をつとめていた。

 上之宮は現在の中津宮、下之宮は辺津宮である。本宮は岩屋で、「現在の奥津宮は」本宮御旅所と呼ばれ、岩屋本宮の管理下にあった。江の島では寺の僧は神社の神主も兼ね、圧倒的に仏教的色彩が強く、神社は中津宮や奥津宮の建物を見れば分かるように小規模。

 (そして明治の世~)神仏分離令で江の島の坊主は還俗し、「神主」になった。全国的に仏教、寺は廃仏毀釈により、建物や仏像、文化財が破壊された。(実は、鎌倉もこのあたりに”暗黒時代”があるのです。ずーっと、ずーっと、武家の都をとどめたわけではありません)
 江の島の仏教的色彩は皆無となったのだが、でも平成5年に江の島大師が再建され、仏教的色彩が戻ってきた。~~こんなん~~もう、無茶苦茶やわ。

 また、関東において、宗像三女神が祭られている代表的な神社が江島神社ということになるそうです。なんや、もっともっと明治の世における廃仏毀釈&国家神道確立への道~~その臭い、フンプンですねぇ。われらが九州宗像大社の流れは、アジヤ大陸、朝鮮半島との縁が色濃く、相模灘の江の島とは、全然関係ないと思いますが~~

 ところが、はだか弁天さま~~「江の島観光案内」ではこんな話。欽明天皇(539年-571年)の時代に天から現れた天女とか。 
~~江の島の対岸の悪龍を退治した天女が武威を備えていると信じられ 源頼朝らが尊崇したとされた。~~その後、戦乱の時代を経て江戸時代になると、琵琶を抱いて音曲を司る妙音天女(はだか弁天)に姿を変え、武士ばかりでなく、 商人や芸人などにも広く慕われた~~

 まぁ、ぐちゃぐちゃ引用すれば長くなります。が、実に都合のよい話を持ってくるもんと思いますねぇ。欽明さんは、朝鮮半島に縁が深かったならば、そのついでに、江島神社は宗像大社のルーツに「牽強付会」するも可ですが、では、はだか弁天さんのほうは~??~~、それで弁天さんは、辺津宮の境内の奉安殿に別にあるのか~~と、納得できるような~~できないような~~~まぁ、来年6月6日、屁理屈は言わず、まず行って見ることが先ですかねぇ。

 ~~弁天サンに結構こだわるのは、幼児時代の記憶ですが、洞海湾若松にも弁財天神社があるからです。いまじゃあ~若松南海岸通り(バンド)と、なんや上海みたいオシャレですが、かつては競艇場直行のアズキ色若松市営バスが走り抜ける場所。~~「べざいてん」とか「べんてん」とか、地元で言った波打ち際の神社のことです。

2012年10月18日木曜日

「爽快に続け! 倉高健児ゴルフ」&引退「うるさジジイ」の繰言

              

                                              阪東湖人


 メールで倉高健児ゴルフ世話役の某君から年次ゴルフ案内。いつもは封書の案内状なのに~と思い読むと「手紙が宛先不明で戻った」という。とりあえず「ご手配、いつも忘れず、恐縮の限り~~しかし、ゴルフセットは処分しました」と返事した。でも拙宅を宛先不明とは~~某君手紙、住居番号末尾が隣家となっていただけ。かつて、はるかアフリカ・ジンバブエに手紙を送った。半月経って「宛先不明」で戻った。こちらの手落ちで、英国式私書箱の番号末尾1か2を間違えた。旧植民地はこんなものかとあきらめたが、今回、ご当地郵便局での「アフリカ程度」の扱いにはビックリ。

 早速、日本郵便株式会社にメール。「~~郵便局はアフリカ奥地並み。拙宅には自慢じゃないが連日、税金督促状や、未納会費請求が届く。配達員は左手にそれを持っているはず。~~郵便局は近衛公の別邸脇、栄えある特別局だったはずだが、いまや場末。現状サービス、アフリカ並みを脱却すべく、ご本社より~~郵便局長以下に叱責と督励方を切に望む」と(むなしくも)遠吠えした。
 それには某君から、「~~いささか穏やかじゃないね。うるさいじじいになりつつあるね。老化現象は着実に進んでいる。なにごとにも些細なことには目をつぶり穏やかにね」との”お叱り”を頂戴した。
 
 いやぁ、ゴルフ~この倉高健児ゴルフなら、実に「小春日和の爽やかな青空のもと同窓の仲間とともにワイワイガヤガヤ」と楽しめるのだが、かつて自慢した1,2,7番アイアンも親類の若者に譲ってもうない。

 おまけに老化現象は着実に進んでいる。思えばゴルフ、よくやったな~~と思う。ここで一度だけ、わが総括、「爽快に続け! 倉高健児ゴルフ うるさジジイの引退繰言と思ひ出」を是非お許し願いたい。まぁ、うるさジジイの繰言、たわ言は無視、諸氏の写真だけ見て貰う手もあろう。

 大宅壮一が「緑の待合」と言った日本ゴルフ。企業社会ではわたしも接待ゴルフを拒む野暮はなかった。ゴルフ後のサウナ&マッサージ、寿司屋、そして高級クラブ。ハイヤーで帰宅。一方で異常なまでの「エチケッ
ト・ルール」。市民生活で紳士でない奴ほど「エチケット」「エチケット」と騒いだ。
 コンペの「エチケットリーダー」も戦中翼賛会の臭い。わたしのいた、戦後成り上がり企業の社長は、「自分など、”財界人”としてはキャディ上がりの身~~」など抜かし、東京ビジネス界で失笑を買った。

 拙宅近所には青木功がそのキャディだった名門ゴルフ場があり、最寄駅では特権階級の名残なのか、揃いの舶来ブレザーに大そうな革鞄という、日本独特のゴルフ紳士達にいまもよく出会う。メンバー様のゴルフセットは倶楽部保管で、ビジターは宅急便が今日。JRはグリーン車利用。
 若き日の昭和天皇が三つ揃いで楽しんだ時代があった。その「大正時代の野球帽」風シャッポ姿までくだけた現代ゴルフ。でも行き帰りは、ブレザーにステータスシンボリックな革鞄。東京駅ではスチュワーデスじゃあるまいに、3人分の足場を邪魔するゴロゴロキャスター付キャリーバッグを転がす旅オヤジがいる一方、ゴルフ紳士は重い革鞄を下げ、(アレなら楽なのに~と)ゴロゴロバッグを横目でにらんでいる。

 「ゴルフケース」はとうとう、日本では未発達。アメリカではゴルフバッグでなく、ハードケース化した「ゴルフケース」がゴロゴロキャスター付き。そのままゴルフカートに積む。またカートはコースの中を、ミズスマシのように左右、斜め上下、自由に動けるのも日本と違う。カートは目線が高いので、ロストボールもよく見つかる。1プレーで1ダースは拾える。服装はNYですら、プレー中も帰りも一緒だったり、まちまち。ジャージ姿も。

 ゴルフ場近くの家から幼い少年が、濃縮ジュースを薄めて入れたポリタンクを抱えて現れる。生温かい1杯が1ドルとは高いが、幼児から自活を教えるのがアングロサクソンだ。「お金を集めてポキモン(ポケモン)を買うんだ!」と言ったこのティミー君。離れた場所から、じっと見守る親がいた。

 環境配慮「ティー」は木製でメーカー宣伝ロゴ入り。米東部で南部進出日本食品メーカーのロゴ入りティーを拾ったときは、本邦企業戦士の営業活動に感激した。以来あちこちティーショットの場の、打ち損じで埋まっているティーを掘り出しコレクションにした。
 またかつて五大湖とリンクする鉄道の要衝、中西部ミネソタでは、巨大な貨車操車場と機関庫が土盛りされ、ゴルフ場に。ここでのプレー、機関庫屋根上からの打ち下ろしと、遠景には北米大河ミシシッピ。はるか2000キロを下りメキシコ湾に注ぐ、その雄大な流れとともに忘れられない。

 欧州大陸フランダースの真冬、スパイク付ゴム長を履いて薄氷シャーベット状のグリーンでボールを転がしたが、凍結ボールはすぐ止まって進まない。石畳に入ったOBボールは、とんでもない方向に撥ね、行方不明に。このスパイク付ゴム長とは、羊を追う牧童が、長い冬に使うものの転用だ。
 南半球シドニーで買ったカンガルー1枚革のゴルフシューズは、フランダースの酷寒でパックリ割れた。またニュージーランドでは、アイアンだけ使用可のゴルフ場があった。相当広くとも、ウッドは奴らの腕力ではコントロール不能、どこまで飛ぶやら~~

 一方、南洋では椰子のささくれ立った高い幹にボールが刺さった。また茂った熱帯樹のどこかにとどまって落ちてこないボールも。

 キャディが高価なクラブを、すり替えたりの話、中古ボールを新品に塗り替え加工する技は、元駐在員同窓諸氏が詳しい。「ティー」はプラスチック製輸入品で品薄。携帯ストラップのように紐をつけ、ショットで飛ばしてなくさないよう大事に使った。
 ゴルフ銘柄ではない、ホンモノ毒蛇コブラには二度も遭遇、陸軍演習場隣接のコースでは、「パリパリ~ダ、ダ、ダ~」と乾いた音がいつも。機関銃実弾を撃っているのも南洋ボケで気にならなかった。酷暑の下、スタミナ飲料には「リポビタン」のドイツビール割り、アボカド・カカオ割りジュースが一番だった。

 その南洋、グリーン以外では、かつてはタンポポ状の草が敷き詰められた。現在ではティフトン芝に替えられたと聞く。でも印度亜大陸インダス平原パキスタンでは、タンポポ状のまま。全土がゼネストの日は仕事にならず、日本の友人とゴルフしたが、ベテランのはずの彼よりもわたしのスコアがよかったのは、タンポポ状の草を熟知していたから。ゼネストで荒れた大都市カラチでの死者、重軽傷者多数とは、のちに知った。

 明陵関東でも拙宅近くで定期的にコンペをおやりの様子。でも、先輩後輩の階級社会、「エチケット」に「日本独特のゴルフ紳士会」の雰囲気やに~~
 老化現象は着実に進んでいるわたし、嗚呼、倉高健児ゴルフの良き思い出、和気あいあいで実に爽快だった。でも、まだまだお元気な「倉高健児」のみなさんは、これからも是非続けてください、新規参入もいいでしょう。なんたって「エージシュート」到達圏なんですから。

2012年10月9日火曜日

湘南江の島界わい ものがたり(17) たまに猫が乗るエスカー

                

                                              阪東湖人


 江ノ島といったらエスカーを忘れてはいけない~~というユーモアな指摘が地元発信のネットに載っています。「ものがたり(6)中井浜の櫓山荘跡が?」にある以下くだり~「江ノ電経営の有料エスカレータ『江の島エスカー』を使えば、石段を上がると20分かかるところ、わずか4分と、楽チン』~」など、陳腐な説明でしたが、こちらサンは~もっとオモロイ話、お伝えしましょう。
 とはいえ、”江ノ電島”の現場を経験しなければ、実感の湧かないペーソスでもあります。来年ぜひ、「江ノ電砦」の島とエスカーを体験して下さい。
 このような記述です~~

 ただのエスカレーターなのに有料という代物だけど、とりあえず乗っておこう。
「探偵ナイトスクープ」で桂小枝がいつ取材に来てもおかしくない。パラダイス(人のまばらなレジャー施設という意味)として。
「エスカレーター乗ったら景色見えるでしょ?」という期待を込めて乗ってはいけない。左右は広告ばかりの壁である。しかし、徒歩はかなり歩くので乗っておこう。
広告は一度設置されると交換されないから古いものばかり。リニ
ューアルされて新しくなったがそれでも古くなった。それがエスカー唯一の見所。
 たまに猫が乗っている。(と言うか殆どのタイミングで同行してくれるよ、鰯とかは、くわえていないけど。)どうやら昇りだけで降りがないので、エスカレーターの言葉を半分にして「エスカー」というらしい。

 というわけで、このエスカー使って、お待ちどうさま~~イヨイヨ、はだか弁天さまを拝観。ああ、ご公儀のもと、江戸の良民には、こんなんが扇情的だったんでしょうか。

 愛宕が丘の中間か期末かの試験終了日、みんなで、「風と共に去りぬ」を観たのは、玉屋向かいの映画館、第二中央(?)と記憶しますが、この劇場、それよりはるか前、「空中ぶらんこ」という洋画の大看板が(善良な小倉市民に)扇情的と問題になりました。
 イタリヤ出身の妖艶、ジーナ・ロロブリジーダのそれはそれは、グラマーな容姿が、電車通りに出現したのです~~安寧秩序がお役目の小倉警察署も映画館の真ん前。個人的にはニンマリ、でも公的には憤怒ポーズの署長サン、県内市川大門の最高幹部、警察本部長に早速お伺い~~~

 当局のただならぬ動きに業界側も素早く反応。ロロ(ブリジーダ)さんの網タイツ・ビキニ風衣装艶姿の「ウェスト周り」が黒く塗りつぶされ、この市川大門の権威と面子は(野田どぜうvs胡錦濤さんのケースとは違い)守られました。

 ~ところで映画館や銭湯の看板描き、かつては東京芸大出の絵手も居たそうです(この話、どこかで聞いた気もする~~)。
 従三位、文化勲章、かの平山郁夫画伯ですら売れない時代、小中学校の黒板の年間予定枠白エナメル書き~この話、平山先生の甥御サンから聞きました。
 当時、この平山画伯の甥御サンは愛宕が丘同期T君の部下。T君は当時、NC旋盤など工作機械では世界トップ水準H社の重役でした。~~脱線、脱線でも、妙なところで人脈が浮かびます。

 ~~で、はだか弁天さまを観た皆さま、「なんや、コレ?」と思ったら、(江ノ電エスカーに下りはないので)江ノ電砦の石段をトボトボ降りて岩本楼 www.iwamotoro.co.jp/ に戻りましょうか。
 次回は、この老舗旅館、江島神社のことなど、世話人団の方々から、「この野郎!せっかくの努力を、誹謗中傷しやがって!」と憤怒の”差し止め請求”されない程度にとどめた、その全貌を暴いていきましょうか。

2012年9月29日土曜日

湘南江の島界わい ものがたり(16) 一遍上人に始まる藤沢

               
                                              阪東湖人


 
 日照り続き、水不足の残暑でしたが、突然秋の気配と降雨。すると猫額庭の土中から、スローモーション映画のように、はぐれアサガオが芽を出し、ツルを伸ばし、アレヨアレヨという間に花が咲いた。そう言えばアサガオは秋の季語とか~~そんなこと習いましたねェ。
 一方冷気で彼岸花も一気に咲く気配だと、いかに湘南江の島新名物といっても、もうこのショウガもタップリの「生しらす丼」を楽しむ季節ではなく、せめてアッタかい「釜揚げしらす丼」や下記の「しらすパン」の季節ではないでしょうか。
 つい最近、集団的、個別的に”江の電島”を訪れた同期生で、この「しらすパン」をパクついた御仁もいるようやに聞き及びます~~皆さま宿泊ご予定の岩本楼 http://www.iwamotoro.co.jp/ 至近土産物街の店でのことです。

 ところで江の島のある藤沢ではこのほど、「第39回藤沢市民まつり」が盛大に開かれました。湘南らしくパレード、屋台村と多彩なイベント。そして今回初めて登場したのが遊行寺エリア。昭和30年代から40年代を再現、縁日やウイロウ売りの口上、サル回しなどが催されました。

 この遊行寺は一遍上人を宗祖とする時宗総本山。そもそも藤沢は遊行寺門前町として生まれ、「藤澤山」の山号が町の名となり、やがて東海道の宿場町に発展し、今日の藤沢市となった~~ということだそうです。
 遊行寺、残念ながことに、皆さま向かう江の島とは、JR藤沢駅からまったくの反対の山側、バスでは藤沢橋下車か、徒歩十五分の場所であります。

 ちょっと不便ですが、来年6月の記念同窓会来訪の折には足を運んでみてはいかがですか。ちょうど同期の出稼ぎ定着&地元住民化組の幾人かが、この近辺に住んでいるようだし~~この遊行寺~~まぁ、言うてみれば、小倉は足立山麓の黄檗宗の名刹、広寿山福聚寺のイメージ、雰囲気のようでもあります。話題、思い出にも広がること必至デス。

 若いころわたし、藤沢警察ご用聞きバッカだったので~この遊行寺、知りませんでした。バチアタリめが! 根アカで明るく、軽いノリが身上の湘南族のメッカ、藤沢が、こんな由緒ある街だったんですねぇ~
 ~~実際は”いいくら加減俗っぽい”あの鎌倉の社寺群よりは、ちょっと寄り道してでも、崇高な一遍上人の心に触れるのもいいのではありませんか。
 なお、境内では「アオが~」とか、「馬車の奴!」とか、懐かしくとも、この手の悪口雑言は厳禁。天罰が下ります。でも、あの口の悪い湘南族、この掟、守っているとは思えません~~実際、参拝帰りに急停車のバス内で、シタタカおつむをぶっつけた者がおります~~~
  

2012年9月20日木曜日

別府・鉄輪までの貸切バス 日豊本線大分までの思い出

               
                                              阪東湖人


 福岡支部から今年の一泊旅行案内のハガキが届いた。いつもながらの丁寧な文面の詳細を覘く。別府、鉄輪温泉の文字に思わず目がとまった~
 もう60年近く前、小学校の貸切バス利用一泊修学旅行が別府、鉄輪温泉だったのだ~5クラスあった6年生で、わがクラスのバスだけが幸運にも、日野アンダーフロアエンジンのバス~
 ~またまた、マニアックになるが~日野アンダーフロアは、エンジンが前後輪間の床下。コーチビルダー、つまりボディーは西工製で、フロント運転席ウィンドウは2等分カーブドグラスという優雅さだった。 
 
 ~~他のクラスのバスはリヤエンジンで、フロント運転席は2面の平面ガラス。正面を見ればカナツボまなこ
状で、グ~ンと引っ込んだ運転席はアメリカ型。ボンネット型田舎バスを見慣れた老人が”鼻ペシャ・バス”と呼んだ。
 カナツボまなこに鼻ペシャは、広いアメちゃんの国が考えたもので、バス正面強度維持と、運転手の日よけには抜群の設計だが、左右視界が悪い。いかにも日本向きではなく、しばらくして消えた。でも本家の新大陸では当分使われた。大人気TBS~RKBネット「逃亡者」。故デビッド・ジャンセン演じるリチャード・キンブル医師は、この鼻ペシャ・バスを乗り換え、乗り換え、全米を逃げまくった。

 下記、進駐軍兵士撮影写真の左側の西テツバスがこの鼻ペシャ・バス後ろ姿。リヤウィンドウと、その下の冷却空気取り入れネットのシンメトリーも個性的というんだろうが、わたしの好みではない。この稀少、コダクローム総天然色写真は、昭和28~30年ごろの福岡市内。博多知らずのわたし、電停は「万町」とあるが、どのあたりなんだろう?

 で、別府まで、よい子たちの乗ったバス車列は、穴ぼこ交じりの砂利道、国道10号を砂塵を立ててひた走り、途中どこかで休憩はしたのだろうが覚えていない。
 ただ強烈な記憶は、宇佐から別府間の山岳峠のこと。ここでは進行路面が二等辺三角形状で、頂点を越えるバスが一瞬、宙に浮いた。この道、いまはもうないだろう。(その後12期先輩HPで、「立石峠」と判明)

 300人近くが泊まるのだから、鉄輪温泉の宿もかなり大きなもの。四方が廊下の中庭が温泉で、男児たちはここでイモ洗い状になったが、楽しかった。
 高崎山のサルも記憶にないが、いまもあるのか楽天地。その展望大型双眼鏡で別府湾の方を眺めたら、レンズの中にはノッポのあんちゃんたちが隊列組んで、真っ直ぐ行進したり、突然直角に曲がったり~~その曲がり方が運動会のよい子たちと違うので、ああアメちゃんだと、子どもにもわかった。既報、米陸軍病院での治癒兵士のようだった。
 日豊本線大分までの旅は、オヤジの金満兄への月いちペース「大枚現金拝領通い」の延長線上の話だった。わが伯父は、その岳父が国立大分病院に入院、ムコの力を見せ付けるため、弟たるオヤジに見舞いの旅を命じたのだ。

 この大分までの旅の魅力は、トンネルがあることだった。日豊本線は中津どころか、宇佐あたりまで、まったく平坦な線路だから。大分駅を降りて市電に乗り、雨にぬれて探し当てた国立大分病院。金満兄の岳父のベッド脇で、オヤジはいつになく畏まっていた。

 10年ほど前だが、あることで2度、JAL、ANAで大分まで空路した。市電は当然なくホテルに向かうタクシーで、国立大分病院のことを聞いたが、運転手は知らなかった。
 よい子の修学旅行から実に半世紀。温泉は別府駅付近の名物「高等湯」に浸かってみた。ぬるいお湯だったが休憩の広間で横になると身体がジンジン火照ってきた。

 名にし負うあの別府温泉の効能だ。熱海を知った親族の一人が、「あんなん、別府に比べれば赤子っちゃ」と言ったが、別府の町並み、砂浜でさえ温泉蒸気が立ち上る。それに海の幸の素晴らしさ~~ああ、福岡支部、今年の別府、鉄輪温泉一泊旅行、すばらしいものになるでしょう。来年の江の島組も頑張らなくちゃあ。

2012年9月17日月曜日

日豊本線の記憶は新田原の桃に山国川の老人、朝鮮戦争

               
                                              阪東湖人


 まぁ、関東では甲州山梨県が本場だが、桃の季節になると、昭和20年代に北九州消費地向けに栽培されていた、日豊本線沿い新田原の桃も忘れられない。皮をむく前、硬い桃を水でよく洗って繊毛を落とした。新田原の桃の繊毛は、いまよりもっと長く密で、手に取るとタンポポのように風に舞った。これが皮膚に付くと炎症を起こしたのは~~紅顔の少年だったかせいか~~いまは厚顔メタボ、それに品種改良で、いまや桃にも繊毛はほとんどない~~

 まず、話は鉄チャンから。写真の蒸機の排煙板は門鉄型デフレクター、いわゆる「門鉄デフ」でヨオロッパ、とりわけ独逸蒸機と、本邦では門司鉄道管理局内の機関区でしか使われないものだった。日豊本線に限らず、鹿児島本線でも走った。ただし筑豊本線は複々線どころか3複線の石炭大輸送がメーン。デフのない貨物型蒸機が片手間旅客輸送にも廻された。

 怖い小峯先生が時たま、各教室を笑わせたのは、例の「団玲子のような美人~」だけではない。日豊本線満員列車でぶら下がって通学の先輩が、駅のポイント通過の揺れでレール脇の電柱だったか、転轍機レバーだかで頭をしたたか打ち付けた。それ以来、この先輩は”アタマが良く”なり、九大に現役で合格した~というような話だったが、果たして本当かどうか~

 オヤジは経済感覚がゼロだったが、伯父たちには才覚があった。中津に豪勢な自宅があった、すぐ上の兄も元はといえば高等小卒の後、大阪鉄道連隊に入営、現中国遼寧省に派遣され石炭に接したのがきっかけで財を成した。
 後除隊の戦後は、大阪の石炭輸送海運会社の重役となり、大阪と九州とを頻繁に行き来した。伯父の山国川沿い中津の宅は、元陸軍少将の邸宅だった。

 「イマニ」というその元陸軍少将は、伯父が買い取った邸脇の、自分の使用人がいた小住宅に住み続け、洗い晒しの旧陸軍礼服、鳥の羽根付き帽姿にステッキを突く老人で、まるでチンドンヤ~~実に残酷な戦後模様だった。
 子ども心にも珍しい服装のイマニ元少将に寄って行った記憶がある。子どもにすら「トージョーは決して悪い奴じゃぁない」と言った。陸士ではずっと先輩だったのだろう。

 この光景をずっと覚えているのは、1月に1回は、中津までオヤジと金満伯父のもとに日豊本線で通ったからだ。
 日豊本線の駅名はたちまちそらんじた~「椎田~松江~宇島~中津」と、いまでも覚えている。弟(オヤジ)の中津通いが兄からの金銭受領と知ったのは、大人になってからだった。そんなことつゆ知らず、当時は相当のお坊ちゃん階級でなければ乗れない自転車も、小学低学年でこの伯父から貰って得意になった。周囲の友達はみな貸し自転車屋に並んで借りていた。

 オヤジの呑み過ぎで、月曜日早朝の日豊線通勤列車で中津から戻り、そのまま小学校に通学したこともあった。日豊線通勤列車は座る場所はほとんどない貨物車改造車。また伯父からの大金でオヤジ殿は気を大きくしたのか、子どもでも腰が沈む柔らかい座席の2等車に乗ったことも。進駐軍兵士がその2等車に入ってきたときはビックリ。でもこのGIたちは、意外や持参軍用毛布を通路床に敷いて座った。これはあの京都修学旅行夜行列車で今度はわたしが体験した。

 ある駅で向かい側に進駐軍専用列車が停まった。病院列車だった。目の前で窓のカーテンを全開していたその光景も忘れられない。のちに見た戦争映画そのもの。車窓の向かい病院列車の中には、顔、腕、脚に包帯を巻いた兵士が、ベッドに横になっていた。小銃もそばにあったのだ。のちに知ったが、病院列車が向う別府には、米陸軍病院・保養施設があった。

 小学低学年でイトコとリヤカー遊びで右腕を骨折した。骨接医の元には、進駐軍兵士と愛人らしい日本女性が来ていた。暗い顔で先に帰ったその2人のことを骨接医は「アメちゃんは朝鮮前線に行くらしい。あのねえちゃんが『彼の腕を折ってやって』と懇願したが、そんなことは出来ないと断わったところ」と言った。

2012年9月12日水曜日

湘南江の島界わい ものがたり(15) 日本人妻名義で別荘を

              
                                              阪東湖人


 江の島の高台にあるコッキング遺構、わたしは、ガキ時代に探検した小倉北区中井浜の櫓山荘跡に似ていると確信しています。でも「牽強付会」とはこのことでしょうか。まぁ遺構、紀元早々のイタリヤ・ポンペイに、また紀元前はるかの印度、いやパキスタンのモヱンジョダロ~にまで時代は逆戻りですが~「どこも似たものであることは確か」~と、イヤハヤものすごい観察眼デス~
~ところで最近、尖閣問題で中国の「核心的利益」という言葉がシンブンによく出ます。サムエル・コッキングにとっても、この場所は、故国をしのぶ「絶対譲れない」心の拠り所だったのではないでしょうか。

 なんでもコッキングは、明治の初めに英貨2ポンドで別荘庭園を建てたようです。当時の2ポンドを邦貨に換算すれば相当なものだったでしょう~
~というか、明治初期の本邦通貨はまだ未発達だったとも。しかも、外国人は土地購入など出来ないから、日本人妻名義だった。

 ヨコハマでも、山手、元町がハイカラさんで有名ですが、一方、鶴見の高台が出船入船の眺望、交通の便が良いため、外人さんが数多くいました。いまは、埋もれた歴史になっていますが、皆さまが5年前に神戸北野界わいを歩かれた、あの光景に似たものだったのでしょう。 

 江の島にかかわる明治黎明期の外人さん~もうひとりは、ご存知、あの大森貝塚発掘のエドワード・モース。品川から東海道線、京浜東北に乗ると大森の右手に「大森貝塚どうのこうの~」という記念碑が見えますが、下の写真のように、江の島にも記念プレートがあります。
 明治初年の東大のお雇いガイジンのひとりで、この江の島に臨海実験所をつくったということです。モースは日本が気に入ったのか、生涯に何度も長期来日、明治黎明期の恩人のようです。
 若いころ、神奈川県内で御用聞きをやったわたしですが、モースが江の島に縁があったとは、これは知らなかった。
 
 富士山が初冠雪で、いよいよ秋になってくるようです。相模湾の海につかるのは、サーファーさんだけか。これからさらに冬、早春の光景は、来年6月梅雨時の江の島記念同窓会の参考にはならないかもしれませんがお付き合い下さい。
 もう時効かなぁ~季節はもう少し前だったか~40数年前に”宮中某重大事件”が、この海でありました。毒クラゲに、やんごとなき身分のお方が刺された~この項、これ以上は永久削除~
 まぁ、江の島記念同窓会ですから、ガイジンサンの話は以上オワリということで、次回はもっと本題の、みなさまのご関心がある江の島(いや、江ノ電島というべきか)のほうに進めようと思います。

2012年9月4日火曜日

新若戸道路開通60余年前 この地にいた旧制高校庭球名手 

              
                                             阪東湖人


 戸畑区と若松区を結ぶ「新若戸道路」が9月15日(土)に開通することになったようだ。半世紀前の若戸大橋の開通は、五市合併の前座でもあり関心も高かったが、今回は目立たない海底トンネルのことでもあり、どうであろうか。エンジニアの同期諸氏にはフツーのことだろうが、それにしても技術の進歩はすさまじい。

 この手(潜函式)の海底トンネルは、わが初めての海外旅行たる「英領(当時)香港の九龍トンネル」で実感した。それでも往路は下記写真、いまも人気らしいスターフェリーの、それも安価だが波で大揺れの二階席に陣取った。まぁ、映画「慕情」での記者サンと美人医師の悲恋物語”追体験”~~ではなく、野郎2人珍道中。アンチョビ入りピザを初めて食ったのも、この香港のイタリア食堂だった。
スターフェリーの写真
スターフェリー (トリップアドバイザー提供)

 ところ変わって洞海湾のフェリー、若戸渡船がいまも健在なのは、心強い。若松系明治学園ー小倉高組には負けるが、わたしも若松に縁があり、若戸渡船を数多く利用した。だがそれ以上に、この新若戸道路の戸畑側入口の川代岸壁地区、ここは幼児時代過ごした場所。そこが海底トンネル入口になったとは、若戸大橋どころではない~~隔世の感~

 ~もう60年以上も昔になる終戦から3年後のこと。オヤジがかつての部下と一緒に、この川代岸壁地区に戦中からあった松浦化学研究所を買い取り、合成(代用)ショウユを造った。ただし明大応援団あがりのオヤジにそんな芸当、あろうはずもない。旧部下の福井さんがいたからだ。のちに聞いた話だが、福井さんは京大工学部出のインテリ。幼児のわたしもよく遊んでもらった。旧制高校では庭球の名手だったとか。

 福井さんは海風が吹き抜けるこの地でも、庭球ラケットをよく振っていた。さらなるこの福井さんの意外な素顔はのちに譲るが、庭球ラケットは愛宕が丘時代まで福井さんとの懐かしい思い出としてわが勉強部屋(?)に飾っていた。写真右側木造建物が旧松浦化学研究所。眼鏡をかけた右人物が福井さん。上下写真は奇しくも同位置。60余年後、この土地の下が新若戸道路トンネル入口として掘り進められたのだ。

 その旧松浦化学研究所には、いろんな実験用器具があった。
 精密秤の分銅は極小から特大までズラリ並んでいたが、小さなものは幼児のオモチャには格好で持ち出して遊んだ。フラスコ、ビーカーとは名称はもちろんのちに知ったものだが、珍しく見え持ち出しては割った。親にはナイショのつもりだがバレバレ。
 長じての高校時代、高橋先生、木下先生の化学物理実験室の備品類が、実に懐かしいものに見えたが、その後のわが人生に結びつくことはなかった。
 その福井さんが旧松浦化学研究所購入を采配した。この化学研究所で合成ショウユを造る~~工学部出の福井さんにはオチャノコサイサイ。どんな味だった知らぬが、ショウユは貴重品で求める人が、朝早くから並んだ。空襲で焼け出されて食器も十分ないのか、毎朝、皿でショウユを求めに来た婦人は幼児心にも記憶に残る。
 当然、大儲けで、元化学研究所改めショウユ工場には、親族、オヤジの友人と、いろんな人が出入りした。友人で同じく応援団あがりM氏は、まもなく県会議員に立候補した。八幡に若戸地域は大票田、M氏が三輪トラックの荷台の上で演説する姿をおぼえている。もう故人のM氏、まぁ、「メガネドラッグかっぷくメタボ」に先立つ、郷土選出の大臣ともなった。

 オーストラリア先住民アボリジニーは、厳しい生活環境の未開時代、「モノすべて分かち合いで生きる」知恵を持った。先進国民はそれを”所有観念がない”と切り捨てる。まぁ、オヤジも、このアボリジニー的感覚というか、儲けた金はほとんど分け与え、使ってしまった。
 わたしが懐(なつ)いた福井さんのその後は~~病を得て早く亡くなったのだが~福井とは偽名で、本名は「ヤブノ」さんで、滋賀県の大地主の放蕩息子。奥さんと呼ばれる人がいたが、実は愛人だった。滋賀には本妻と子どももいた。わたしを可愛がったのは郷里に残したわが子を想ってのことだったろう。でも京大工学部卒は正真正銘で、遺骨は本妻さんが滋賀へ持ち帰ったと聞いた。人生いろいろ~~世に出る人の周りにも、さまざまな人生模様がある。


2012年9月1日土曜日

湘南江の島界わい ものがたり(14) 英大使館のカマクラ学校

                 


                                              阪東湖人


 ようやく航空写真、見つけました。大西洋越え、遥か寄せ来るメキシコ暖流に洗われる英コーンワル半島の名勝、セントマイケルズマウント。ものがたり(3) 「モンサンミッシェル?」で、偉そうに偉そうに、ケルトがどうのこうの書いたなかにある、「エゲレスの湘南江の島」がここなんです。
 ご婦人方あこがれの、おフランス・ノルマンディーのモンサンミッシェルの原形、というか~~このセントマイケルズは福砂屋、モンサンが文明堂~~長崎カステラになぞらえると、実に分かりやすい。
St. Michael's Mountの写真
St. Michael's Mount (トリップアドバイザー提供)

 英マイケルと仏モンサンは、英国海峡をはさんで330キロの対岸。しかも仏モンサンの沖合いには、濃い牛乳で有名なガーンジー、ジャージー島のある英領チャンネル諸島。
 ~ノルマンヂー公ウヰリヤム~~ロビンフッドの時代~~ブルターニュともども英仏、複雑な歴史と領土の変遷でしたねぇ~~あぁ、沖先生の授業にガッコサボって見た映画、黒太子エドワードを演じるエロール・フリンを思い出します。

 で第二次大戦緒戦、英軍のチャンネル諸島守備隊は、ご近所おフランス軍と並んでドイツ軍に早々と降伏したのに、「わが英国には、ヒトラーの軍は一歩たりとも踏ませない!」なんて、チャーチルの詭弁術。
 竹島も、こんな英仏国境関係を学べば、ネェ韓流オバサマ方、楽しい観光地にもなるのに~~。

 それで~~右の航空写真がわが江の島デス。なぜガイジンサンが、ニコニコ顔で江の島にやって来るのか、よく分かりますね~対岸も含め、セントマイケルズに実によく似ています~。
~~ものがたり(6)中井浜の櫓山荘跡が? の最後のほうにシタリ顔で書いた~
~一方、江の島の高台には、明治中期の英人貿易商サムエル・コッキングの別荘跡があるのです。~~なんて。さらにアイルランド系コッキングさん、遥かコーンウォルはセントマイケルズを偲んだのでしょう~~これ、間違いないデス。ホラ! 江の島の「コッキング苑」は、まさにこのセントマイケルズ耶蘇教寺院の位置にあるから。でも藤沢市教育委員会さん、こんなん知らないだろうなぁ。 

 ところでみなさまが6月7日に向うお隣の鎌倉には、英国大使館の日本語研修所。入ったことないですが、通称「カマクラガッコ」。かの日は市川雷蔵主演の活動写真「陸軍中野学校」を連想、少々閉鎖的な印象。極東担当英秘密情報員を養成するのではないか~~と邪推もします。

 でも、歴代大使閣下から書記官まで、東京大使館に勤務するものすべて日本語特訓とか。現ウォレン大使も卒業生。遥かに望む江の島を多分、故国のセントマイケルズに見立て、お勉強に励んでいるのだと思います。
 あぁ、茅ヶ崎の松下政経塾サン~~ココもなんや”怪しい人”ギョウサンの集団だけど、「カマクラガッコ」と交流があるとか~~

 一方、横浜の山手には、米国務省日本語研修所があります。ここは、アメちゃん外交官のほか、カナダ、オーストラリア、ニュージーランドと、英連邦外交官が日本語を学習しており、かなり開放的で、構内はニホンゴ厳守。通弁もどき不肖わたしもなぜか自信満々、ガーデンパーティに何度か行きました。
 ところで、英国大使館の「カマクラガッコ」がなぜ、自らの海外自治領たる英連邦諸国の外交官を教育しないのか、今もって不思議な閉鎖主義。そういえば「アメリカが最初の”英連邦自治領”だよ」と笑って言ったエゲレス人もいたなぁ。

2012年8月28日火曜日

槻田中学 八幡“マルキュウ” 井筒屋のエレベーターで

 
                                       阪東湖人


 7月末に小倉で亡くなった叔父の通夜葬儀の場で、半世紀ぶりに会ったイトコたちとの会話が残暑のいまも、まだ耳に残っている。北九州は八幡”原住民”を先祖に持つ者のつぶやき~またもや、愛宕が丘学区外通学生の話~~だが。

 イトコたちとの話題は八幡東区槻田川上流域にある斜陽「本家」のその後のこと。すでにほとんどの土地、山林を製鉄関連企業に売り払っていたものの、骨董と茶が趣味だった伯父が亡くなってからは、娘(いまやオバサン)は残りを売り、当時、八幡で一番の高級マンション族になったというのだ。
 なにしろ不便な場所だった。ガキ時代、本家の背後の山でタケノコ掘り。さらなる祖先は飲み水にも使った沢水、それが注ぐ庭の広い池には鯉が苦しそうに斜めに泳いでいた。「池の底が抜けたので水が浅い。そのうち直す」と言った伯父のコトバを思い出した。

 その池の記憶をマピオン地図・グーグルを操っていたら、八幡東区槻田中学のすぐそばに偶然、それらしき場所が。「地域で一番古く、庭は広いが見栄えの悪い家」の様子。いまは誰が住んでいるのか。当時の高槻小は八幡では珍しい木造で記憶がある。でも槻田中学がこんな間近だったのか。
 この槻田中学からの15期同期生が何人もいる。昔、一緒にタケノコを掘ったが、もう故人となったわが同年のイトコも槻田中出身。生前、彼は槻田中から愛宕が丘への進学者が皆、いかに優秀だったか、またそれぞれの人物模様も当時語った。それはいまも妙に親しみをおぼえる人物群となった。

 小倉で一番の高級マンションは、最近の二度の帰倉で見当が付くが、本家のいまやオバサンが購入した八幡で一番の高級マンションとは~~おそらく一族の知れた居住範囲から、しょせん縁のある大蔵界わい旧電車通り付近までが限度のはず。さびしい話であり、それ以上は聞かなかった。

 昭和20年代のこと。本家の伯父と偶然、小倉の井筒屋で出くわした。ニッコリ笑った伯父は「ちょっと待て」と言い、キャドバリーかバンホーテンだったか~~舶来チョコレートを買って貰ったことは忘れられない。

 それでも一族の行動は、やはり八幡中央区志向だった。みんなが“マルキュウ”と呼んだデパート八幡丸物。ここが吸引力。どっちが古いか論議があるが、藩政時代からの小倉の老舗呉服屋「かねやす」は昭和11年、本格百貨店として鉄筋7階建で再デビュー。一方、“マルキュウ”は、新築鉄筋4階建をウリに昭和7年にすでに誕生していた。

 八幡中央区は、背後の大製鉄所の物的人的エネルギーで発展した大正からの新興地域。製鉄の三交代シフト勤務に対応した飲食娯楽の各種店舗で活気があり、伝統の小倉魚町と競った。おまけに少年には「中央区でなければ」のものがあった。
 西テツ電車の方向切替ポイントの先は「▽というか~Y字型の上に横線というか」緩いカーブの軌道であり、それに合せたクモノ巣状架線。行き交う折尾行、砂津行、門司港行、幸町経由戸畑行と、電車のルートもさまざま、いかにも都会風だったから。背後の皿倉山も絵になっていた。さらに「東京や大阪には電車の十字交差がある。なぜ脱線しないのか?」と絵本で夢をふくらませた。

 2,3年前、板櫃町史研究のM君が教えてくれた「黒崎そごうメモリアル」(追記〉北九州市の百貨店史 http://isisis.cocolog-nifty.com/i/2005/11/post_3f0f.html で井筒屋開業に関するおもしろい記述を見つけた。以前書いた「8万人の小倉に東京下町5万人が」~造兵廠「民族の大移動」 に符合する話だ。
 
 「昭和11年10月6日、鉄筋地下1階、地上7階、2,497総延坪で宝町(現・船場町)に完成し開店した。~~(略)~~10数分で店内は各階とも超満員~~(略)~
~特に人気を呼んだのはエレベーターガールで、当時は東京からの転勤者が多数あり、その娘たちが採用されたため、スマートな服装と東京弁が好評であり、筑豊や中津方面からの腰弁当の見物客も殺到して、景気のよい開店風景であったという」~

 M君は拙稿に「下町5万人は多すぎる」と批判したが「なんせ11期の先輩がおっしゃることで~」と返した筆者。それにしても当時東京弁のエレベーター嬢が人気とは~~いまや、東京弁なるもの80歳以上の老婦人でないと、めったにお目にかかれない時代となった。

 元生徒会総務故久野君の口癖だった「出稼ぎで居付いた連中の溜り場トーキョー」。尻上がりアクセントの妙な単語群が会話を席巻してから久しい。それでも10年ほど前か、下町育ちの上司が、掛かってきた老婦人の電話に珍しく長話。「まだあんなしゃべり方、懐かしかったョ」とポツリ言ったことがあった。
 「中津方面からの腰弁当の見物客」も、ホノボノ光景~~井筒屋のエレベーターが上昇し始めた途端、イトコが「パンツが脱げる感じ」と大声。廻りが笑った。彼も当時、中津から来た小学生、昭和20年代後半のことだった。

2012年8月23日木曜日

湘南江の島界わい ものがたり(13) TVの現地紹介 際限なし

              


                                              阪東湖人


 ブッチャけた話、湘南の江の島、鎌倉、逗子の海、実は最上級ではありません。それは後背地の人口をみればご推測できるようにフツーの透明度。とても糸島の「芥屋の大門」の海、松原が広がる砂丘の古賀や宗像の神湊付近には及びようもない。美術部ご用達だった山口・青海島、またESSが使った安岡海水浴場と並ぶべくもない。前回記念同窓会でみなさまご存知、神戸の須磨、舞子。こちらには貫禄負けです。

 関東ではおそらく、房総(千葉)海岸がイチバンだと思います。多くの画家たちは、その「緑色の海」を、おフランスの海岸になぞらえて絵筆を振るいました。久留米出身でよう逝したあの天才画家の青木繁「海の幸」はあまりに有名ですが、館山の砂浜を描いたものです。実際、三浦半島から房総にフェリーで渡ると、途中で海の色が違ってきます。
 湘南の海はよくても~~小峯先生を思い出す「アオ」か、海が浅いせいもあってか灰色です。まぁ鎌倉の画壇の長老は~~故平山郁夫画伯の自宅アトリエにしても海辺からはるか離れた二階堂の谷戸。ご出身、尾道市の島嶼瀬戸田町をほうふつとさせます。
 まぁ、言うてみれば湘南海岸は絵筆を振るう場所ではない。要は首都圏人口を背景にした、娯楽・消費地。最近のウリ、鎌倉野菜なんてどこで採れるものなのか。ステーキ、すき焼きの葉山牛~~も。

 実は三浦半島葉山に隣接する横須賀市秋谷には、かつて作曲家の團伊玖磨、学生運動のバイブル「都市の論理」の羽仁五郎など”ブルジョア”族が住んでおりました。牧場があり、農園がたくさんあるのですが~鎌倉野菜類、多分ここから~~でしょう。ヨコスカ野菜、ヨコスカ牛じゃぁ、アメちゃんの海軍補給艦が陸揚げした冷凍野菜、冷凍牛ですもんね。

 これまたTV関東ローカルには門司生まれで「ふじさわ観光親善大使」のつるの剛士さんが、江の島から鎌倉まで、ブラブラ歩くという娯楽番組が。こんなTV模様はこれまでもたくさん、今後もまた出て来るでしょう。
 とっておきの店、芸能人をトリコにしたカフェ~なんて~まぁ「雨後のタケノコ」。各種レストランが次から次に、やがて客に飽きられ消え、またできる~~。

 ところで来年6月7日のこと。アジサイの季節です。現在、湘南ではもうアチコチに植えまくったせいで、鎌倉の寺など山の上まで~どこもここもアジサイだらけ~あんなんどこでも咲くよ~~という陰口すら。
 それにしてもブラブラ歩きがいいのですが、記念同窓会スケジュールでは貸切バスらしい。われら修学旅行の京の都は、かの盆地は四方に散らばる名所だったからこそバス。
 江の島鎌倉観光はまぁ、横流れルート~~江ノ電&ブラブラ歩きでも~~と、外野席では思うのですが~~まぁ、岩本楼 http://www.iwamotoro.co.jp/ 大宴会二次会、三次会と続いた徹夜老人には無理かもネェ。

2012年8月17日金曜日

湘南江の島界わい ものがたり(12) かしわめし 鯵の押寿司




                                              阪東湖人


 最初に~~N先生、ご活躍の様子、「ふらて会グループ やすらぎの森日記」をいつも拝読しています。いまは阿蘇谷の陶芸家K君ですが、彼がやっていた信州菅平ペンション宿泊ご一緒以来、すっかりご無沙汰しています。現在、篠栗在住か、いまや中国通のY君も菅平で同宿しましたね。「請事後承諾」となりますが、懐かしかったという湘南名物・大船軒の「鯵の押寿司」の写真を拝借すること、お許し下さい。

 で、話は駅弁に。以前、書いた東筑軒の「折尾名物 かしわめし」、コレも新幹線効果なのか、最近東京品川駅でも、かしわめしの「マガイもの」が登場しています。
 下記写真のホンモノ、今年、叔父の病気見舞いで帰倉。戻り新幹線に乗る際、小倉駅で買ったものです。
 この折尾かしわめしとともに、食べた後は箱に描かれた「にわかのお面」をくり貫いて遊んだセンベイ「博多にわか」は子ども時代、父親のみやげで待ち望んだものでした。

 関東では同様の名物駅弁として、冒頭にあるN先生の話。近年上京の帰途、羽田空港までの車中で堪能された大船軒の「鯵の押寿司」があります。
 鎌倉市大船にある大船軒。創業明治31年で、鯵の押寿司はサンドイッチ弁当と並んで有名です。鎌倉から藤沢エリアは当然、大船軒の「鯵の押寿司」販売圏です。

 でも話は複雑です。平塚以西が販売エリアのライバル、小田原東華軒の創業は明治21年。で東華軒が関西風の押寿司を駅弁「小鯵押寿司」として誕生させたのが明治36年。東海道駅弁の元祖と誇る東華軒のものは、口直しのシソ巻入りが伝統”レシピ”でもあります。

 大船軒びいきで口の悪い湘南人の「小田原のはヨォ~アジをケチって、シソ巻をまぜてヨォ~」との、アケスケ発言もみられます。が、このオトウサンのセリフ、御殿場線が東海道本線だった「国府津駅栄光の歴史」を知ろうともしない湘南族特有の藤沢鎌倉”中華思想”から出たものです。

 なんせ昭和初期まで国府津は展望車付き特急「富士」ですら停車した主要駅。要人、名士、淑女を顧客にした由緒正しい駅弁。しかも現在、東華軒のものは小田急グループの小田急商事が扱い、小田急電鉄内管内で販売します。

 このためか小田急片瀬江ノ島駅では、小田急とつながる東華軒に配慮、周辺は大船軒領域なのに当の「鯵の押寿司」は目立たない場所で不定期販売とか。N先生はどうやらJR鎌倉駅で大船軒の鯵の押寿司を買った様子です。

 ところで神奈川県湘南地域には、平塚江南高校という県立進学名門校があります。平塚育ちで高女系のこの高校に在籍した会社の先輩がいました。高校の後半は、親の九州転勤でクマタカ(熊本高校)に転校。あだ名は早速「トウキョー」と付けられたと笑っていました。

 熊本といえば、今年も深刻な水害で避難指示2万世帯以上にもなった暴れ白川の流域ですが、昭和32年にも大小河川が大氾濫、水前寺公園と江津湖も大被害を受けました。わたしが詳しいのは水害の直後の小学時代、父親とこの江津湖に行った経験があるのです。
 ~~話は弁当から離れ、脱線にも見えますが、まぁ言うてみれば現在の御殿場線のように、国府津から東海道本線を別れ、箱根山群をグルリ迂回したようなものです。

 で、この会社の先輩の平塚江南時代の同級生には、小田原東華軒の子息がいて、なにやら”余り”を友達に配ったので、通学の弁当には困らなかったというのです。この先輩、6歳年長で戦中幼児、戦後の食糧難を体験した世代。その高校時代は昭和30年代初めですから、わたしが父親のみやげ、折尾のかしわめしを待ち望んだ時期。駅弁はそれぞれに、ご馳走でした。
 嗚呼あの会社~~大阪本店vs.東京本社、先輩後輩入り混じり”脚の引っ張り合い”~デシタ~。でも、この先輩とわたしが食、酒と、妙に話が合ったのは、同じく九州の高校を卒業していた連帯感からでしょう。

2012年8月10日金曜日

稲津先生は"暴力制圧型"体育教師でなく原田泰造風でした




                                              阪東湖人


 関東ではBS朝日がやった「歴史発見 城下町へ行こう 城下町小倉~」。ふと見ると、懐かしい顔、声が聞こえました。その人物は「長崎街道 小倉城下町の会 副会長 稲津義行さん」~81歳だそうですが、大変お元気な様子が (液晶ではなく) ブラウン管画面から、うかがえます。
 稲津老はその昔、保健体育教師でした。菊陵中から昭和33年思永中に異動、3年間勤務されました。愛宕が丘でも先生を知る人は多いはず~というのも当時、小倉高入学者数は菊陵、思永の順でしたから。

 小倉の歴史を書いたもの見た、わたしの知る限り~「小笠原藩主は明石から~~」ばかりで、信州松本はあまり取り上げられないようです。
 が、小笠原の源流は信州松本、つまり小笠原忠真は松本藩2代藩主でありました。さらに明石藩主から小倉に移封されたこと、「歴史発見 城下町へ行こう 城下町小倉~」では、地図で示しています。

 ところで稲津先生の若かりし頃は~~お笑いタレントで俳優としてもナカナカのキャラ、原田泰造に度の強いメガネをかけさせたイメージ。ジャージのトレパン姿の熱血先生で、女生徒に人気がありました。
 いまは小倉高級中学の感の思永、でも当時は結構、荒れる学校で、まぁ、いろんなことがありました。
 表に出せない事件もあります。後で知った話も~~そうした環境で体育教師は”暴力制圧”型が多かったのですが、稲津先生はあくまで”原田泰造”ムードでした。
 
 で、この歴史番組で稲津さんが語ったハイライトは、小倉入りした初代藩主、小笠原忠真は、家康、信長のひ孫に当たる人物ということを分かりやすく解説したことです。
 小笠原氏は譜代大名として、九州の外様大名をウォッチしたとは常々聞いたものですが、譜代といってもそのグレードがダントツ。専門家はともかく、一般人は知らないことではないでしょうか(実はわたしだけだったりして~~)。

 小笠原藩は幕末、長州征伐に尖兵となって出兵、逆に攻め込まれ、自ら城を焼いた~~明治初年には会津藩家老の二男、郡長政らを預かった~筆頭譜代大名としての面目だったのでしょうか。
 
 稲津さんはお分かりのように、郷土史専門家。板櫃町研究の同期M君は会っていろいろ話を聞いたそうです。
 ご自宅が八幡東区の槻田川(金山川)上流、小学生の頃タケノコ掘りに行った山深いわたしの先祖の地というのも、個人的に親しみをおぼえるものです。

 ~なお、「歴史発見 城下町へ行こう 城下町小倉~」のDVD見たい人がいれば、簡易包装で送ります。管理人のS君が阪東湖人メールを知っています。ご連絡下さい。
みんなで回し見すればいいのでは。

2012年8月3日金曜日

湘南江の島界わい ものがたり(11) 小田急の祖と日銀法王




                                              阪東湖人


 いま絶好の海水浴日和。古い表現ですが浜辺はイモを洗うような人出~でも、湘南江の島界わいでは「海の家もおしゃれにヘンシンしている様子~~」と週刊誌が特集しています。なかでも鎌倉由比ガ浜海水浴場、ボードウォークまではいかないものの、ウッドデッキスタイルが主流とか。
 まぁトタン張り屋根にヨシズ~ゴザ敷き板張りで氷水~ラーメン焼きそばの時代は過ぎ去り~~ところで、来年6月6日の江の島記念同窓会は、この”年次大狂想曲”はるか前、喧騒はまったくないので~ご安心を。

 海浜には長らく住んだわたし。海水浴も十分、ああ南洋もタップリ体験で、盛夏に浜辺に近づく気分ではありません。で、テレビを眺めると関東地方では江の島が、毎度、定点観測のお天気カメラで映ります。

 さらに民放が、江の島海浜狂想曲を軽い”やらせ”というか、再現ドラマ風で放映していました。
 とにかく江の島エリアは、首都圏住民を小田急電鉄がかっさらってくる交通の便のよさ。まぁ、いろんな人がこの海浜に集まってきます。
 この小田急王国を築いたのが安藤楢六なる人物。別府生まれで旧制大分中(現大分上野丘高)出身。お役人目指すも高等文官試験に失敗、縁あって小田原急行鉄道に。
 戦後1948年小田急初代社長サン。なんと69年まで続けその後会長サン。”安藤テンノウ”でした。
 われわれ学生時代、「小田急は大分出身じゃなければ~オオイタ閥の会社~」などと言われました。

 同時期もうひとり、西独高級紙フランクフルターアルゲマイネを愛読、「法王」と呼ばれた人物が当時の日本国のサイフを握っていました。で、この法王サマは安藤テンノウの大分中の先輩。
 まぁチト落ちるが~~言うてみれば「堺町小出のかっぷくメタボに、中島小出の学者センセ総裁」のような関係。

 大分上野丘の名前は、高橋範義先生から「旺文社模擬西日本、またイチバンがウエノという上野丘の女生徒~」と、繰り返し聞かされました。叱咤する高橋先生には申し訳ないのですが、わたしには他人事のお経~~皮肉にも覚えてしまいました。
 十年ほど前空路大分に行った際、上野丘出のオバサマ方と、おフランス料理店で偶然ご一緒に。お近づきのネタに「旺文社模擬西日本の~」と、うかがったら、「アア~あの人ネ、九大医学部に~」で、話がはずみました。
 このオバサマ方、われわれより一学年下、この高級店のオーナーも上野丘出、おフランス料理での同期会でした。
 まぁ、今日の江の島界わい、それに箱根観光の隆盛は、東急、五島慶太と西武、堤康次郎のバトルの結果だけではありません。われら隣国、豊後別府温泉伝統の”観光ノウハウ”を、相模の国に導入という大分上野丘高の逸材、小田急、安藤楢六翁なくしては語れない。

 江ノ電の現社長、なんや篠笛が趣味という風雅さですが小田急出身です。江の島は別名、”江ノ電島”と、地元で言います。皆さまお泊り予定の岩本楼 http://www.iwamotoro.co.jp/ も小田急グループ江ノ電の、それはそれは強い影響を受けている様子です。
 ところで「若いお二人さん、この由緒ある宿屋はラブホテルではありませんョ!!」~~なんて、ネタミ深い、ヒヒジジイ的セリフはいけませんねェ。